先日、もう20年以上の付き合いになる地元の親友と久々に会った。彼女は数年前に結婚し、今は一児の母である。


前に会ったのはたしか昨年の冬だった。その時はまだつかまり立ちしかできなかった親友の娘は、もうすっかり歩けるようになっていた。少しでも目を離せば、目に映るものに興味を奪われて、すぐにどこかへ行ってしまう。彼女の好奇心のままに突き進んでいく様子を見ながら、私は色々なことを思った。

 

その日は雨が降ったり止んだりの中途半端な天気だった。ちょうど昼食を終えて店を出ると小雨が降っていたので、私はすぐに折り畳み傘を取り出した。親友は娘に雨がっぱを着せようとした。しかし、何度着せようとしても脱いでしまうので、結局途中であきらめてそのままにさせていた。雨がっぱを脱ぎ去った彼女は、空から降ってくる雨を指差しながら、「あめ、あめ!」と嬉しそうにしていた。

 

降ったら傘はさすもの、と当たり前のように思うようになったのはいつからだろうか。小学生、幼稚園、あるいはもっと前からかもしれない。それでもそれくらいの頃は、わざと濡れて帰ったりした記憶がある。なんでそうしたかったのかなんてまったく覚えていない。でもきっと、目の前の雨を楽しみたかった、ただそれだけだった気がする

 

今はそんな衝動に駆られることもない。たとえ駆られたとしても、髪の毛がチリチリになっちゃうからとか、メイクが崩れるからとか、風邪を引きそうだからとか、いろんな理由が考える暇もなく先に立って、そんな発想にさえならない。当たり前のことだ。私ももう子供じゃない。でも、雨に濡れながら走り回る彼女を見ていたら、やっぱりちょっとうらやましくなった。

 

しばらく散歩をしたあと、ちょっとゆっくりしたくなったので、私たちは近くの喫茶店に入った。しかしそこでも彼女は所構わず歩き回った。私はそんな彼女を追いかけてはなんとか席に戻してを繰り返した。何分好奇心旺盛な年頃である。一つの場所やものへの興味はなかなか長続きしない。持ってきていたおもちゃで遊んでみたり、話しかけたり、歌ってみたり、色々やってみてもすぐに視線はどこかへ行ってしまうのだった。

 

そんな彼女観察しているうちに、どうも窓に興味があるらしいことに気付いた。窓の向こうを歩く人々、犬、降っている雨。窓越しに触れようと手を伸ばしたり手を振ったりするその姿を見て、私は思った。そうか、彼女にとって窓は、まだとても新しい存在なのだと。


私にとってはもはや窓はただの窓でしかないけれど、彼女にとってはそれが透明なこと、触ると少しひんやりするということ、その向こう側で動く景色、そのどれもが目新しく、きっとすごく新鮮なものなのだ。

 

私は窓の前に立つ彼女の横に行き、窓にハーっと息を吹きかけた。そして白くなったところにアンパンマンの絵を描いた。窓にはこんな遊び方もあるよというのを久々に思い出して今彼女にどうしても見せたくなったのだ。

 

すると彼女は目をまん丸くして、声をあげ、手を叩いて喜んだ。その日一番の笑顔を見せてくれた。少し時間が経っただけで跡形もなく消えてしまうというのも不思議だったのだろう。何度も描いては消えていく絵を眺めては、もう一回、もう一回とせがむのだった。

 

私は嬉しかった。それと同時に、ただ目の前で起きていることに夢中になる彼女の様子を見ながら、果たして今の自分はそれができているだろうかと考えてしまった。

 

ちょうど10年前、私は「THE」というミニアルバムを出した。これがデビュー作品ということになる。当時はただ自分だけのために、心のに秘めていた思いを歌にしていた。

 

運良く、そしてありがたいご縁があってCDを発売させていただくことになったのだが、「誰にもわかってもらえないと思いながら書いたたち」が、「誰かに聴いてもらうための作品になっていく」様子を見ながら、私はちょっとした違和感を覚えた。


ただ自分のためだけに書いただけだったものに、たくさんの人やお金が動いてくれているのを見て、なんだか申し訳なくなってしまったのである。本気でたくさんの人に聴いてもらおうという意志も決意もまだその頃はなかったから、自分のことなのに自分だけが追いつけていないような感覚になって、怖くなってしまった。だからこの作品だけ出して、私は音楽をいったん辞めた。

 

その時の私は、目の前にいる誰かを喜ばせたいわけでもなく、誰かにわかって欲しいわけでもなく、自分自身だけわかる歌を歌えていればよかった。それが当時の喜びだったし、自分にとっての歌う意味だったし、それ以外の何ものでもなかった。青さ故の頑固さもたしかにあったと思う。でも今よりよっぽど不器用で真っすぐだった。まだあの頃は、良い意味でちゃんと子供だった。今何が起きているのか、そして自分がどうしたいか、どうありたいか、それがすべてだった。その強さや純粋さは今の自分にあるのだろうか。

 

特に最近は、正直迷子になってばかりだ。自分自身が何者なのか、時々なんだかよくわからなくなる。YESにしてもNOにしても、はっきりと言えない。ちょっと「あれ?」と思っても、「とりあえずやってみる」というのを指針に掲げ始めたのは、20代後半になってから。音楽以外のお仕事がちょこちょこ入り始めたりして、「こうありたい」というより、「こうでなければならない」と思うことが増えてきたあたりだ

 

やるならやりきる、やれないならやめておけばよかったのだが、中途半端にやってみた結果、やっているうちは気付かなかったのだけれど、少し時間が経ってから猛烈な虚しさが襲ってくることが多々あった。中身も意志も伴っていないくせに、たらればの可能性や安心、安全、将来を求めて、対象のない「誰か」のために「とりあえずやってみる」という行為をしたツケである。自分はもっと器用に立ち回れると過信していた部分もあっただろう。みんなに好かれようと思ってあれこれした結果、自分の好きな自分ではなくなって行った。

 

どんなに小さな世界だって、自分に対してきちんと胸を張れていた頃の自分は、どこに行ってしまったのだろう。視野を広げねばと力んだのはいいが、そのやり方を少し間違った。視野をいくら広げたって、目の前の物事や自分の足元、どう進んで行きたいかが定まっていなければ、そりゃあ躓きもするし、迷子にもなる。

 

私ももうすぐ30歳になるいつまでこうもうじうじと、同じようなところにグルグルと考えを巡らせているのだろうと、時々自分でも情けなくなる。でもそうやって迷いながら、少しずつわかってきたことある。ひょっとしたら10年かけて一周ただけかもしれないけれど。

 

私はやっぱり、私の在りたい私で在りたい。その時々の今の自分にとって、一番自分らしいと思える決断をして、進んで行きたい。本当に何にも浮かばなかったら、とりあえずやってみるのだって、きっと間違いではない。違うなと思ったら、辞めたっていい。

 

親友の娘のように10年前の自分のように、誰か遠い未来のためではなく、自分のために、今ただ心が風に乗る方へ、流れ流れて行けたらいい。もうちょい気楽に行こう。これからもよろしく頼むぞ、私。


そして最後に、何をやっても続かない私が、なんだかんだと言いながらここまで音楽を続けられているのは、応援してくださる皆さんのおかげです。本当にありがとうございます。こんな私ですが、10年目以降も温かく見守ってもらえたら嬉しいです。


SNSなどがあまり得意ではないので、こまめに近況報告など特にあげたりはしておりませんが、レコーディングをしたり、はじめてのお知らせのためにいろいろ動いたりとそれなりに忙しくやっております。でも何よりやっぱり、早くライブがしたいです。


どんな形であれ、素敵なお知らせが少しでも早くできるように頑張ります。ということで、これからも関取花をよろしくお願い致します!