月別アーカイブ / 2019年04月

観音菩薩は女性的お顔をされているので、どことなく慈愛を含む、女性的信仰も多いのですが、実は男性であります。

お釈迦様のご出家前のお姿がイメージされている様で、衣服も装飾品も王子様そのもの!

即ち菩薩行の間は、煩悩ありきの姿として表されているのです。

然しながら、阿弥陀の仏国土の番頭(2番目の地位)であり、何時でも成仏出来るにも拘わらず、色々な体験をしてみたい、と言うことで、時に娑婆に現れては、様々なお姿になり、私達を救済してくださる、何とも冒険好きな男子であられるのです。 

同じ様に「天照大御神」も古事記による所では、女性神として表現されていますが、どうやら男性神であられる様です。
天照大御神は太陽の象徴である事から、命を育むその効力をもって、命の母=女性として崇められている様です。

古代日本では男尊女卑であり、男性=陽、女性=陰とされておりましたので、それを基本に考えると天照大御神は男子系神の可能性は強くあります。

天照は海照(渡来文明を神として表現したので)とする意味がある、とする意見もあり、命の源である海を照らすもの、即ち女性を照らす男性、と解釈しても良い気もします。

また邪馬台国の卑弥呼を称えて、天照大御神とした、と言うご意見もあり、
確かに卑弥呼の語源は日の巫女ではないかと考察すれば、天照大御神との関連も繋がり、卑弥呼=女性→天照大御神=女性、の図式も成り立ちます。

しかし観音様に於いては、変化をするとされている為、時に男性らしく、時に女性の為に人をお救いになられるので、非常に微妙な表情でお姿が描かれています。

正に中道のお姿なのです。
迷いを無くされたお姿です。
可もなく不可もなく…美もなければ醜もなく…
男でもなく女でなく…
全てに分別・差別なく立ち振る舞われるのです。

私は観音信仰の一人です。
どの仏様よりも観音様が大好きです。
守本尊は千手観音です。
知らぬ土地に行くと、観音様を探すほどです。
また偶然に立ち寄った所にも、何故か観音様の仏像があったりもします。

もし観音様が女性であったなら、男子の私としては極めて心トキメクことでしょう…煩悩

南無阿弥陀佛 観世音菩薩 合掌 拝託

おはようございます。

平成最後の日、平成天皇陛下ご退位の日が生憎の雨です。

もしかすると天の意志が泣いているのかもしれません。


そして明日、令和天皇ご即位となりますが、ここで天空より陽射しが注したとなれば、当に神憑りですね。


天皇陛下は国の象徴であり権威そのものです。


政治的、経済的地位に非ず、即ち権力を持たず、国民に「和と安」を齎す、正に太陽の存在です。


宗教に囚われることなく、私達を魂止(ひと)として見守って下さる、そんな温かみのある存在です。


神話を信じるかはさて置き、

私達の生活(心)の中心であるのです。


様々な主義主張があるので、今書いているこの文章は、あくまでも私個人の意見ですが、みなさんがどう捉えるかは不問として、世界的に認められた、その人間性にこそ、天皇としてのお立場を揺るがないものにされていると思います。


天照大御神(海照大御神)の子孫としての役割を、歴代天皇の中では、誰よりも私達を照らして来られた平成天皇陛下に感恩を捧げ、令和天皇陛下には、更成る日本国を、国民を慈しむ姿であられる事を望みます…


南無阿弥陀佛 観世音菩薩 合掌 拝託

私が神仏への信仰をお薦めする時に、よく聞かれる質問が有ります。


それは極めて単純な欲から生まれる発想です。


「世恩さん…信仰すれば、何か良いことがありますか?」ムムムッ(o*_ _)o


この問に対し私は、素直に答えています。

「見返りを求める信仰など、存在しない…」と。



ご利益(とも言われます)が無いなら、なんの為に信仰するの?かとも…


何の為にではなく、質問者ご自身の為、だと説明するしかありません。

無いとは、見えないけどある!と言う事ですからね、とも付け加えます。


私の信仰心の根底は、同じ事を何度も繰り返してきましたが、


「私達は、この地球が存在する、宇宙の一欠片であり、私達の存在も命も、更に運命さえ、宇宙の意思による1秒単位の繰り返しの上に成り立つ」、


と信じている。

依って神仏とは、宇宙よ意志であると…


まぁこの辺りのお話は、文字でで書くには誤解を招くので、割愛させて頂きますが、

簡単に申し上げるなら、何故生まれたかではなく、この先どうなるかでもなく、奇跡の確率で私達は生まれた、その事象は、命の連鎖によるものなので、これに感謝すること、これこそが信仰なのです。


感謝する対象は、食物連鎖を支える衆生だけでなく、地球そのものに、自然全てに、そして宇宙の1秒に…


その延長には先祖へ、神仏へと心は真素直に「ありがとう」が言えて、その時に心穏やかなる1秒を頂けるのです。


大いなる喜びも、度重なる悲しみも、妬みや悔しさも、全て一纏めにして、私達が生きていく上に於いて、宇宙意志から注がれた慈愛なのです。


二極の事象や命かあってこそ、私達は命を実感し、喜怒哀楽を実感出来ます。


信仰すると言うことは、他に対しての感謝であり、感謝すると心の余裕から生まれる余裕が、心が揺れることなく、怯えるこなく、悲しむことなく、前へと進める糧になるということです。


ここ迄くれば、信仰心の見返りはあります。

しかしそれは物欲の対象ではなく、信仰することで、その者が身につけた優しさであり、その優しさが苦を抱く人を救うことです。


この優しさに救われた人からはいつの日か、見えない感謝の波動が、気持ちが、信仰者を何らかの形で救うこととなり、この連鎖こそ信仰の見返りとなるのです。


様々な宗教の勧誘や有り難い(?)教えの中で、信仰の先には、成功や富を約束する一文がありますが、それは煩悩を擽り、数の論理を正当化する詭弁です。


どの様な宗教であれ、それを信仰したい人の心に、ありがとう、がなければ、何ら役にもたちません。


寧ろ、信仰など持たずとも、ありがとう、の心がいつも有る人は輝いているものです。


佛様の見えない救いの手は、いつも貴方に向けられて伸びてきています。それに応えるのは、理屈を覚えるのではなく、素直に感謝する事の他、何もないのだと覚えていて下さい。



南無阿弥陀仏 観世音菩薩 合掌 拝託



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