月別アーカイブ / 2019年06月

GODZILLA(Ꮶing of MONSTER)を見てきました。

いゃー、ハリウッド制作だけあって迫力ありました。

昭和の頑固オヤジ世代は、ゴシラやガメラで育ってますからね…思い入れも半端ないです。

それにしてもGODZILLA以外の怪獣の顔が恐ろしかったw

モスラもラドンも、私が見てきた中ではピカイチ!

特撮もあそこまで仕上がるとリアリティが凄いですね。

考えてみたら映画館で映画を見たのも数年ぶり。最後に見たのは『レッドクリフ』ですからね。

ポップコーンとコーラは定番ですね。今はトレイが椅子の肘掛けに収まって便利だ!

また何か映画を見たくなりました。

世恩


昔々、玄奘地方に三蔵と言う名の出家者がおりました。

当時長安は、疫病や悪天候により、人々は病と飢餓に苦しんでおりました。

その光景を長安の外から眺めていた三蔵は、
『佛に仕える見でありながら、ちの人々を救えぬとは、なんと無力な我なのか…』と嘆き、地面に額を擦り着け泣いておりました。

その時天空より、一筋の光が三蔵を照らしたのです。

その光に気付き上を見上げると、弥勒菩薩が居られました。そして菩薩様は三蔵に向かって導かれたのです。 

『三蔵よ、今より玄奘三蔵と名のり、天竺に出向き、大乗の教え、佛の法を学び、長安を救いなさい』と…

その日より三蔵は天竺へと旅立ちました。
様々な苦難を乗り越え、天竺への道程の半分を過ぎた辺りで、行き倒れになっている僧侶に出会いました。

三蔵はその僧侶に向かい聞きました『どうされたのですか?』と聞いたところ、
『私は天竺の僧侶です。遥か彼方にある長安の街が、苦しみに昏れていると聞き及び、正しい佛教の教えを以て救いに行こうとしていましたが、仏縁なく病に倒れ、志半ばの状態です』と…

そこで三蔵は閃きました。これから自分が天竺に行き、真の教えを学ぶには何年もかかるであろう。それよりも既にそれを会得したこの方に、長安へ向かって頂いた方が、長安は早く救われる…と。

この考えをその僧侶に伝え、薬や食料、水に至るまで布施をさせて頂き、長安へ行ってくれるように頼みました。

するとその僧侶は質問されたのです。『長安迄はまだ先があります。私にこれらを授けると、あなたはどうするのですか?』。

すると三蔵とは朗らかな表情で『もしこの布施が理由で、私が天竺に辿り着かぬのなら、それもまた仏縁。辿り着いても仏縁です』と。

それを聞いた僧侶は、『私があなたに差し出す布施は何もありません。なので今天竺で流行っている呪文をお教えしましょう。この呪文を唱えれば、あなたの苦しみや迷いから、必ず佛様は救って下さり天竺に辿り着いくでしょう』。

さぁ三蔵様、唱えなさい

羯諦羯諦 波羅羯諦 

波羅僧羯諦 菩提娑婆訶 

この呪文を受け取り、その後三蔵は幾度となく苦難に直面する度に、この呪文を唱え、それを乗り越えながら天竺に辿り着きました。

そしていよいよある寺に大乗の教えを乞う為に石段を登り切ると、そこには…

あの行き倒れの僧侶が居りました。
『あ、あなたは…長安に向かわれたのではないのですか?』と、驚きつつ聞きました。

すると僧侶は、何とも言えぬやさしげな顔で
『三蔵よ、よく辿り着いた。我が名は聖世観音菩薩なり』
『三蔵、お前が大乗の教えを学ぶのに、その資格を試したのだ『』
『よく来た、本日より大乗の教えをここで学び、真の佛教をあなたの国に広めなさい』と申されたのです。

その後、三蔵は正しい教えを取得し、生まれ故郷に戻り、大乗の教えを解りやすく人々に広められました。

世恩

心の「あかり」を漢字で表すなら
「明かり」・「灯り」がありますね。

明かりは、月のあかりの意味。
ぼんやりしている明りを指し、ハッキリとしない(させない)まま観る、事です。

灯りは神仏に捧げる灯火(照明としての明かり)です。

即ち闇を照らす為に、手にする明かりであり、普段は見えない、見ることの出来ない佛様を探す、又は仏様から見えない自分を照らす、等の意味があります。

煩悩を照らすなら「明かり」であり、救われたい心を照らすなら「灯り」となります。

私達仏教徒が、誰かの心に灯すのは「明かり」であり、当然三世の仏様や菩薩様が、彼岸へ導く為の方便も「明かり」です。

何事もぼんやりとした姿(真理)が、仏教をの教えを学ぶキッカケには適しています。

あくまでも押し付けるのではなく、「いい加減、いい塩梅」でお伝えするのが受け止めやすい筈です。

その先に、理解しょうとする心が芽生え、自分なりに救いをを求める姿勢になったなら、自らが「灯り」を点せば善いのです。


南無阿弥陀佛 観世音菩薩 合掌 拝託

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