呼ばれてもいないのに返事をしてしまうことがある。それは小さい頃からそうで、主にこの花という名前のせいである。
 
花という漢字を使ったまったく同じ名前の人には案外出会わないのだが、華、花、はな、ハナ、文字が違う人にはちょこちょこ出会う。こうして書いてみるのならわかるのだが、声に出すとその違いはわからない。
 
だから街中で「はな!」と誰かを呼ぶ声を聞いたり、子供が野花を見つけて「あ、花!」と叫んだ時なんかは、思わず返事をしてしまう。ちなみにドイツに住んでいる時は近所の家の犬の名前がハンナだった。ハンナだってそんなにはっきりと「ン」だけを強調して言うわけでもないので、ほとんどハナに聞こえる。その度に返事をしてしまっては、飼い主さんが優しく微笑んでくれた。
 
でもこれは花という名前の人に限らず誰しもあることだと思う。エリちゃんとかユミちゃんとかヒカリちゃんとか、むしろもっとポピュラーな名前の人はたくさんいるわけだし、その人たちはもっとこういう機会が多いかもしれない。自分の名前に反応してしまうのは、生きている以上仕方のないことである。
 
呼ばれてもいないのに返事をしてしまうことは、それ以外にもある。むしろこっちの方がよっぽど恥ずかしい。それは、コンビニやドラッグストアなんかで買い物をしている時である。みなさんも一度は聞いたことがあるであろう店員さんのあの一声に、思わず返事をしてしまうのだ。

 
「一万円入りまーす!」
 

これである。自分とレジの店員さんとのやり取りの中で起こった出来事に対しての言葉だから、ついつい反応してしまう。
 
とはいえ、さすがに毎回返事をしてしまうわけではない。すぐ隣に先輩店員さんがいて、明らかにそっちの方を向きながらそっちに向かって話しかけている感じがわかれば大丈夫なのだが、特に視線もテンションも変えずに、あくまでも一連の会話の流れの中ですよみたいな感じで、あまりにもナチュラルにボソッと言われたりしてしまうと、無意識に「はーい!」と返事をしてしまうのである。
 
ちなみにそういう時は大体こちら側から見て死角となる位置に、本来返事をするべきであろう先輩店員さんがいる。屈んでレジ下の引き出しとかを開けながら何かの作業をしているのだ。そして自分よりも早くレジを挟んだ向こう側から「はーい!」という元気いっぱいの声が聞こえてきて、びっくりした様子でポケモンのディグダみたいにひょっこり顔を出して、「お前か」みたいな顔をしてまたスッと下に戻っていくのである。

その下に戻っていく途中で、レジの人と顔を一瞬見合わせながら「アッ、ハハッ」と無言のコミュニケーションをとられた時、あれが一番恥ずかしい。もちろんそれは嘲笑の微笑みではないことくらいわかっている。店員さんは本当に何も悪くない。ただ私はこの時心の中で、「いっそもう私にツッコミ入れてくれ」と切に願っているだけである。だからこういう時はいつも、心の中で自分で自分にツッコミを入れている。「いやお前(私)この店のなんなんだよ」と。
 
だから最近は、レジで一万円を使う時は緊張感を持つようにしている。あの一声が聞こえてきても、凛と咲く一輪の花のように、強く動じずただ黙ってそこに立っていられるように。
 
でも昨日はダメだった。あろうことかやってしまったのである。それは一万円を出しても何事もなく無事会計を済ませられた時のことだった。私は完全にやりきった安堵の表情を浮かべながら、緊張感から解き放たれていた。するとどこからともなく聞こえてきたのである。
 

「休憩入りまーす!」

 

そのパターンもあるのをすっかり忘れていた私は、勢いよく「はーい!」と思わず返事をしてしまった。やった。やってしまった。そう思っていると、レジの下から声の主が現れた。ディグダのように顔をひょっこり出し、私の方をチラリと見たそのお姉さんは、外国の方だった。そして優しく微笑みながら、少しカタコトの日本語で私にこう言ったのである。
 

「アッ、オツカレサマデス」

 
まさかの返事に返事をしてくれたのである。ていうかやだ何そのなんかオシャレな返し、好きなんだが。まあもしかしたら、バイトあがりの同僚と勘違いされただけかもしれないけど。とりあえず私はなんだかとても救われた気分になった。そこにどんな意味があってもなくても、返事をしてもらえるって、すごく嬉しいことなんだなと思った。

先週は久しぶりにライブがあった。お客さんはもちろんみんなマスクをしていて、席も間引いてあり、決して普段通りではない会場の雰囲気には、少しの緊張感が漂っていた。表情やリアクションもわかりづらいし、どうやってどこまで楽しんでいいか(どれくらいの声を出していいのか、立ち上がってもいいのかなど)の正解も今の状況では個人によるしわからないから、探り探りの空気になるのは当前のことである。

でもそんな中でも、拍手やマスクの下からの笑い声が聞こえたり、頷いているのがわかったりした時は、すごくホッとした。むしろ以前より、それがどんなにありがたいことかを実感した。自分に対して目の前の誰かが反応してくれるって、それだけでこんなにも心がほぐれていくのか。返事があるって、それだけでこんなにも嬉しいことなのか。

そう考えると、レジでうっかり間違って返事をしてしまうのもそんなに恥じるほど悪いことではないのかもしれない。なんて思ったりもしたんですけど、どうなんですかね。

先日、電車で20分くらいの距離にある駅までバスで行った。バスだと迂回するので30分かかるし、私の今住んでいる家からは駅よりバス停までの方が遠い。本数も少ないし、結構な人が乗るので座れるとも限らない。それでもなんとなくバスがいいなと思ったので、バスにした。
 
バス停に着いたら、ちょうど少し前に行ってしまったところだったので15分ほど待つことになった。私の他に並んでいる人はおらず、次は一番乗りできるからとりあえず座れるなあなんて思いながらしばらくベンチでぼーっとしていた。
 
私の住んでいる家とそのバス停は駅の反対側同士にある。普段そちらの方にはそんなに行かない。スーパーもドラッグストアもそっちまで行かなくてもあるし、単純にそんなに用がないのである。バス停から眺めるいつもの街は少し新鮮だった。駅の反対側というだけで、歩いている人の層も違う。ファミリー層とおじいちゃんおばあちゃんの多い私の家の側に対して、こちらはコンビニの袋をぶら下げた一人暮らしと思しきお姉さんだったり、パチンコ屋から出てくるおじさんだったり。歩くスピードも違えば、会話がないので聞こえてくる音も違った。バス停まで歩く途中、商店街のスピーカーから流れるアナウンスもよく聞こえた。近くを一本入ったところにあるレストランの宣伝。今度行ってみようか。
 
そうこうしているうちにバスがやってきたので、私は後ろの方にある一人席に座った。見慣れない道を通りながら窓の外に目をやっていると、街のグラデーションに気付く。駅前を離れ、しばらくすると神社の前。あまり人は乗ってこない。間もなく病院の前に着いた。おじいちゃんおばあちゃんが乗ってくる。次は大きな団地の前。さっき乗ってきたおじいちゃんが一人と、赤ちゃん用おむつを手にぶら下げた30代くらいのお母さんが降りた。バスはどんどん進む。電車で行ったらもう少しかかる違う路線の駅付近に着くと、人がどっと乗ってきた。立っている乗客も増え、窓の外が少し見づらい。一番前の窓は見えなくなってしまった。大きめの小綺麗なスーパーの前、小学校の前、バスは時々停車してはどんどん進んで行く。街の様子も少しずつ変わる。窓の外には緑が増え、自転車が増え、おじいちゃんおばあちゃんは減った。
 
窓の外からは日中とはまた違う眩しさの光が差し込んできた。夕日だ。天気予報だとこのあとは明日にかけて雨が降る。雨の前の夕焼けは美しい。空にもまたグラデーションが広がっていた。黄色、オレンジ、赤、紫、青、いろんな色が少しずつ混ざり合って、一つの空になっている。全然違う色同士も、グラデーションになると自然に溶け合って、遠くから眺めるとまるで最初から一つの色だったみたいに見えるのが不思議だ。街もまたそうである。全然違う人同士がそこに暮らしていて、個々のことはお互い知りもしないのに、同じ街で暮らしている。暮らす人たちが変われば、その需要に合わせて街の様子も変わる。区切ってみたら気づかないけれど、窓の外の景色を眺めていると人と街のグラデーションに気づくことができる。
 
人生もまたそうだなと思う。子供の頃、10代、20代、30代を大きく捉えたら全然違う私がそこにいる。スカートなんて絶対に履きたくないと駄々をこねて半ズボンで参加した卒園式。ミニスカートを履いて青春を駆け抜けた10代。心の棘を隠しきれず、というより臆すことなく外に出しまくっていた20代前半。社会を少し知り(あるいは知った気になり)、ごまかしやいろんな意味での落とし所を知った20代中盤。外向きの自分と内側の自分の乖離に心が追いつかなくて体重も落ちたりして、見た目的にも変化が大きかった20代後半。そして今はどうだ、よくわからない。いつだって今の自分のことは本当の意味で客観的には見られないから、今が何色かなんてわからない。でもいつか時が経って少し離れて眺めてみれば、今の色というのがちゃんとあるのだろう。過去とも未来ともなんだかんだちゃんと自然に繋がっているのだろう。
 
そんなことを考えたりしていたら、いつの間にか目的の駅に着いていた。抱えていたギターを背負ってバスを降りる。その日はスタジオで個人練習の日だった。いい曲が書けそうだななんて思ったけど、べつに何も出来やしなかった。すぐに結果が出るほど何事も甘くはない。もう少し時が経って、いろんなことがぼんやり混ざり合う頃に初めて見えてくる何かがある。そういう時は自然に曲ができる。それがその時の私の色になる。人生はグラデーションだ。焦ることはない、今のすべてを知ることなんてできないのだから。私はとりあえず今日を生きる。明日も生きる。そうやって繋げた先に、まだ見ぬ色の私が待っているはずだ。

何年か前に、友人にいいことを教えてもらった。「心は穏やかではないけれどどうしても笑っていなきゃいけない時は、キャラメルを一粒舐めるんだよ」と。

私はそれ以来、どうも機嫌の悪い時や泣きたくなる時、誰に何を言われてもイライラしてしまうような時には、キャラメルを舐めるようにしている。

そうすると、不思議と本当に心が落ち着いてくる。じっくりじんわり口の中で溶けていくキャラメルをただたた味わい感じていると、怒りも悲しみも憎しみも少しずつ消えて行くような気がするのだ。ちなみに飴玉やチョコレートで試してみたこともあるのだが、なるほどたしかにキャラメルがベストだった。

飴玉だと溶けるまでに時間がかかりすぎる。心の整理に時間をかけ過ぎると、あることないこと必要以上に考えてしまう。逆にチョコレートだと早すぎる。時間がなく焦っていろいろと整理しようとすると、投げやりになったりその場しのぎで適当な結論を出してしまって、結局後から自己嫌悪に陥ることも多い。キャラメルはその真ん中、ちょっと一息つくのにちょうどいいのだ。

いつどんなことが起きてもいいように、一時期は常にキャラメルを持ち歩いていた。でもそうするとちょっとしたことですぐに手を出してしまって、その有り難みをあまり感じられなくなりそうだったのでやめた。

残高不足で改札で足止めをくらった時とか、電車に目の前で行かれてしまった時とか、自販機で買った炭酸をうっかりすぐに開けてしまって中身が吹き出してきた時とか。そんな時までキャラメルを食べ出したらきりがない。そういうあくまでも自己責任、自分の不手際で起こったことに対しては、キャラメルはすぐに食べないようにした。ある種理不尽なことが起こった時とか、誰かに言われた一言にどうしようもなく傷ついたりとか、そういう時だけ食べるようにした。

先日一年ぶりに使う夏のカバンを引っ張り出してみたら、キャラメルの残骸が残っていた。半分までは行っていないが、結構減っている。昨年の私は、一体何にそんなにイライラしていたのだろうか。覚えてもいないということは、大したことではないのだろう。その時はそれなりにいろいろあったんだろうけど、わざわざ思い出すことでもないし、そんな気もない。それもその時のキャラメルのおかげなのだろうか。時間の問題と言われたらそれまでかもしれないけれど、「これ舐めたら忘れよう」というスイッチの一つとしてキャラメルが優秀なことは間違いないと思う。何より美味しいし。正直それだげでいやなことなんて大体忘れられる。

ちなみに最近はありがたいことにキャラメルのお世話にはなっていない。イライラすることは人間だからもちろんあるけれど、それほどのことでもない。昨年は世の中の初めての状況にいろいろと焦ってしまってすぐキャラメル頼りになっていたけれど、今年は今ある状況にいかに感謝して楽しむかをまず考えるようにしている。9月からはツアーもある。私は今日も元気だ。



大吉出すのがなかなか難しい。

昔からよく、「昨日〇〇にいたよね」「さっき〇〇で花ちゃんのこと見かけた」などと知り合いに言われる。たしかに私は外に出かけるのが好きだから、どこかしらふらふらしていることは多いかもしれないが(今は世の中の状況もありなるべく控えているけれど)、何がおかしいって、こう言われるほとんどの情報が間違っているのである。それ、私じゃないのよ。
 
ある時は福岡で。またある時は新宿の歌舞伎町で。またある時は大阪の飲み屋で。またある時は渋谷の練習スタジオで。大体のシルエットなのかなんなのか知らないが、どうやら世の中には私に似た人が複数人いるらしいのだ。で、大体その目撃されたくらいの時間に私は何をしていたかというと、大抵家にいるのである。そういう時に限って、家から一歩も出ていない日だったりする。
 
ライブに来てくれるお客さんに言われたこともある。「昨日〇〇のバス停で花さんっぽい人見かけました」「先週〇〇でお買い物しているところ見ました」一体その人は誰なのだ。こうも続くと、時々本当に自分の分身がいるんじゃないかと思ったりする。
 
でも、さすがに本当に仲の良い友人からの目撃談は合っていることが多い。大体そういう時の私はギターを抱えている。つまりスタジオ帰りの可能性が高い。スタジオ帰りということは、ライブの準備か曲作り期間か、とにかくアドレナリンが出まくっている状態である。もしくは感受性が豊かになり過ぎていて、その反動で真っ白な灰のようになっているか。
 
そういう時の自分はたしかに頭がボーッとしていて、脳が常に熱を持っていて、良くも悪くも自分を扱いきれていない時で、とりあえず一人になりたいと思ってしまっている節がある。決して不機嫌とかそういうわけではないのだが、誰でもウェルカムな表情かというと決してそうではないと思う。ある時は電車の中。ある時はスープカレー屋。ある時は喫茶店。「とても話しかけていい雰囲気じゃなかったから、声をかけないでおいた」とほぼ必ずと言っていいほど友人には言われる。
 
しかし、友人以外の人から言われる目撃情報の私は、大抵常にハッピーそうというか、笑顔で楽しそうな感じなのである。もちろんそういう私もいる。誰かといたり、仕事の時だったり、どんな人間にだって、「対・人との時の私」スイッチはあるものだ。だし、それだって紛れもなく本当の私だ。でも、基本的に一人でいる時なんて大抵チベットスナギツネみたいな顔をして遠くを見ている。そんなもんだ、みんなそうだと思う。一人でいる時も常にクアッカワラビーみたいな人なんてほとんどいないと思う。
 
ということで、もし街中でチベットスナギツネみたいな顔をしている小さいやつがいたら、それこそが本当の私かもしれない。でもできればそっとしておいていただけるとありがたい。そしてそのままどうか忘れてほしい。自分の胸のうちだけに秘めていてほしい。「あ、今日の花ちゃんチベットスナギツネだったわ」って。じーっとどこか一点を見つめながら、何も考えていないような顔をして、必死で何かを考えている最中かもしれない。

まあ大体この時期は、今夜アイスを食べるか否かの葛藤をしているだけだけど。ちなみに今日はチョコモナカジャンボを食べました。久しぶりに食べたらやっぱり美味しいねえ。あ、その瞬間だけは家で一人でもクアッカワラビーみたいな顔してたかもな。

↑このページのトップへ