先日、いつものように散歩をしていた時のことである。幅が一人分くらいしかない狭い路地の坂道の途中で、一際目を引く黄色い花を見つけた。

黄色い花というと、個人的にはタンポポやひまわり、菜の花やチューリップなど、"茎と葉っぱと花"のイメージが強い。しかしそれは、なんだかウネウネした変な寝癖みたいに枝垂れた枝に、可愛らしい花をちょこちょこつけている感じだった。

立ち止まってしばらく眺めていると、数メートル先で立ち話をしていた年配の女性が話しかけてきてくれた。「それ、雲南黄梅っていうのよ」どうやらその人が育てているものらしかった。

その名の通り、雲南黄梅はもともと中国の雲南省に自生している花だと言う。「かわいいでしょ、やっと咲いたの」と言いながら笑うその人はちょっと誇らしげで、どこか懐かしい感じもした。

この一年で、私はよく散歩をするようになった。いわゆる散歩コース的なところではなく、住宅街とか、今回雲南黄梅を見つけたような小さな路地などを好んで歩いている。

誰かに見せびらかすわけでもなく、でもたしかに愛情を込めて育てられた花や木たちがそこにはある。ガーデニング と言うほどお洒落なものではないが、それがいい。景色として完成されていないからこそ、より一つ一つの花の個性が際立って見える。

もうだいぶ前に亡くなってしまったが、母方の祖父は植物を育てるのが好きだった。庭中植木鉢だらけで、最終的には2階の一室も植物部屋と化していた。

小さい頃の私はそれを見て、どうせならもっと綺麗にすればいいのにとずっと思っていた。せめて植木鉢を統一するとか、花の色ごとに分類するとか、グラデーションにするとか、せっかくなら人を招き入れられるような可愛い庭にするべきだ。そうじゃなきゃ何のためにこの植物たちを育てているのか、意味がわからなかった。

でも最近になってようやく、それだけが植物の楽しみ方じゃないということに気付いた。植物の圧倒的な生命力は、良い意味で本来人の手に追えるものじゃない。予想外の方向に伸びる枝、まだらに咲く花、放っておけばすぐに茶色くなっていく葉っぱたち。答えがないから面白いのだ。

完成形をイメージして、それに向かって庭や軒先を整えていくのももちろん素晴らしい。でも、どんな感じになるのかなあと想像しながら、その期待をいろんな方向に裏切られながら過ごす毎日も、きっといいもんだと思う。そして自分以外の誰かがその面白さや美しさに気づいてくれた時、なんとも言えない嬉しさがそこにはあるのだろう。説明できないものを分かち合えた時の喜びは、いつだって特別だ。

そういえば、兄は祖父によく尋ねていた。「これは何の花?」「なんでこんな伸びるの?」私はいつもそれを眺めているだけだったが、祖父がとても楽しそうにしていた記憶はある。ああそうだ、雲南黄梅を教えてくれたあの人の笑顔は、祖父にちょっと似ていた。

時々ふと思う。天国にもWiFiって飛んでるのかしら。そしたら祖父に写真を送ってあげたい。ちょっと不恰好だけど生き生きとした雲南黄梅、きっとあなたも好きでしょう。

(写真ここにも載せたかったのですが、思いっきり住所が写っていたのでやめておきます。すみません)