今朝の電車は駄目だった。

一人暮らしをはじめてから、もう二年が経つ。通勤ラッシュの満員電車にもだいぶ慣れてきた。どんな角度で人の中に身を埋めれば倒れないか、どれくらい背伸びをすればつり革まで手が届くか、なんとなく身体で覚えてきた。舌打ちをされたり思い切り身体で押し返されたり、そんなことは日常茶飯事なので、もう気にしていても仕方がない。そういう時は雨ざらしの岩のように、頑としてどっしりと構え、心も身体もグラつかないようにするのみである。うむ、我ながら強くなったもんだ、などと少し関心さえしていたこの頃であった

しかしだ。今朝の電車は駄目だった。自惚れていた。目に見えないものからも身を守れるほど、私は賢くも強くもなかったのである。

私は、いつも通り駅のホームで電車の到着を待っていた。昨日の夢(兄が松田翔太に憧れてウェッティな髪型になるだけの夢)を思い出しながらぼーっとしているうちに、電車のドアが開いた。プシューと音を立てて車両の中がお目見えしたその時、お、今日はなかなかラッキーだ、と思った。今日私が乗り込もうとしていた車両のドア付近には、たまたま綺麗な女性が多く、満員電車であろうとなんだか妙に清潔感溢れる雰囲気が漂っていたからである。たとえ誰かに押されてなだれかかったとしても、今日ばかりはシャンプーの香りに身を埋めて過ごせるわい…私は待ったなしでその車両に飛び込んだ。

私は、電車に乗る時には必ずマスクをしている。今日は飴を舐めながらマスクをしていたので、マスクの中はリンゴの香りでいっぱいだった。たしかにいっぱいだったのだ。しかし、そんなものはすぐに消え失せた。そう、隣に立っていた女性の香水の香りが、あまりにもキツかったのである。もともとアロマとか香水とか、そういった「人工的な良い香り」は好きではない。もちろん、上手に香りをまとっている人もたくさんいる。でも違ったのだ、残念ながら。私の隣に立っていた女性のあの香りは、もう蒸せ返るくらいキツかったのだ。結局、5分ほどは耐えてはみたものの、だんだん頭が痛くなってきて、気持ち悪くなってきたので、私は泣く泣く電車を降りた。香水にやられて途中下車をするなんて…なんて弱っちいのかしら。

幸い、今日はかなり早めの電車に乗れていたので、2本ほど見慣れない駅のホームで電車を見送った後、各駅停車に乗ってダラダラと目的地へ向かう余裕があった。ガンガンする頭でうなだれながら、香水かぁ、私も一度だけ買ったことがあったなぁと思い返していた。

あれは高校1年生の時だっただろうか。私も含め女子は皆、少し背伸びをしたお洒落をしたがる時期だった。とは言っても、学校は制服で通わなければならない。それならば、限られた範囲内でできる限りのお洒落をしよう、ということで、香水やボディミストをつけ始める子が出てきた。私も負けじと何か香りをまといたいと思い、思い切って香水を買うことにした。しかしそこは初心者、どんな物を選べば良いかわからないので、取り急ぎ雑誌を読んでみることにした。すると、こんなことが書いてあった。




「私は高校一年生からずっと同じ香水☆この前なんか、街中ですれ違った時に匂いだけで気づいてくれた友達がいたよ☆人とは少し違う香りをまとった方が、自分らしさが伝わるよ☆」



モデルが爽やかな笑顔でハート型のボトルを握ってこちらを見ている。



なるほど…人とは少し違う香りか…


ある日、私は1人香水探しの旅に出かけた。新学期がはじまってすぐで、まだアルバイトをはじめていなかったのでお金もなかった。予算は2000円以内にしよう。まずは、良い香りがする所へ行こう、ということでデパートに向かった。しかしどれもべらぼうに高かった。無理だ、買えない。次にドン・キホーテに向かった。たくさん香水が並んでいる。しかし、どれも雑誌で見たことのある甘い香りの香水ばかりである。違う、私は、私は…


 
人とは違う香りが欲しい…




プラザやロフト、様々な雑貨屋などを巡ったが、なかなかそそられるものが見つからない。どの香水の説明にも、ブランド名か、そうじゃなきゃ「甘い」だの「スパイシー」だの「ムスク」だのなんだのって同じような言葉がつらつら書いてあるだけである。もしくは、「妻夫木クン愛用」「あゆ推薦」「パリスヒルトンプロデュース」などと言った、嘘か本当かわからない手書きポップばかりである。嗚呼、運命の香りを2000円で手に入れようなんざハナから無理な話か…などと諦めかけたその時である。他のボトルに比べ、異常にシンプルなボトルが目に入った。透明な四角い瓶に、よくわからないポケモンのマルマインみたいなマークが一つ、そしてその下にたった一言…







「adult」







そして説明書きの手書きポップにも一言…






「レニークラヴィッツ愛用」




そして値段は…







「1800円」




これは…




買うしかない…



というわけで、わたしはあろうことか匂いを嗅ぎもせず、そのレニクラ愛用の「adult」を購入した。肝心の匂いはと言うと、あまり覚えていない。何せこの「adult」、どんなにつけても、風に吹かれりゃすぐに消えてしまうのだった。


それでもしばらくは、半ば意固地になって毎朝律儀に「adult」の匂いをまとって出かけていたわけだが、誰にも何も言われず、ただ肌が少しかぶれただけであった。なので、やめた。


しばらくしてから、よく考えたらレニークラヴィッツほどのセレブが1800円の香水をつけているわけないことに気づいた。よく考えなくてもわかるし、多分ウケ狙いで店員が書いたんだろう。それにしてもなぜレニクラだったのか。気になったので、ある日その香水を購入した店にもう一度出向いてみたが、その店はもう潰れていた。跡形もなくなって、エスニック雑貨屋に変わっていた。匂いが強い店が伝統的に陣取る場所だったのだろうか、真相は闇の中である。


そうこうしているうちに、電車は目的の駅に到着した。スーツをビシッと決めたサラリーマンや、朝からお化粧をバチッと決めたOLさんが颯爽と歩いて行く。私はといえばボサボサの髪にボロボロのダッフルコートにリュックサックにスニーカーだ。なんだか、よっぽど高校生の頃の方がきちんと背伸びしようとしていたな、と思った。最近、等身大という言葉にめっきり甘えてしまっていた自分がいた。いかんいかん。


いやはや、どうやら「adult」はあとから効いてくるタイプのやつらしい。