私は小学校時代を三つの学校で過ごした。

はじめに通ったのは、ドイツの小学校であった。
父親の仕事の都合で二歳でドイツに引っ越し、日本人幼稚園に通った後、日本人小学校に通った。私の住んでいた地域は日本人の家族が多く、30人以上のクラスが各学年3クラスあった。ドイツ語の授業も週に一回くらいだったので、ほとんど日本の小学校と変わりはなかった。地域柄なのか、のんびりした子が多く、平和な空気しか漂っていない学校で、本当に良い思い出ばかりが思い出される。

しかし、小学校二年生の途中で、また父親の転勤が決まり、中国の小学校へ転校することになった。
こちらも日本人小学校で、中国語の授業も週に一回程度、やはりのんびりした子が多かった気がする。転校してすぐになんとなく友達ができて、間もなくあった学校祭でも、友達と浴衣を来て色々見て回った記憶がある。しかし忘れてはいけないのが、この浴衣は母の手作りであったという事である。

ドイツから転校してきた私は、浴衣を持っていなかった。もちろん、中国に浴衣は売っていない。今のようにネットショッピングも一般的ではなかったし、すぐに手元に準備できる環境ではなかった。しかし、友達は「学校祭では、仲良しのみんなで何かお揃いにしたいから、花ちゃんも浴衣着ようよ」と言ってくれていた。学校祭は二日後、今から買って準備するのは到底無理な話であった。でも、どうしても浴衣が着たかった。幼心に、とにかく新しい環境に早く馴染みたかったのだ。

私は母親にダダをこねた。はじめこそ「無理よ」と言っていたけれど、母親はしばらくすると、「わかった、なんとかする」と言ってくれた。それから、母親は寝る間も惜しんで、実家から持ってきた大きめのシーツのようなものを使って、手作りの浴衣を作ってくれたのだった。帯は同じマンションに住んでいる人から借りた気がする。友達は皆ピンクや水色など鮮やかな色の浴衣を着ていたが、私は真っ白いガーゼのような生地に、細かい紅葉か何かの柄があるだけの浴衣だった。確かに地味ではあったが、間違いなくあれは世界で一番素敵な浴衣だった。

しかし、たった二ヶ月ほど中国に住んだだけで、また父親の転勤が決まり、日本に帰ることになった。
転校するということは勿論事前に両親から知らされていたが、教室で「関取さんが来週転校することになりました」と先生がクラスの皆に報告した時に、私は思わず泣いてしまった。人前で泣くなんて大嫌いだったので、先生や友達に「どうしたの?」と聞かれた時、私は「転校するなんて聞いていなかった」と嘘をついた。皆は「寂しいよね、悲しいよね」と言ってくれたのだが、私はそれで泣いたわけではなかった。浴衣がなくても自信を持って学校祭を楽しめるようになるまで、この学校にいられなかったことが悔しかったのだ。なんとなく皆に混じって、一応昼休みに算数セットを使ったおままごとに参加したりもしていたが、「たまにはドッヂボールしようよ」と言いたかった。いつか言えたら良いな、と思っていたのだが、それができないまま転校するのが悔しかったのだ。

日本に帰国してから通うことになった小学校には、私がドイツに行く前、本当に赤ちゃんの頃によく一緒に遊んでいた友達が通っていた。ちなみにその子には二つ上の兄がいて、私の兄と同級生で、家族ぐるみでずっと仲良くさせてもらっていた。今考えると、転校の多い私や兄を気遣って、両親はその兄弟と同じ地域に住むことにしたのではないか、と思う。

転校してからすぐ、「プレゼント」というテーマで作品を作ろうという図工の授業があった。
私は赤ちゃんの頃から、「うさちゃん」という名前のうさぎのぬいぐるみを持っていて、絵を描くときはとにかくその絵ばかりを描いていた。よし、「うさちゃん」を主人公にした絵を描こう、と思ったのだが、周りを見渡すと皆は宇宙人の絵を描いていた。当時、私のクラスでは宇宙人の絵を描くのが流行っていたらしかった。私はすぐに迎合して、皆と同じような宇宙人の絵を描いた。理由は簡単である。またいつ転校になるかわからない、とにかく一刻も早く馴染みたい。ただそれだけであった。中国の小学校から転校することになった時、あんなに後悔したのに、結局同じことを繰り返してしまったのである。

しばらくして、なぜかその絵が横浜市の小学校の図工展のようなものに入賞したと聞かされた。
私のそのあまり思い入れのない宇宙人の絵は、関内にあるホールに展示されるとのことだったので、休日に家族で見に行くことになった。一応その絵の隣で慣れないピースをして写真を撮ったものの、それだけ済ますと、「はい、じゃあもう行くよ!」と母はさっさとそのホールを出ようとしたのであった。

母は、「上手に描けてるねぇ」とは言ってくれたが、それ以上のことは言わなかった。私が広告の裏にマッキーで「うさちゃん」の絵を描いた時の方がよっぽど褒めてくれたなぁ、と思うと、その心理が私にはよくわからなかった。普通、子供が何かで賞をとったら、親というのは、「すごいわね!さすが私の子!」みたいな感じで褒めるものなんじゃないのか? そんなことを思ってとぼとぼと母のうしろを歩いていた。

すると母が、「花ちゃん、どうして宇宙人の絵を描いたの?」と聞いてきた。私はドキッとして、正直に「皆が描いていたから」と答えた。すると母は、「だよねぇ、でもお母さんは、宇宙人の絵で賞をとる花ちゃんより、うさちゃんの絵をニコニコ楽しそうに描いている花ちゃんが好きだなぁ」と言った。少し、泣きそうになった。

それから、学校生活でもなんでも、もっと自分らしくしようと思った。
お腹が空いていたら、胸を張って給食のおかわり戦争にも参加した。(結果、すごく太った。)めんどくさかったから、風呂に入らなかった。(それは毎日母親に怒られていた。それは「らしさ」じゃなくて「怠惰」だと。)
でも、そこから急激に毎日が楽しくなったし、今でも大親友でありこのブログにも何度も登場しているRちゃんとも急速に仲良くなったりした。あの時、母が私の宇宙人の絵を、賞をとったからと言う理由で褒めちぎっていたら、きっとそうは行かなかったと思う。


さて、なぜこんな話をしたかと言うと、私は今、曲作りに完全に煮詰まっているのである。
もう長いこと、頭にドーンと石が乗っかっている。これまでにはなかった、重く、大きい石だ。どんな歌詞を書いても、どこかを切り取られて、本来とは違う解釈をされたらどうしよう、ということばかり考えてしまう。無数の槍から自分を守るために頭に乗せた石のせいで、自分がどんどん押しつぶされて行く。腕を伸ばして深呼吸することも、空を見上げることも、忘れてしまいそうになる。

そんな時にはいつも、この小学生時代の転校のことを思い出す。そしてその度に、我に返るのだ。

新しいアルバムを出したり、新しい仕事に挑戦をしたりすると、新しい評価が下される。それは嬉しいこともあれば、悲しい事だってある。でもそれは、たまたま誰かに、その時馴染まなかっただけの話かもしれない。時間をかけてでも、きちんと自分らしくいたら、いつか分かりあえるかもしれない。手軽に愛されようとしたり、安心できる場所にあぐらをかいていては、いつまでたっても始まらない。失敗しながら、たくさんの仲間を作って行けば良いじゃないか。
私は死ぬまで、転校生だ。