本著は著者の中野剛志が国家公務員に勤めている時に部下の起業に関して助言ができなかったことを背景とし、起業を希望する若者に読んでもらいたいと言うことを目的に書いた本である。

内容はベンチャー企業とイノベーションを、日本が起業するにあたって目標としているアメリカについての
ベンチャー企業の実態
シリコンバレーの歴史的背景
イノベーションを実行するにあたっての社会的立場の制約条件
金融化による短期利益追求 
からなる「恐るべき実態」を説明することで、「若者がベンチャー企業を次々と起こしイノベーションを生み出すことが経済をよくする」といった俗説を完全否定している。

起業をするかしないか迷っている若者やシリコンバレーによる経済の活性化に希望を持っている人に読んでほしい一冊である。

私も若者によるイノベーションを起こすためにベンチャー企業を起業することが経済を活性化しないと言う著者の意見に賛成である。

お金を持っていない上に経験のない若者が無理して起業するよりは、お金を持っている上に社会人として経験値の高い高年齢層が会社を立ち上げ、求人を出し、若者を雇うことが経済を活性化する一歩であると思う。

週刊ダイヤモンドの調査によると“日本の個人金融資産は1500兆円、うち6割の900兆円を60歳以上の世帯が占めている”と言う結果が出ている。
これは安心したいから、備えをするという心理によって生まれたものであろう。

高年齢層に対してお金を使うような政策を打ち出し、その一環として起業を促進することが今後の課題になるだろう。

本著は著者エドワード・ルトワックが日本は江戸時代から現在に至るまで、大きく分けて3つの高度な戦略文化・システムを構築していた国であるという主張から始まっている。

一つ目は「江戸システム(日本1.0)」である。
江戸時代に家康は親藩・譜代・外様大名の配置による街道・関所の整備、参勤交代や内戦を抑えるための徹底した銃の管理などによる包括的なシステムの構築により、300年も有効に機能した。

二つ目は「明治システム(日本2.0)」である
黒船の来航によって近代化に直面した日本は従来の「江戸システム」を捨て、政治制度、経済、軍事、教育に至るまで全てを受け入れることで、包括的な近代化された新しいシステムを構築した。

三つ目は「戦後システム(日本3.0)」である。
日米同盟の維持やそのメンテナンスによって国防費を削減することで、日本の軍事的敗北を経済的勝利に変えることができるシステムを構築した。

しかし著者は1.北朝鮮の脅威、2.地経学的戦争、3.少子化の三つの問題において日本が次のシステム(日本4.0)を構築する時が来たと主張し、それぞれ対応策を述べている。

一つ目の北朝鮮の脅威については北朝鮮がICBM(大陸間弾道ミサイル)を開発したことで、同盟に頼らずに自らの力で国を守らなければいけない状況がやって来たため、実践的な対応力を身につけるべきだとした。

二つ目の地経学的戦争については、冷戦後、軍事を中心とした世界から経済を中心とした世界に軸が移っていることや軍事同盟が経済において意味をなさないことから、国家として民間企業を支援したりインフラを整えたりすることで国民の就業率をあげるべきであるとした。

三つ目の少子化については、安全保障を掲げる上で必要なものは人口減少であると考え、不妊治療の無償化といったチャイルドケアを行うべきだとした。

日本が世界から見たときにどのような立場をとるべきかを戦略的に考えることに興味がある人に是非読んでもらいたい。

私は本著を読み、韓国の朝鮮半島統一に関しての意識がないことに問題があると感じた。トラブルを起こさないように北朝鮮に触れないことには、いつまでたっても北朝鮮の脅威は続くだろうし、朝鮮統一をすることで短期的に経済は悪くなるが、長期考えれば、国土がふえ、人件費が安いので世界中から投資され経済が良くなるだろう。
今後の韓国の動きに期待している。

本著の中で東は自由についてリベラリズム(自由主義)とリバタリアニズム(自由至上主義)という二つの思想的立場があり、政治思想を考える中でリベラリズムとコミュニタリアリズムとポストモダニズムの三つを中心に議論が進められていていて、リバタリアニズムについて真剣に考えている人間が少ないことに疑問持っていると常々主張していた。

本来、他者のことも考えず、所有権を基盤にしてあとは市場に任せればいいのでは、といった乱暴的な発想を持つリバタリアリズムが「思想」として考えられてない。
しかし東はそういったリバタリアニズムは情報技術の発展の著しい現実の社会を議論する上で、無視のできない非常に重要な思想であるという。

理由としては、自分の世界に閉じこもり、社会の特定の価値観にとらわれないリバタリアニズムを持つ人々はコミュニティ同士の接触を恐れ、他者が自分の思うままにコミュニティの設計をすることを許容するので、社会設計における価値観とインフラを区別して考えることができるので様々な思想が多くある現代社会に即した考え方だからだという。

この例を私の経験に当てはめると、私(リバタリアン)はソーシャルゲームのオセロニアをプレイすることや美味しい飯を食べるのが好きだ。しかし、課金できなくなることや、美味しいトンカツを食べられなくなることや死んでしまうことは絶対にいやので、お金や福祉が必要である。こういったリバタリアニズムを考慮することで幸せになるために必要最低限なインフラは導くことができるのだ。

一方大澤と鈴木は価値観とインフラを切り離すことはできず、価値観が先行してしまうと主張した。理由はインフラの設計のための民主主義の話し合い(価値観のぶつけ合い)において皆、誰もが趣味的な自己表現のために話しているのではなく一つの真の結論(インフラの設計)に向かって話しあっている事実があるのだからリバタリアニズムを組み込む必要がないという。

結局のところ、話し合いの結論として価値観を抜きにしたリバタリアニズムを考慮して考えたインフラにおいても問題は発生するし、インフラを設計するための価値観のぶつけ合いにおいても問題は発生するという結論になっている。

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