電車内で本を読むのが好きである。
自宅よりも、カフェよりも、なぜか集中して読むことができる。
時間が永遠にあるわけじゃないのが良い。周りがちょっとうるさいところが良い。ここを心地良いものにしようだとか、ゆっくりくつろぐ場所にしようというおしつけがましい気概が無いのが良い。あくまでも乗客を目的地まで運ぶための空間であり、だからここで何をするかは適度なモラルを持ってあとはお好きにどうぞ、というあの無関心さが良い。家だと色んなものが目についてあれこれやりたくなってしまうし、カフェだと滞在時間と飲み物の残量とのバランスをとるのが難しい。とにかく私にとって、本を読む空間として電車内は何かと「ちょうどいい」のである。

とは言っても、「ちょうどいい」という感覚は主観によるところが多いので、必ずしも共感していただけるとは限らない。しかし、「ちょうどよくない」という感覚、つまり「間違ってはいないけれどなんか違う」という感覚は、共感していただけることもあるのではないだろうか。


少し前、都内の某お洒落タウンの服屋に入った時のことである。
ビンテージ風の重い扉を開けると、アロマオイルだろうか、今まで嗅いだことのないような香りに包まれた。上手く言えないが、なんというか強烈にお洒落な香りである。

そして、私を出迎えてくれるのは勿論香りだけではない。にこやかな店員と目が合った。



「ようこそ」



…強烈なディズニーランド感である。


無意識にいらっしゃいませを期待していた私が悪かったのかもしれない。常識にとらわれすぎていたのかもしれない。客を出迎える時はいらっしゃいませと言わなければならないなどと法律で決められているわけではないのだ。そもそも、この店員だけかもしれない。いかんいかん。

数歩進むと、他の店員と目が合った。



「ようこそ」


…ほう。お前もか。どうやらここでの挨拶はこれで決まっているらしい。「いらっしゃいませようこそ~」の略だろうか。半端ない違和感ではあるが、出迎えていただいていることだし、まぁ良い。


しばらく店内をプラプラと歩いていると、気になるシャツがあった。とは言っても広げるところまではいかず、さっと手を触れたか触れないかくらいの感じである。するとわざわざ遠くから店員がこちらへやってきて横に立ち、話しかけてきた。



「どうぞ」




…何をだろう。


わざわざ遠くから歩いてきて、にこやかに一言だけつぶやいてくれたその言葉。伝えたいことの大体の予測はつく。「どうぞ広げて見てみてください。」「どうぞ気になったらご試着もできますので。 」「どうぞゆっくりご覧になってください。」

わかる。わかるのである。めちゃめちゃ感じもいい。でも、「どうぞ」とだけ言われると、もう何が何だかよくわからないのである。とにかく半端ないムズムズ感。この妙な空間から一刻も早く抜け出したい、さもなければ発狂しそうである。こいつはひょっとしてヤバいところに来ちまったかもしれない、そう思った私は、足早に出口へ向かった。そしてあのビンテージ風の重い扉に手をかけた時である。





「お願いします」




…何をだろう。



恐らく、「またお願いします」の略だと思う。わかる。わかるのである。間違ってはいないのかもしれない、でも、でも。ちょうどよくない。そんなわけで、ろくに店内を見ることもなく、私は逃げるように店を出た。



群雄割拠のお洒落タウン、ここTOKYOで生き残るには、こうした行き過ぎた個性が必要なのかもしれない。確かに、マニュアル通りの接客が嫌になることもある。しかし、それを避けるために工夫をこらし過ぎた結果、空回りしてしまうこともあるのだと知った。何が皆にとってちょうど良いかはわからないが、あれはやっぱりどう考えても、誰にとってもちょうどよくなかったのではないかと思うのである。


先日、ふと思い立ってこのちょうどよくない店に寄ってみることにした。内心かなりドキドキであった。あのままでも嫌だし、普通過ぎる接客になっていたらそれもそれで寂しい。私は戦いを挑む気持ちで、扉に手をかけた。あの日と同じ店員がいる。私の心はもう、完全にようこそ待ちである。来い、ようこそ。ようこそめっちゃ聞きたい。アイワナようこそ。

すると彼女はにこやかに微笑み、こう言った。







「お待ちしてました」






…こわいよ。




本当、どこまでいってもちょうどよくない店なのであった。