月別アーカイブ / 2019年06月

前置…

舎利子は真理を会得出来ず、その悩みを尊師へ教を乞う為、会いに行きます。

しかしお釈迦様はお休みされていたので、代わりに観音菩薩がその問いに答えます。


仏説摩訶般若波羅蜜多心経

(お釈迦様が話された、完成された智慧から心を導く道筋)

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄

(私が完成された智慧を実践していた時、悩みの原因となる心に作用する五つの原因は実態のない、人間の認識に過ぎず、それを知れば一切の苦厄は消える)

舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
空即是色 受想行識亦復如是 

(舎利子よ、認識するものの実態はないのである、即ち実態のない世界観こそ、認識の真理である…心が受る想いや行い、認識も又、混沌とした見えない世界に真理はある)


舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中無色 

(舎利子よ、諸々の規則も実態のないのであり、生まれるず、滅せず…汚からず浄化もせず…増えることなく減ることなく…故に実態のない認識も目に見えない真理によるのである)


無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

(それは目に見えずに受ける想いと行いと認識であり、見るもの聞くもの匂いや味さえも体が受け取り認識していて、実はその本質は目に見えないのである)


無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽(見えていないだけで限界はあり、意識の限界も見えていないが在るが、実態の真理は、見えていないだけであり、よってその真理は尽きることのない、人間から見れば無限の世界観である)

乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 

(老いや死は、見えない世界に至ることであり、そこでは老いも死も尽きることはなく、そこに苦は集められ消え、見えない完成された智慧は、見えない世界で得られるもの故に)


菩提薩埵 依般若波羅蜜多故

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想

(正しき教えに向かう者よ、心よ心配するなかれ、心配しなければ恐れることもない、一切は夢の様に意識の遠くへ捨て去りなさい)


究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故

(三世の仏が悟りの世界へ至れりは、完成された智慧を得たからであり)


得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多

(人智を超えた最高の教とは、完成された智慧に依る真理故である)


是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪

(大いなる神仏の、大いなる真理の呪文、それを上回る呪文は見えない世界観そのものでありそれこそが呪文である)


能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多

(一切の苦を除く、偽りなき真実とは、完成された智慧のことである)


即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経

(さぁ唱えなさい、行きなさい行きなさい、真理を掲げて正しき世界へ、菩薩行を歩む者に幸あれ、彼岸へ渡る心の道筋…)


※現代的に訳してみました(世恩)

私が思うにはですね…心が本当に強い人とは、


自分の弱さを知ってる人であり、不安を抱えてる人であり、その上で他者と自分を比べることのない人だと考えます。


如何なる宗教の教えであろうとも、日々の生活から眺めれば、実に非現実的なところは多く、


仏教に限れば、ただ将来(それも人間には実感できない遠い将来)に成仏を約束しているのみであり、


実生活に於いては、只煩悩の軽減を手助けしているに過ぎず。


帰依するほど深みに填まらなければ(笑)、

疑うことなく菩薩行を歩むことは出来ません。


私でしら、様々なご縁(奇跡と偶然)を頂いて、初めて今があるのです。


それは私が何かに対して凄いのではなく、たた業が深い(悪行)だけであって、

普通に暮らす方々には、経験もされなければ実感も湧かない話ばかりが宗教論であります。



でも、でもですよ!?

何時もどこかに不安がある、何かに怯える、何かに躓く、他とは違う…等を考えていらっしゃる人の方が、


常に万が一地に備え、心の準備や行動の抑制、他者への配慮を兼ね備えていらっしゃる分、


何に対しても強い心の持ち主なのだと思うのです。



日々、私達を襲うトラブルは避けたくても避けれるものではありません(縁起故に)し、更に予期せぬ出来事には、常に自分に奢りのある…私は強い人間…と自慢される方であればあるほど、いざといったたいしょが出来ないものです。


もし仏教に帰依する者が、

「あなたは仏教で救われます」と言い切るのであれば、それは気の遠くなる未来の話。


今を生きる私達を救うことが出来るのは、

心を常に大切にしているのかも人の経験やお話であり、それを聞く者が、

いかにそれを自分の中に生かすかに掛かるのです。



佛様の尊い教えは、宇宙の真理を説くに止まり、私達はそれを学ぶことで、自らの煩悩を軽減する努力を、命の連鎖の中で、僅かでも善い結果になることを祈るしかありません。


一般的に「弱い心の人」こそ、今の時代を生きる猛者なのです。



世恩

宇宙に存在する「ダークマダー」をご存じですか?


宇宙に存在する、全ての物質の中に於いて、ずば抜けた質量を持ち、

光を発せず、未だその正体を解明されていない(推測はされてはいるが…)、

宇宙全体の3割を占める不思議な物体。


私達を構成する、宇宙最小の物質「素粒子」の1種でありながらも、やたらと重い素粒子だそうです。


光を発しないのだこら当に【闇】…

しかし、この闇の不可思議な力で、銀河はバランスを保ち、

銀河同士の結び付き(銀河団)を構成しているので、

闇の存在を頭ごなしに否定は出来ない、という事実であります。



さて私達の心にも陰陽は存在します。

得に『心の闇』と単語で表されると、何とも厭な気分になるのは私だけではないと思います。


笑顔の下に隠された心の闇…

優しさの裏側に秘められた心の闇… 

過去のトラウマ…

異常な迄の欲望…

心の闇は色々とあります。


果たしてダークマダーの様に、この光を否定する心は、私達に必要なのでしょうか?


実に微妙な判断です。

光と闇は共存出来るのでしょうか?


この答えを求めた時、如何なる宗教であろうと、それに携わる者からは、言い切れるほど、否定されるだろうと考えます。


光と影…

神と悪魔…

天津と黄泉…

佛と魔羅、当に対比する存在として否定されています。


そしてそれ故に、幸不幸の原因の様に語られるのです。


しかし私達は宇宙の欠片的存在。そしてこの命も宇宙の産物。


仏教徒の私からするなら、佛とは宇宙意志であり、その意志の一部にダークマダーがあるなら、闇も必要悪と考えて然りです。


もし宗教的理論の中(教義)に、正しき姿しか語られなければ、「正」は疑問の対象となるばかりでしょう。


闇をどう表現するかは、その語り部の感性に任せるとして、

人の心に、僅かでも光や温もりを届けたいのであれば、心の闇は、実に必要な存在として語らなければならないのです。


そして私達は、自らが抱える心の闇があればこそ、

自らを鼓舞し、そこから抜け出す様々な知識を学び、

他者に救われ、その感謝として、他者を思いやる心が生まれるのです。


そう闇ありきて、光は差して来るのです。



南無阿弥陀佛 観世音菩薩 合掌(拝託)

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