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「平成」が開幕した1989年は、バブル景気がピークに向かっていた時期だった。

この年、生活保護受給者数は約110万人、人員ベースの保護率は0.89%

おおむね、現在の半分程度にあたる。

この後、バブル景気は拡大を続けたものの、1991年(平成3年)には「バブル崩壊」に至る動きが

出現し、翌年の1992年になるとバブル崩壊は否定しようもない流れとなっていた。

しかし1995年(平成7年)、生活保護受給者数は約88万2000人まで減少し、保護率も0.70%まで減少、

いずれも戦後最少となった。

バブル崩壊の影響が、生活保護において現れ始めるのは、1998年(平成10年)頃である。

その後、「景気回復によって生活保護へのニーズが減少した」といえる時期は、現在のところは

現れていない。

また、生活保護受給者の高齢化は日本全国の高齢化に先駆けて進行しており、2016年には

高齢世帯が50%を超えた。

同時に単身世帯の比率も増加しており、高齢の生活保護世帯のおおむね90%は単身世帯である。

日本の伝統的家族観や価値観を比較的深く内面化しているはずの高齢者に見られる単身化傾向には、

数多くの背景が考えられる。

最初に考慮すべき要因は、本人の家族観や価値観とは無関係な経済状況であろう。

2015年に65歳となる人は、バブルが完全に崩壊した1995年に45歳だった。その年齢でバブル崩壊の

影響を受けると、その後の生活設計は困難に瀕し続けたままであった可能性が高い。

このような時代背景を念頭に置き、生活保護と平成を象徴するトピックを眺めてみよう。


⭕トピックは、「クーラー」「外国人」「生活保護基準」「大学等への進学」の4つ


「昭和」の1980年代、東京の夏はなんとか扇風機でしのげるものであった。ひと夏に数回、暑さで

寝苦しい夜があっても、そのうちに秋が近づいてきた。

しかし1990年代に入ると、様相が変わってきた。

現在も続く地球温暖化と気候変動の影響である。

1994年、生活保護で暮らす1人暮らしの高齢女性が、担当ケースワーカーからクーラーを取り外して

売却することを求められた事例が広く報道された。

女性はクーラーを保有していたのだが、そのケースワーカーはあくまで、厚労省の方針を理由として

取り外しと売却を指示した。

女性は従ったが、この年の夏、猛暑により倒れて病院に搬送された。

言うまでもなく、生活保護は最低限度といえども、「健康で文化的」な生活を保障するための制度で

ある。身体や生命が猛暑のため危機に晒されるようでは、制度の趣旨が実現されているとはいえない。

とはいえ「最低限度」である以上、「タワーマンションの高層階の住まい」「1食1万円のランチを1カ月に3回」「メルセデス・ベンツの新車」といったものは認められにくい。

テレビ・冷蔵庫・洗濯機などの耐久消費財については、「その地域の一般世帯の70%程度が保有していれば、生活保護世帯にも認める」という基準で判断されてきた。

猛暑や極寒は、空調機器の普及率と無関係に襲ってくる。

高齢者をはじめ、自力での体温調節に困難を抱えた人々、あるいは体力のない人々は、最初にその打撃を受ける。生命を守るための生活保護制度が、生命を奪い、健康を損なうものであってよいのだろうか。

生活保護制度には、「必要即応」という原則がある。

この原則は、1950年の制度発足時から設けられている。

飢えていれば食糧、凍えていれば住居と衣服が必要なのは言うまでもないが、当時の生活保護のコンセプトは、すでにそのような「最低限度」にとどまっていなかった。


制度をつくった厚生官僚・小山進次郎氏は、「個人または世帯の実際の必要を考慮して、有効かつ適切に」運用が行われるように、「必要即応」という原則を設けたのである。1994年、クーラーを題材として、このことが日本社会に再確認されることとなった。


現在、外国人に対する生活保護の適用は、永住者・定住者・日本人の配偶者等・永住者の配偶者等・特別永住者・難民認定された難民に限定されている。

この適用は、1990年(平成2年)10月に厚生省が示した口頭通知に基づくものだ。

ほぼ「平成とともに始まった」と考えてよい。

同年3月、神戸市でスリランカ人留学生(当時29歳)が脳内出血に倒れた。

幸い、神戸市内の病院で治療を受け、順調に回復し、1カ月足らずで退院した。

問題は、留学生が無保険状態だったこと。

神戸市役所は、医療費を生活保護費として支払った。

医療だけの生活保護(医療単給)は、制度発足時から広く利用されてきた制度。

ところが国は、生活保護の適用を認めなかった。

神戸市は、本来なら受けられるはずの75%の国庫補助を受けることができず、やむなく全額を負担した。この結果を不服とする市民たちが国を被告として訴訟を開始したが、敗訴が確定している。

1990年に厚生省が示した口頭通知は、その後明文化され、現在の厚労省の判断基準となっている。

日本国憲法の対象が「日本国民」であることを考えれば、何ら問題ないのかもしれない。

しかし、国籍不明で医療保険に加入しているかどうかも不明の病人や負傷者に対して

「医療は提供せずに放っておく」という対応は許されるだろうか。

ハーフなど、見た目の「日本人らしさ」が薄い日本人もいる。

むろん、医療保険に加入していれば、このような問題は発生しない。

日本の国民健康保険は、3カ月以上の在留で加入が可能になるのだが、このことはしばしば

「外国人に不正利用されるかもしれない」という関心の対象となっている。


生活保護費(生活保護基準)に関して、平成は受難の時期だった。

2003年、老齢加算の段階的廃止が決定されたのを皮切りに、両親のいずれかまたは両方がいない

子育て世帯を対象とした母子加算の廃止(民主党政権下で復活したものの、2018年に実質削減)

生活費(生活扶助)本体の引き下げ(2013年~2015年、2018年~2020年)、家賃補助(住宅扶助)

および暖房費補助(冬季加算)の引き下げ(2015年)、その他見えにくくわかりにくい多数の小さな

引き下げが、生活保護で暮らす人々をジワジワと苦しめ続けている。

特に「狙い撃ち」されているのは、子育て世帯、とりわけ複数の子どもがいる世帯。

1992年(平成4)年、生活保護のもとでの高校進学をめぐる「中島学資保険訴訟」が開始された。

生活保護のもと、2人の子どもを育てていた病身の両親は、子どもたちをせめて高校に進学させたいと

強く願い、学資保険で進学費用を積み立てていた。

ところが、いざ子どもが高校に進学しようとするとき、一家が在住していた福岡市は、学資保険の

返戻金を召し上げてしまったのである。

生活保護のもとでの高校進学は、高校進学率が80%を突破した1970年に認められていた。

しかし、就学費用に関しては全く考慮されておらず、「行きたければバイトをして自力で」という

運用が続いていた。

学資保険の積立も許されないとなると、高校進学が実際に認められているとは言えないだろう。

2005年、中島学資保険保障は勝訴が確定した。そして、生活保護のもとでの高校生活は、職業生活を

支えるための「生業扶助」によって、不完全ながら経済的に支えられることとなった。

2019年も終わろうとする現在、大学等への進学率は80%を超えている。

しかし生活保護のもとでの大学進学は、いまだ1969年までの高校進学と同様の状況にある。

日本人は無意識のうちに、生活保護のもとで育つ子どもたちに「生活保護の子どもなりの人生」を

望んでいるのだろうか。


「令和」に突入した2019年、生活保護に関する明るい題材は見当たらないまま。

今後、生活保護において、昭和と平成の“ツケ”が噴出するかもしれない。

福祉を公共が担うことは、高齢化の進む日本には期待できないかもしれない。

福祉を企業に担わせるためには、日本人に購買力が必要なのだが、今後急激に向上することは

期待できない。

最後の手は福祉を家族や地域に担わせることなのだが、家族が力を失い、地域も疲弊が続いている。

「令和」は、生活保護の重要性を再認識し、充実させる動きが加速する時代になるかもしれない。

もしもそうなれば、企業から福祉サービスを購入することも、家族や地域に福祉を担ってもらうことも

難しい数多くの人々が、最後のセーフティネットに抱きとめられ、ほっと一息つくことができる。

「健康で文化的な最低限度の生活」、言い換えれば、ゼイタクではないけれども普通の生活を営み、

穏やかに「人生100年」を過ごすことが日本のすべての人々の現実になれば、「令和」は元号に

込められた意味のとおり、花咲く時代となるかもしれない。

生活保護のチャレンジと日本社会のイノベーションは、これからだ。

そう信じたい。

(フリーランス・ライター みわよしこ)






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1、出口を決める。 

2、運が良い。(組織化、敵を作らない)

3、仕組み(資産)を作る。

4、自分の強みを作る。

5、心身を強くする。








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