普段は中学校で数学を教えています。
「教育」って一言でいっても、人によって表している意味が違ったりしますよね。
って思ったりしました。
例えば、
「勉強を教える」
ときも
「教育をする」
といいますし、
「しつけをする」
ときも
「教育をする」
といったりします。
はたまた、「心を豊かにする」
こともまた、
「教育をする」
といいますね。
便利なんですよね。
いろんな意味を含む言葉を使うのって便利なんですよ。
若い子の「やばい」
みたいなものですよ。
なんでもかんでも「やばい」。
というように、
あらゆる成長を「教育をする」と世間では使っています。
最近では「卍(まんじ)」という言葉もありましたか?
(もう流行はおわりましたか?)
腹が立つときも、嬉しいときも、やるせないときも、悲しいときも、面白いときも、
なんでもかんでも「やばい」とか「卍(まんじ)」とか言うのと同じように、
学習をすることも「教育」
道徳性を育むことも「教育」
しつけも「教育」
生活態度を整えることも「教育」
規則を守ることも「教育」
健康を保つことも「教育」
褒めるのも叱るのも「教育」
食事も「(給食)教育」
そうじも「(清掃)教育」
ついでに、定期的に運動することも「(部活動)教育」
本当に便利な言葉です。
そして、「教育」という言葉とついてまわるのは「学校」です。
「学校」は「教育」をするところですからね。
ではでは、
さきほどの「教育」をする役目は
「学校」にあるということですよね…
学習も、道徳も、しつけも生活態度も、規則も健康も、褒めるのも叱るのも食事も掃除も運動も、学校の役割ですか?
学校はなんでも屋さんですか。
子育てのことなら、なんでもおまかせ、子育てコンビニですか。
なんでもまかせられると、勘違いしてしまいませんか?
コンビニが24時間営業をやめて批判があるように、
学校が時間外対応をやめて批判をしてしまいませんか。
コンビニが今までのサービスをやめて批判がくるように、
学校が今までやっていたサービスをやめて批判がくるのではないかと心配です。
そのサービスは、本来は家庭で教えることであったとしても、世間は批判するのではないかと心配です。
コンビニでいつでもなんでも食べて飲めることで、豊かさを通り越して生活習慣病を助長しているように、
学校も、いつでもなんでも子育てを代行することで
そのうち(今や、もうすでに)役割が過多で世の中の人になにかの病気(?)を助長させているのではないかと心配です。
本当に、今だからこそ、考えてほしい。
学校はなんでも屋さんじゃないんです。
子育てコンビニじゃないんです。
「こんな責任放棄の先生にうちの子は見てほしくない」
と言われてもいいので、
世間につたえさせてほしかったので、書いちゃいました。
あなたの近くの学校も、
あなたの近くの先生も、
なんでも屋さんじゃないんです。先生である前に人なんです。
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〔写真取りましたよー〕
今回は画像編集してないですが、
カフェで起業を考えている
友達の作ったシフォンケーキ取りました。

美味しそうですよね。
ご馳走様でした。
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