月別アーカイブ / 2019年06月

自分の本質を変えよう…
このままではいけない…
己の本質を思う度に反省と後悔が…

仏教に触れ始めた頃、拙い知識で、
あれこれ試しましたが、
大きく変わることなく結局は…
苦を必要以上に膨らませ、焦るばかり。 

変われないのなら、そのままの自分で
あるがままに、なすがままに
佛様にお縋りさせて頂くしかないかと、
手を合わせ、祈るものの、自分の本質の
余りの醜さに戸惑い続ける現在(いま)なのです。

祈りも願いも叶わぬか…凡夫の私は
信仰を捨ててしまいたくなる夜があります。
この繰返しの日々の中で、今を悩み過ごす人と出会い、まるで己に聞かせるかの様に、
佛の教えを口にする私が居ます。
そして更なる菩薩行へと、半歩ながら進ませて下さります。

私には私と相応の苦しみを抱く
出会い人全てが、観音様なのです。

「世恩よ、この人の苦しみこそ、己の苦しみと知り、仏に手を合わせるのです」!

そう自らを問いながら、他者の心に佛様とのご縁の種を、撒かせて頂いている日々です。

私には私にしか出来ない信仰があります。
その信仰心も無常です。
無常故に日々様々な人達と出会えます。
即ち、私は何時でも観音様に会えているのだと考える様に、気付けばなっておりました。

感謝

南無阿弥陀佛 観世音菩薩 合掌 拝託

昨夜のお話。一部自慢話に思える箇所がありますので、ご了承下されば幸いです。

昨夜、恋や仕事等に悩む人達と、居酒屋へ出向き会食(会酒?)。

程なくお隣の席で飲んで居られたサラリーマン(5名様)のお一人に、いきなり乾杯を、とグラスを差し出されました(( ⊙_⊙)←多分私はこんな顔w

とは言え断る必要もなく、さり気なく乾杯。
するとその御仁…
「私達は出張で東京に来てね…明日の朝はで次の出張さきへ移動するんですよ」と、話し掛けてけました。

わたしは当たり障りのない「それは大変ですね、お疲れ様です」と…

するとその方は「私は大した学歴もなく働いてきましてね…努力が実り、会社ではかなりの地位までこれたんです」と…

更に「会社では、○○のカリスマとか言われて…でもこの年になっても出張ばかり」と…

会話を休む間もなく
「あなたは宗教の人なの?」
私「まぁそんなものですね」と…

すると「仏教だよね?」
「はい、少しだけかじる程度ですが…」

御仁、襟を正して…「宗教者ってさぁ、立ち姿や言葉にカリスマ性がないと、人の心は救えないよね」、と…
そして「あなたの話を聞いているこの人達の目がさぁ、あなたに癒やされてるっていうか、尊敬してるっていうか…尋常じょなないよね」と…

私「そんなことありませんよ、私は私のまま」
「さしたる知恵もなければカリスマ性もありませんから」…

そう言葉をお返しすると「謙虚なのか偽善者なのかぁ…わからない人だ」と呟いて、また乾杯w

宗教に、仏教に於いてカリスマ性を持っておられるのはお釈迦様だけ。
それ以降の先人達は、品格と知恵(あくまでも智慧とは書かず)であり、救い人なのですよ。

様々な佛は、カリスマ等と括りを付けられるものではなく、無二の存在。

勿論会社や活動団体ではカリスマ性のある人物は必要かもしれませんが…カリスマは一つ道を間違えると、多くの人を苦しみに迷わせてしまいます。

カリスマ性からなる宗教等、全く必要としないものです。
あくまでも。個々の信仰、個々の考えを大切にしながら、神仏は損害するのだと説いていきたいものです。

因みに私、カリスマ性の「か」の字もありませんから〜ザンネーンw

世恩

私には愛娘が一人居ます(当年22才)。
この子が母体に入った時、私は女の子が生まれる事を強く願いました。

しかし母体主は「こればっかりはねぇ…」と、私の想いとは違い、冷静に生まれてくる事のみを楽しんで居たのが昨日の様です。

さて母体に新たな命が芽吹く時、その子よ性は決まります。

この瞬間は当に奇跡です。

例えば私を例に話しますと、私の命の連鎖と証が、自然の力により性が決まるのです。

そして我が子はいつの日か、将来を共にする異性と出会い、新たの命の親となり、その二人から私の生きた証となる命の連鎖がまた生まれます。

そしてこの連鎖は私がこの世から消えたにせよ、私の娘から始まる私の命は、姿や環境を変えながらも連鎖し続け、受け継がれていきます。

先々の事を考えるなら、わたしも含めた命の銀河を作る、とでも言えるのではないでしょうか?

男女を分別することなく、必ず命は連鎖するのです。この連鎖の原点こそ、とでも奇跡なのです。

私はただ、私の子孫達に安全を、佛様にお祈り申し上げる事しかできませんが、この命の奇跡を考える時、佛様と同時に自然界にも感謝するばかりです。

世恩

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