‪音楽をやっちゃいけない人などいないと思う。‬
‪不倫を犯した人でも殺人犯でもヤク中でもやっていいと思う。‬

‪「そんな奴がやっている音楽を聴きたい人などいない」と言う人がいるとしても、
「聴きたい人がいないなら音楽をやっちゃいけない」と言う決まりもないと思う。‬

‪自分だって何かされたら「音楽をやめてほしい」と思うのかもしれない。‬
‪だとしても、個人的な感情での許せるか/許せないかと、音楽をやっていいか/悪いかはまた別の話だと思ってしまう。‬

‪知り合いのバンドマンがニュースになった。‬

‪不祥事のお知らせと共に、バンドを解散することと「けじめとして今後音楽をやらない」というようなことが書いてあった。‬

‪本人が元々やめることを考えていたのならそれはそれでいい。‬
‪でももしそうじゃないなら、いつかまた音楽をやり直してもいいのになぁと思った。‬

‪「そんな奴がやっている音楽を聴きたい人などいない」と言う人が、たくさん居るとしても。‬





‪THURSDAY'S YOUTH‬
‪篠山浩生‬

拡大自殺のニュースが鳴り響き、「一人で死ね」という言葉がこだました。

「一人で死ね」という言葉は社会的弱者から出てくる言葉ではないように思う。
加害者を擁護するわけではないが、僕は「サイコパスでない限り、事件を起こすまでには何かしら社会的な要因が含まれている」と思っている。
だから「事件は何故起きたか」という議論にも意味はあると思っている。

だが現実は「事件を起こすような奴がどうかしてるし絶対悪、以上。」で終わらせる人が多い。
加害者がどうかしてるとして、どうかしてしまった原因は何もなかったのだろうか。
その原因は100%加害者にあったのだろうか。

インターネット上は「自分が遺族だったら許せない」という意見で溢れていた。
僕がもし遺族だったら「あなたはそもそも遺族じゃなくてよかったね」と思ってしまいそうだ。

一つ疑問に思うのは「遺族だったら」という仮定で話す人だけが異様に多いことだ。
多数の人は「遺族だったら」という想像はできるのに、「加害者だったら」や「被害者だったら」という想像はできないように見える。

「自分は不良品ではないから大丈夫」「自分が事件なんて起こすわけない」「自分が事件に巻き込まれるわけがない」と考えているとしたら、それは浅はかではないだろうか。

仕事はなく、友人もなく、家族からも疎まれ、金もない。そして精神を病み、死を考える。
そういった想像をできない人が多いのか、それとも考えたくないだけなのか。

加害者についてのニュースが流れる。「引きこもり」「ゲーム依存症」などの情報がどんどんと出てくる。

そんなニュースを見たとき、「自分は引きこもりではないから大丈夫」「ゲーム依存症ではないから大丈夫」と終わらせるのか、
「何故引きこもりが事件を起こしたのか、引きこもりだから事件を起こすのか、引きこもりじゃなくてもその人は事件を起こしたのか、」と思考を展開させていくのか。

それだけでも、かなり違うように思う。

最終的に加害者が死んでしまったことで「最悪の結末」と呟いている人もたくさんいた。

でも、そもそも事件は起きた時点で最悪なのだから。





THURSDAY'S YOUTH
篠山浩生

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