以前、奥多摩の方に行った時のことである。その日は東京でも自然を感じられるところに行ってのびのびしようという話になり、電車を乗り継ぎながらそこそこの時間をかけて友人と奥多摩に出かけた。

駅に着きあたりを見回すと、灰色のビルが立ち並ぶ景色とはうって変わって、青々とした葉が目についた。ひとたび息を吸い込めば、少し湿った風の香り。人の匂いよりも自然の匂いが真っ先に鼻に飛び込んでくる。これはいい日になるぞと思った。しかし少し歩き、さあいざ奥多摩というところで私の足はピタリと止まってしまった。
 

「熊出没注意」

 
そう書かれた看板を発見してしまったのである。こうなるともうダメだ。その瞬間、「もう私は絶対に今日熊に遭遇する」という気持ちになってしまった。
 
「ちょっと待って、やめとこう」と私が言うと、友人は「え、なんで?」と言った。あたりまえである。確率論で言ったら熊に遭遇する確率の方が俄然低い。でもそういう話ではないのである。一般的な確率がいくら低くても、私はそういう"くじ"を引いてしまう方の人間なのだとなぜか思ってしまうのだ。その感じは「もしかしたら」の域を越えて、もはや確信に近い。自意識が過剰だなと思う。馬鹿だなとも思う。でもダメなのだ。自分でもよくわからない。
 
中学生の頃、電車の中で少しコワイ雰囲気のお兄さんと同じ車両に居合わせた時があった。満員とまではいかないが、座席はすべて埋まっていて、ぼちぼち立っている人もいるくらいの混み具合の車内で、なぜかたった一人私が絡まれた。みんなと同じように下をうつむいて眠ったふりをしたのにだ。いい時には選ばれる側の人間にはなれないのに、こういう時だけ選ばれる。「なんか腹立つ」そう言われた。

高校生になってからも、友人とパン屋に行きさあ食べようとなった時、私のパンにだけ謎のちぢれ毛が入っていたりした。あとはなんだ、赤坂のオフィス街のど真ん中でなぜか犬のうんちを踏んだり、喫茶店で頼んだケーキが腐っていたり。あとは割と最近の話だと、タクシーの運転手さんに「君は最初から2メーター以内だと思ってたよ」と言い放たれたり。とにかくぼちぼちそういうことには恵まれてきた。
 
まあそれだってべつにみんなにもあることなのかもしれない。だから私が気にしたって仕方がないのだが、事前にその可能性があると知りながらその地にわざわざ足を踏み入れることはしたくないというか、どうしても躊躇してしまうのである。コワイお兄さんもちぢれ毛もうんちも腐ったケーキもタクシーも、そうなることを知らなかったからまあ仕方ないでまだ済む。でも、知っているのにも関わらず奥多摩の地を突き進み、万が一熊に遭遇したとしたら、私は一生成仏できずに終わると思う。だからいやなのだ。
 
「後悔のない人生を歩むために、今は熊だけは避けときたい」などとゴニョゴニョ言って、結局その日は奥多摩まで行ったにも関わらず奥多摩の地に足は踏み入れないで帰ることになった。友人には心底呆れられた。「あん時奥多摩行っときゃよかったって絶対後悔するよ」とも言われた。その通りである。その確率の方が全然高い。実際、そのあとめちゃめちゃ後悔した。
 
繰り返すが、何がそこまで私をかたくなにさせるのか、そういう「もうダメだ」のスイッチが入った時にどうして0か100かでしか考えられなくなるのか、自分でもよくわからない。でも制御不能になってシャッターがバーン!と降りたら最後、もう何も知らなかった頃には戻れないのである。
 
めんどくさいやつだなあと思う。自分だったらこんな友人付き合ってられないよとも思う。でもその直感に抗って突き進もうとすると、もう一日中胸がザワザワして足がブルブルしてダメなのである。熊が出没する確率よりも遥かに当たる可能性の低い自分の直感をなんでこんなにも信じられるのか、マジで意味がわからない。
 
とはいえ、最近はそれも少し変わってきた。人生長いから「今はいいや」と思っていたのだが、そうでもないぞと思うことがぼちぼち増えてきたからである。明日死ぬかもしれないし、ひょっとしてひょっとしたら熊と友達にだってなれる可能性だってある。そしたらめちゃめちゃ面白いぞ。だったら安パイばかり取っていてもつまらない。たまにはグッと力を振り絞って、前に進むのも大事だなと思う。
 
でもさっき「奥多摩の熊」で検索したら、黒くてガッチリとした熊の画像がたくさん出てきた。やっぱり怖いかもしれない。こればかりはもう一度行ってみなければわからない。
 
まあ何が言いたいかっていうと、ゴールデンウィークでどこかにお出かけするという方は、くれぐれもさまざまな安全に気をつけてお出かけくださいね。皆様どうぞ素敵な休日をお過ごしくださいませ。私は桃鉄でもやっときます。