「ちょっとお父さん、何急に立ち止まって」


女性はそう言いながら、隣にいる男性の腕を引っ張った。どうやら二人はご夫婦らしい。二人とも歳は70くらいだろうか。

品のある膝丈のスカートに同色の首元のスカーフが素敵な奥様と、少し肩の余ったジャケットにツイードのハットがよく似合う旦那様。とてもお似合いの二人だ。

 

突然男性が立ち止まったのには理由があった。駅地下に設置されたテレビ画面に思わず見入ってしまったのだ。テレビの横には看板が立っていた。「東横のれん街 69年。感謝の春。」

 

渋谷駅周辺の再開発に伴い、東急百貨東横店は明日の2020年3月31日をもって営業終了となる。その地下の食料品売り場にある東横のれん街も、場所での営業は明日までとなる。4月16日からは渋谷ヒカリエShinQs移転しての営業再開なるらしい

 

テレビ画面で流れていたのは、その昔に放送されていた東横のれん街のCMだった。画質やテイストからして、間違いなく私が生まれる前の映像だろう。(調べてみたところおそらく昭和5代に放送されていたものらしい)私にとっては初めて見る映像だったが、その男性にとっては懐かしの映像だったのだ。

 

「早く行きましょうよ」と今にも言いたげだった女性も、気付くと男性の腕を掴んだまま立ち止まっていた。そして黙って二人で、流れ続けるCMを眺めるのだった。そこにはただただ穏やかな時間が流れていた

 

しばらくしてから、男性の方がポツリと懐かしいな」と言った。女性も静かに「そうね」と言った。やがて二人はどちらともなくくるりとテレビに背を向けてエスカレーターの方へ消えて行った。振り返った二人の顔には小さな微笑みが浮かんでいた。

二人にはこの場所にどんな思い出があのだろう。女性はエスカレーターで上っている間も、ずっと離さずに男性の腕を掴んでいた。

 

これは、少し前に私が見たありのままの光景である。ドラマのような、でも本当の話だ。不安なニュース慌ただしく移り変わる街の中で見つけた、あたたかな光のようだった。

 

べつに何が言いたいわけでもない。ただ、こんな毎日の中にもそれぞれの物語があって、刻まれて行く思い出があるということを忘れたくないと思ってここに書いた。

 

思うように身動きの取れない日が続く中、それでも何かしなくては、こんな時だからこそ何かしなくてはと焦ってしまう方も多いと思う。私だって同じだ。でもだからと言って何からやればいいかわからなかったり、どうにもできないことだってある。そんな時は、ただ立ち止まって思い出を振り返ったらいい。私たちはいつだって、そうやって新しい季節を迎えて来たはずだ。

 

いつもと少し違う春だからこそ、いつもと同じように春に思いを馳せる。そんな過ごし方も悪くはないのではないだろうか。