終電で乗り換えミスをした。
うっかりだった。本を読んでいたら本来乗り換えるはずの次の駅だった。
駅に着いたら小雨が降っていた。


私は最近一人暮らしをはじめた。
毎日家計簿をつけている。
節約してもお金は実家暮らしの時の何倍もかかる。
少し先までの移動ならもっぱら自転車で行くし、タクシーなんてもっての外である。
何なら「絶対乗らない」と決めていた。

でも今日は運が悪かった。
タクシーに乗らないと帰れない事態を招いてしまった。
しかも今日は実家に帰る。
母から帰りにアイスとパンを買ってきてと連絡があった。
母は寝る前のアイスが好きだ。なんとしてでも今夜は帰ろう。
ということで、仕方なくタクシーを待った。

しょぼくれた駅のロータリーのタクシー乗り場には、私の前に既に3人並んでいた。
皆そこまで酔っ払っている感じではなく、単純に寝過ごしたとか、そんな感じの理由でここに来てしまった雰囲気だった。

小雨は音もなく、あたりは歩いている人もおらず、だれも一言も話さず、とても静かだった。
私はさっきまで、「せっかく節約していたのにタクシーに乗るなんてムダ金じゃないか、最悪だ。」「アイスはどこのコンビニで買えば一番溶けないか。正直めんどくさいぞ。」とか、とにかくイライラしていたが、あたりが妙に穏やかな静けさに包まれていたので、なんだか少しだけ落ち着いてきた。


そのときである。








ペチャッ



チャッ





ンチャッ




ヌチャッチャッ







ニュチャッ








先程までのおだやかな静けさの中に、不快な音が突然混ざってきた。
ふと後ろを振り返ると、メガネをかけたごく普通の男性が立っていた。
身長は高く細身で小奇麗な、どこにでもいそうな男性だった。



しかし彼は、そう。


何を隠そう、





クチャラーだった。
(クチャラー=ものを食べるときにくちゃくちゃ音を立てて食べる人)





私は一瞬にして青ざめた。
私はクチャラーが大の苦手である。
ましてイライラしている夜に、いつ来るかもわからないタクシーを小雨の中で待っている時に、真後ろの空からまるで降り注ぐように聞こえてくるクチャサウンド。耐えられなかった。
嘘だと思うだろうけれども一応言っておくと、なんだか悔しくてやりきれなくて、愛しさでもなく切なさでもなく心強さでもなく、クチャ音のせいで涙が出た。




なぜだ、なぜなんだ。
なぜ今夜なんだ。ただでさえイライラしているこの夜に、なぜ神様は私にクチャラーをお与えになったのです、おお神よ。
もはやすがる思いでタクシー会社に電話した。

「今、〇〇駅のロータリーなんですけど、タクシーってどれくらいで…前に三人待ってるんですけど、だとしたら…」




「うーんちょっとわからないですけど、20分くらいですかねぇ、はやくて」




20分。




たかが20分。されど20分。



20分間のクチャメドレーに私は耐えられるだろうか。
涙は小雨でごまかせるだろうか。なんなら大雨になってくれたらやつもクチャクチャする余裕がなくなるだろうしいっそその方がいいのだろうか。
とにかくそんなことをいろいろと考えながら絶望的な表情でヤツの方を見たら目が合った。


少し笑って、軽い会釈をしてくれた。



会釈の顎が上がると同時に「チャッ」という音がした。



でも、なんだか不思議といら立たなかった。
お互い大変ですね、という感じの会釈なのが、すぐにわかったからだ。


そして間もなく、私に自己嫌悪の嵐が吹き荒れた。

この人だって大変なのに、我慢してタクシーを待っているのに、前に並んでいる不機嫌そうな小娘を見て会釈をしてくれた。
なのに私はなんだ、クチャ音ひとつでイライラして、なんならちょっと睨もうとして。
この人はきっと一週間、朝から晩まで働いて、金曜日だからちょっと飲み過ぎて、飲んだ後の口さみしさをごまかすためにガムを食べているだけなのに。
ちっぽけだ、なんてちっぽけなんだ私は。情けない。



とかなんとか思っているうちにタクシーが来た。
私はタクシーに乗るとき、「お先にすみません」的な会釈をクチャラーの彼にしてみようと思ったが、あいにく彼は電話をはじめて違う方向を見ていたのでできなかった。



タクシーに乗って、行き先を告げた。
途中でコンビニに寄ってもらい、母に頼まれたアイスとパンを買った。それからコーヒーとコーラ。

先程の自己嫌悪を何かで挽回しなければ今日は寝られないと思い、タクシーから降りるときにでも運転手さんにコーヒーをあげよう、と思ったのだ。
「お疲れですよね、コーヒー、よかったら。」なんて、できたら素敵じゃない。







まあ、できなかった。





よくわからないけど、できなかった。
こんなに夜遅くまで頑張っているタクシー運転手さんに、「よかったら」って何か渡す資格が私にあるのだろうか、とか、完全に自分の好みでジョジョがパッケージになっているコーヒーを買ったけど、ジョジョを知らない人からしたら反応に困るのだろうか、とか。そんなくだらない理由をつけて、ようはなんだか、急に恥ずかしくなって渡せなかった。

なれないことはするもんじゃない。そういうのは可愛い石原さとみみたいな女性がちょっとエロく声をかけるからこそ意味があるのだ。私みたいなレゴに声をかけられても意味がないのである。





自宅の前で料金を支払い、ありがとうございましたと言いタクシーを降りた。
小雨はまだ降っていた。



午前2:00だというのに、家の前の花壇に人影があった。
母だった。





「よかったね~無事乗れて。お疲れ様、疲れたでしょう~」





いつからそこにいたのかは知らないけれど、待っていてくれたらしい。
涙が出そうだったけどぐっとこらえた。

クチャラーの男性や、タクシーの運転手さんに比べたら、毎日何も頑張っていないのかもしれない。
何も見えない未来に向かって、ただ好きだから歌を歌って音楽で生きていこうと夢を見ているだけの、どうしようもない娘だ。良い大学を出してもらったのに仕事にも就かないで。
酒もよく飲む。口も悪い。バカ娘だ。


だけど母がお疲れ様と言ってくれるから、きっと、ちょっとは頑張っているのかもしれない、と思った。
何がかはわからないし、もしかしたらそんなに頑張っていないのかもしれないけれど、
なんだかほっとしたというか、嬉しかったのだ。




家に帰ってすぐアイスを食べた。
母もアイスを食べた。



美味しいねぇ、と言って食べたアイスはどこにでもあるコンビニのただのバニラアイスだ。
だけど今日のは特別美味しかった気がした。



なんとなく、今日だけは子供のようにペチャペチャ音を立てながらアイスを食べるのもありかな、と思った。


















やらなかったけど。