月別アーカイブ / 2021年04月

散歩の途中なんとなく入ったスーパーで、長芋が山積みになっていた。どうやら期間限定で青森物産展をやっていたらしい。
 
私は普段そんなに家で長芋は食べない。実家で頻繁に出てくる食べ物ではなかったからだ。自炊をするようになって気付いたのだが、私がスーパーで自然と手に取る野菜は、主に実家の野菜室のレギュラーメンバーたちだ。人参、玉ねぎ、キャベツ、白菜、しめじ、エノキ、レタス、水菜。この子たちさえいれば、あとは肉や魚や卵、調味料との組み合わせ次第で結構なレパートリーになる。和、洋、中、なんでもこいだ。
 
でもここ最近になって、もう少し冒険してみたい欲が出てきた。料理から季節や土地の風を感じたいと思うようになったからである。
 
我々ミュージシャンは、地方遠征が頻繁にある職業だ。その土地に行って、その土地の旬のものを食べる。それがどんなに素晴らしいことか、口の中に美味しさとともにどれだけの幸福が広がっていたか。ツアーやライブができなかったこの一年であらためて気付かされた。
 
今はまだ遠征や飲みに行ったりが自由にできない状況が続いているが、それを嘆き続けても仕方がない。だったら自分の生活の範囲内でできる楽しみを見つければいいじゃないか。そう思うようになってから、私は馴染みのない野菜なども手に取るようになった。
 
長芋というと、とろろのイメージが強い。スーパーで長芋の山を見かけた時も、これだけの量をぜんぶすりおろしたら野球のマウンドくらいは作れるんじゃないかと想像した。そんな感じでぼんやり長芋の前にぼーっと突っ立っていたら、物産展のおばちゃんが話しかけてくれた。
 
「長芋はね、すりおろすだけじゃないのよ。焼いても美味しいの。オリーブオイル薄くひいてね、8ミリくらいの厚さに切った長芋を並べて、焼き目がついてきたら醤油かけて、最後にバターひとかけ入れるの。お皿に盛ったら胡椒ふってもいいわね。これが私の好きな食べ方」
 
もう、そんなの聞いているだけで美味しいじゃないか。これをつまみにビールでも飲んでみろ。そこはもう居酒屋だ。このおばちゃんの家の食卓だ。
 
ありがたいことに値段もかなり手頃だったので、私は長芋を買って帰ることに決めた。おばちゃんがソテーにするならこれくらいのサイズのこれくらいの形のやつがいいよと選んでくれたので、それにした。
 
皮はどうするのかと聞くと、「皮はむいちゃダメよ、みんなむいちゃうけど、長芋は皮が美味しいの。食感もいいわよ。切る前に皮を洗う時は、小学生のズック洗う時のブラシあるでしょ。ああいうのとかでゴシゴシするの。そしたらちゃんときれいになるから」とのことだった。
 
すりおろしのイメージが強かったので、長芋=皮をむくものというイメージを勝手に持っていたが、むかなくても食べられるとは。手間もかからないし最高じゃないか。ズックを洗うブラシはキッチンにないなあとは思いつつ、どう洗うべきなのかはなんとなくわかったので、家に帰ったらやってみます、ありがとうございますと伝えて私はおばちゃんにバイバイをした。
 
夜、早速私は長芋のソテーを作った。おばちゃんに言われたとおりに作ったら、感動するほど美味しかった。バター醤油の香りが広がる長芋を噛むと、サクッとした表面と皮の食感がまず伝わってきて、中心の方に行くとホクッとしていて、また違う食感に出会えた。噛めば噛むほど口の中ではほどよい粘り気が出て、甘みもどんどん広がった。スッと鼻から抜ける胡椒の香りも最高だ。もうこれはとんでもないスーパールーキーがうちの冷蔵庫にやってきたな、と思った。この子ならレギュラーメンバーの野菜たちとも仲良くやっていけるだろう。
 
食べ終わったあと長芋のことについて軽く調べてみると、今はちょうど長芋の旬の時期ということだった。なんとなく芋の旬は秋だと思っていたが、長芋には春掘りと秋堀りがあるらしい。今が旬の春掘りの長芋は、冬を越しているので粘り気も強くコクがあり、より甘みもあるらしい。私の食べた長芋は、青森の長く寒い冬を越え、今日の日の美味しさを届けてくれたのだ。そう思うとなんだかとても愛しい気持ちになった。
 
旬のものはやはり美味しい。その背景を知るとなおのことだ。そしてさらに、その日おばちゃんに聞いた食べ方でその日のうちに食べたからこそより美味しく感じられたのだろう。長芋について熱弁するおばちゃんから受け取った熱量と愛情も旬のうちに、その気持ちも一緒に調理して、いただき、噛み締める。食べ方にも旬があるのだ。そんなことを思った4月の終わり。

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あと長芋の皮の黒い点からぴょろっと生えてるあのヒゲ、予想外にほくろから生えてきちゃった謎の毛みたいでなんかいいっすよね。生命力感じる。
 

人の目をうまく見られないのである。というか、「目を合わせる」ということの正解が未だにわからないのである。


私は目を見て話してくれる人が好きだ。目を見て話をされると緊張するという方も中にはいらっしゃるかもしれないが、私はその逆である。目を見て話してくれたほうが安心する。自分に興味を持ってくれているような気がして嬉しいし、繕って話してもいい意味でこの人にはすぐにバレちゃうなと思えるから、余計なことを考えずにありのままで話せる。

 

だから自分もそうありたいなと思うし、なるべくそうしようと心がけているのだが、どこを見るのが正解なのかはよくわからない。

 

両目を見て話そうと思うと、自然と視界がぼやけてくる。間をとって右目と左目の間のどこか一点をぼんやり見つめてみたりもするのだが、次第に「本当にこれは目を見て話していると言えるのだろうか」などといらぬことが頭の中をチラつく。多分はたから見たら「目が合っている」状態になっているだろうけど、本当はそうじゃないというか、物凄い空っぽな瞳で向き合っているような気分になるのだ。

 

それならば右目か左目、どちらかの目にピントを合わせてじっと見つめてみたりもする。そうすると一点を見つめればいいのでだいぶ楽だ。これも多分「目が合っている」状態にはなっているのだろう。でも、相手の片方の目は完全に蔑ろにしている状態になる。人の目は二つあるというのに、果たして正しい見つめ方と言えるのか。これはこれでちょっと疑問が残る。

 

映画やドラマで俳優さん同士が至近距離で見つめ合っているシーンを見るたびに、「この人たちの目のピントはこの時どうなっているんだろう」と思う。画面越しに見ると当然なんの違和感もないわけで、しかも全然黒目がキョロキョロもしていない。自分があの距離で人と見つめ合うことになったら、「ええっと、どっちを見たらいいんだこれは!」と、相手の左右の目を行ったり来たりして視線がブルブルと小刻みに震えるように動いてしまうと思う。でも彼らはまっすぐ迷いなく、相手の両の目を見つめている(ように見える)。その目の奥の輝きや空虚感さえも、表現の一つとして完全に完成されている(ように見える)。あれはどうなっているんだ。どこを見ているんだ。本当にすごいなあと見るたびに思う。

 

向かい合っているわけだから、自分の右目で相手の左目を、自分の左目で相手の右目を見るのが理想的な見つめ合い方に思えるが、相手の両目どちらにもピントを合わせるのは、さすがにどんなベテラン俳優さんでも物理的に困難じゃないだろうか。少なくとも私はどんなに頑張ってもできない。これは相手が誰であろうと。初対面の人だろうと、親だろうと、友人だろうと、赤ちゃんだろうと、猫だろうと。

 

まあただ一つ言えることは、頭で考えてもきっと無駄ってことだ。そもそも視線の置き所に意識を半分持っていかれている時点で、きっともうそれはある種の迷いとして自分の目に現れてしまっている。


迷いなきまっすぐな視線を持っているように見える人たちほど、本当は案外ぼんやりふんわり世界を捉えているのかもしれない。視線のピントとか小さいことに意識を持っていかれたりせず、肩肘張らずに自然と相手や物事の本質を見抜けるようになった時、その人の視線に強さは宿るのだろう。


とかなんとか言いつつ、私はまだまだその域に達していないので、やっぱり気になる。みなさんは人と目を合わせる時、どうしてますか。どこを見て話をしていますか。


先日、いつものように散歩をしていた時のことである。幅が一人分くらいしかない狭い路地の坂道の途中で、一際目を引く黄色い花を見つけた。

黄色い花というと、個人的にはタンポポやひまわり、菜の花やチューリップなど、"茎と葉っぱと花"のイメージが強い。しかしそれは、なんだかウネウネした変な寝癖みたいに枝垂れた枝に、可愛らしい花をちょこちょこつけている感じだった。

立ち止まってしばらく眺めていると、数メートル先で立ち話をしていた年配の女性が話しかけてきてくれた。「それ、雲南黄梅っていうのよ」どうやらその人が育てているものらしかった。

その名の通り、雲南黄梅はもともと中国の雲南省に自生している花だと言う。「かわいいでしょ、やっと咲いたの」と言いながら笑うその人はちょっと誇らしげで、どこか懐かしい感じもした。

この一年で、私はよく散歩をするようになった。いわゆる散歩コース的なところではなく、住宅街とか、今回雲南黄梅を見つけたような小さな路地などを好んで歩いている。

誰かに見せびらかすわけでもなく、でもたしかに愛情を込めて育てられた花や木たちがそこにはある。ガーデニング と言うほどお洒落なものではないが、それがいい。景色として完成されていないからこそ、より一つ一つの花の個性が際立って見える。

もうだいぶ前に亡くなってしまったが、母方の祖父は植物を育てるのが好きだった。庭中植木鉢だらけで、最終的には2階の一室も植物部屋と化していた。

小さい頃の私はそれを見て、どうせならもっと綺麗にすればいいのにとずっと思っていた。せめて植木鉢を統一するとか、花の色ごとに分類するとか、グラデーションにするとか、せっかくなら人を招き入れられるような可愛い庭にするべきだ。そうじゃなきゃ何のためにこの植物たちを育てているのか、意味がわからなかった。

でも最近になってようやく、それだけが植物の楽しみ方じゃないということに気付いた。植物の圧倒的な生命力は、良い意味で本来人の手に追えるものじゃない。予想外の方向に伸びる枝、まだらに咲く花、放っておけばすぐに茶色くなっていく葉っぱたち。答えがないから面白いのだ。

完成形をイメージして、それに向かって庭や軒先を整えていくのももちろん素晴らしい。でも、どんな感じになるのかなあと想像しながら、その期待をいろんな方向に裏切られながら過ごす毎日も、きっといいもんだと思う。そして自分以外の誰かがその面白さや美しさに気づいてくれた時、なんとも言えない嬉しさがそこにはあるのだろう。説明できないものを分かち合えた時の喜びは、いつだって特別だ。

そういえば、兄は祖父によく尋ねていた。「これは何の花?」「なんでこんな伸びるの?」私はいつもそれを眺めているだけだったが、祖父がとても楽しそうにしていた記憶はある。ああそうだ、雲南黄梅を教えてくれたあの人の笑顔は、祖父にちょっと似ていた。

時々ふと思う。天国にもWiFiって飛んでるのかしら。そしたら祖父に写真を送ってあげたい。ちょっと不恰好だけど生き生きとした雲南黄梅、きっとあなたも好きでしょう。

(写真ここにも載せたかったのですが、思いっきり住所が写っていたのでやめておきます。すみません)

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