はて、私がジョンジョロリンに会えなくなってしまったのはいつからだろうか。

私は2歳から8歳になる年までの約6年間、幼少期をドイツで過ごした。今思い返しても本当に楽しい、美しい思い出ばかりである。通学路には野ウサギが普通にぴょんぴょんしていたし、盲導犬を連れたおじいさんとその犬には毎朝決まって「グーテンモルゲン!」と挨拶をした。目は見えないようだったけれど、声や音で私と兄とすれ違うのがわかるようだった。春になればイースターで卵にペイントをして飾り、夏はライン川で水遊びをした。秋になれば学校祭でフォークダンスを踊り、冬になればグラウンドに張った氷の上をスニーカーで滑った。クリスマスには大家さんのポールおじいちゃんとその奥さんとクリスマスパーティをした。
その他にも、年に数回やってくる移動式遊園地のキルメス、ランタンを持って夜の街を歩くラッターネ(ラテルネ)、街中の人が仮装をして闊歩するカーニバル…日本のように桜や紅葉はなかったかもしれないが、毎年やってくる恒例行事で季節を覚えた。当たり前のように過ごしていたけれど、思い返すと本当に貴重な経験をたくさんして来た。今ではとんだひねくれ野郎になってしまった私だが、あらゆることを斜めに見てしまいそうな時でも、あの頃のことを思い出せば、なんだか優しく純粋な気持ちになることができるのである。

ドイツでの日々を思い返すと、必ずそばに家族がいる。週末や休みの時期になると父は私たち家族を車でどこにでも連れて行ってくれた。宿がとれず、民家に突撃して泊まったこともあった。はじめてのエスカルゴも何の躊躇もなく食べた。「騙されたと思って食べてみろ」これが父の口癖だった。偉そうな事は一切言わない父だが、家族の絶対的リーダーだった。「何かあればお父さんについて行けばなんとかなる」、異国の地にも関わらず何の不安もなく過ごせたのは、間違いなく父のおかげだったと思う。
スポーツも万能で読書家、そんな父にも苦手な事があった。歌と絵である。この男、てんでそこらへんがダメなのである。母は地元のNHK少年合唱団に入っていたこともあるらしいのだが、父はカエルの歌さえまともに歌えないオンチなのである。家族でドライブをしている時に父が歌い始めると、私と兄は決まって、「アーーーーー!!」と叫びながら耳をふさぐふりをした。ドイツのアウトバーン(高速道路)は長く、暇な時間が多かったため、よくこの遊びをして遊んだものである。

そしてもう一つ、トンネルに入ると現れる「ジョンジョロリン」というのがあった。ドイツのトンネルは長く、暗い。車も割とすごいスピードで走っているので、なんだかとんでもないところに閉じ込められた気がして、はじめのうちはとても怖かった。そんな私たち兄弟を見かねたのか、父はある日から、トンネルに入ると「ジョンジョロリンが出るぞ!ここはジョンジョロリンの住処だから暗いだけだ!」と言い始めた。それから私たち兄弟はトンネルが大好きになった。ドライブの一番の楽しみはもはやジョンジョロリンだった。トンネルが見えると、「ジョンジョロリンが来るぞーーー!!」と叫んだ。
ある日私は父に、「ジョンジョロリンてどんな見た目をしているの?」と、絵を描いてくれとせがんだ。すると父は迷いのないペンさばきでジョンジョロリンを描いてくれた。


 
完全にただのカビルンルンだった。




それでもあの頃はえらく感動したもので、私の中のジョンジョロリン像は確固たるものとなった。トンネルに入ればいつだってその絵を想像した。カビルンルン、いやジョンジョロリンは、確かにそこにいたのである。

そうこうしているうちに父の転勤が決まり、私たち家族は中国へ引っ越すことになった。正直、ドイツとの文化の違いは衝撃的だった。ほこりっぽい道路には運転の荒すぎるタクシー、すさまじい数の自転車が走っていた。結局中国に住んだのは二ヶ月ほどだったが、こちらでも違うベクトルで、かなり濃い出来事に色々と恵まれた。話すと長くなりそうなので、この話はまた今度にしようと思う。

そして日本へ帰国したある日、家族四人でドライブに出かけた。久々に綺麗な高速道路を走った。やがてトンネルに差し掛かった。そして誰からともなく、「そういえば、ジョンジョロリンていたよね」と言い出した。「あー、いたね、そんなの」「なんだったんだろうね、あれ」そんなことを言いながら、車はやがてトンネルを抜けた。


一昨日、東京にも雪が降った。朝目が覚めてカーテンを開けたら、あたり一面真っ白だった。昔のような胸の高鳴りはこれっぽっちもなく、電車が止まるだろうなとか、すぐに雨が降ったから次の日は地面ツルツルで危ないだろうなとか、そんなことがすぐに頭に浮かんだ。寒かったから窓も開けずに再び布団に潜って、週刊誌の芸能ゴシップを読んで、寝た。

夢を見た。家族四人でドライブをする夢だ。トンネルの中を走っている。ジョンジョロリンは、もう出てきてくれなかった。



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勝手にyoutubeラジオはじめました! 
「関取花のごっつあんラジオ」

【NEW】

【過去のアーカイブ】












先日、某激安の殿堂に行った時のことである。

正月太りを解消できぬまま1月も中旬にさしかかり、確かな身体の重みと焦りを感じながら、私は手軽なダイエット器具を探していた。さすがボリューム満点激安ジャングル、かなりの種類を取り扱っている。最近は家の中でもフィットネスが行える器具もかなり出ているようで、陳列棚に高く積み上げられたそれらを見ているだけで胸が躍った。

しかし、私の今住んでいる部屋は6畳しかない。そしてその部屋には既に、ベッド、作業机、テーブル、ギター5本、キーボード、アンプ、レコードプレーヤー、本棚、コート掛け、空気清浄機などが、テトリスをするようにひしめき合っている。正直、これ以上物は増やしたくない。本当はバランスボールがちょっと欲しかったが、それは泣く泣く諦めた。すると、ある商品が目に入った。小顔ローラーである。
効果があるのかないのかよくわからないながらも、この10年くらいは常に見かけるこちらの商品、高いものだと15000円、安いものだと1000円弱からあるようである。これなら場所もとらないし、お手頃価格のものを一度買ってみるのはありかもしれない。何より、ズボラな私でもこれなら「ながら」で続けられそうである。大好きな「ごっつええ感じ」のDVDを見ながら、コロコロしてりゃいいなんて、最高じゃないか。ていうかあれ、正直楽に痩せたい。面倒なことはしたくない。顔が一番手っ取り早いだろ。痩せた感じ出るだろ。

ということで、小顔ローラーをいざ手に取ってみようとしたその瞬間である。真横から香辛料の香りがフワッと立ち上がるのを感じた。

右を見ると、かの有名なプロレスラー、タイガー・ジェット・シン似(知らない方は是非調べてみて欲しい)のインド系と思しき男性が、こちらを見て微笑んでいる。目が合ったのでとりあえず微笑み返しはしたものの、私は内心かなりビビっていた。激安の殿堂特有の狭い通路は、どこをとっても死角と言えば死角、何をされても誰も見つけてくれないかもしれない。何しろ相手はタイガー・ジェット・シンである。新宿伊勢丹でプライベートで買い物をしていたアントニオ猪木を白昼堂々襲撃したあの男である。早く小顔ローラーを手に入れてこの場から立ち去りたい。しかし、小顔ローラーは右斜め上のフックにかかっている。そう、まさにタイガー・ジェット・シンの目の前である。はてどうしたものか、実際の時間はものの十数秒だったとは思うが、体感的には10分を超えていた。

すると、その沈黙を割くかのように、タイガー・ジェット・シンが何やら話しかけてきた。



「…シテマスカ?」



よく聞こえなかったので、思わず聞き返した。



「…へ?」





「…パズドラシテマスカ?」






あまりに突然の質問に、私は思わず声を失った。
一瞬で頭の中に色んなハテナが駆け巡った。しかし私にできることは、とりあえずその質問に答えることだけである。とにかく嘘をつかずに正直に言おう。



「スミマセンシテマセン…。」


なぜか私までカタコトで答えてしまった。すると彼は、とても悲しい顔をして、


「ソウデスカ…。」



と言った。白昼堂々激安の殿堂に現れたその男は、私を襲撃することもなく、その場から静かに立ち去った。一体あれはなんだったのだろうか。


そういえば、私はインドとかちょっとお顔が濃いめの国の方々に声をかけられることがなぜか多い。少し前も、ファミリーマートで深夜バイトをしているタイ人の店員さんになぜか連絡先を聞かれた。スタジオでの深夜練習の帰りに立ち寄るといつも笑顔でレジを打ってくれたその店員さんは、28歳の留学生だと言う。



「イツモ、チェロ、モッテイテ、タイヘンデスネ」


素敵な笑顔で話しかけてくれたその人に、これは私の身体が小さいだけで、実はギターなんだよ、とは言えなかった。連絡先はまた今度ね、と言ってなんとなく濁しているうちに、その人はいつの間にかお店からいなくなっていた。でも大体見当はついている。なぜなら彼はお店の電話でいつも家族に電話していた。言葉はわからなくても、電話口の向こう側が姪っ子に変わった瞬間などが、なんとなくわかった。毎日のように国際電話をしていたら、相当の電話料金である。おそらくそれが店長にバレてクビになったのではないかな、と私は踏んでいる。


幼少期、トルコかどこかに行った時もこんなことがあった。白人の方が多いヨーロッパでは、色白で一重の、私よりももっといわゆる日本人顔の兄の方が可愛がられることが多かったが、そこでは違った。現地でついたガイドさんは、私をとても可愛がってくれた。そして言われたこの一言を、今でも私はしっかりと覚えている。




「コノコカワイイデス、フトッテテ」


当時小学生にあがるかあがらないかくらいの歳ではあったが、なんとなく胸にガツンときたのは間違いなかった。



でも、どんな形であれ好かれたり声をかけられたりするのはとても嬉しい話である。しかしなぜ濃い顔の方々ばかりなのか。なぜ日本人からはモテないのか。


そんな私も、たった一度だけ日本人の方から連絡先を渡されたことがある。


それはワンマンライブに向かう途中の電車の中で起きた。私は、着替えなどを入れた大きなエコバッグを膝に乗せて座っていた。ウトウトしていたら、サッと横から一枚のレシートをエコバッグの中に入れられた。よくわからないままレシートを入れてきた人の方を見ると、「読んでください」とだけ告げて、彼は下車し、ホームの人混みの中に消えていった。

なんだろうと思いながら恐る恐る開けてみると、ラブレター的なものだった。自分で書くのはなんだか小っ恥ずかしいが、横顔がとても素敵で、タイプだと書いてあった。そして、連絡先が書いてあった。



ocean0720@○○○.co.jp


 
ocean=海

0720=7月20日=海の日




たぶんこの人海めっちゃ好きだわ…。



そんなことを思いながら手紙を読み進めてみると、こんなことが書いてあった。



「僕は沖縄出身で、最近東京に来たばかりの者です。良かったら連絡ください。」



やはり…



海人(ウミンチュ)…




やっぱり日本の方でも顔が濃い方に好かれるのだろうか。謎は深まるばかりである。







===近況===
勝手にラジオはじめました。





胸が痛いのである。
こんな気持ちはいつぶりか、とにかく胸が痛いのである。

さかのぼる事約一週間、私は夢を見た。
長身、整ったお顔立ち、テレビで拝見しているといつも物腰柔らかで謙虚でいらっしゃる、超素敵な某俳優さんとのロマンスの夢である。そう、東出昌大さんである。(以下はあくまでも私が勝手に夢で見た内容である。どうか生温かい目で見守りながら読んでほしい。)

夢の中で私とピガシデさんは(夢の中でなぜかこう呼ばせていただいていた、失礼極まりない話である。)凱旋門の前で見つめ合っていた。
ちなみに現実ではその身長差実にぴったり40cm、149cmの私と189cmのピガシデさんがハグしようものなら非常に滑稽な絵面になるはずなのだが、そこは流石の夢である。
身長差などなんのその、きちんと良い感じで顔の位置も合っていて、その距離約20cm、15cm、10cm…迫り来るその端正な顔立ち。
バックではホイットニーヒューストンのあの歌が爆音で流れている。(エンダーーーーイヤーーー)
まさに世界は私たち2人のものといった空気の中、宇宙の果てまであと数センチという距離のところで、ピガシデさんはそれを制止するように私を抱きしめて、美しい涙を流しながらこう言ったのである。



「ごめん、俺、実は中島みゆきさんと結婚してるんだ」


?!!?!



!?!??


縦の糸はあなた、横の糸は私じゃなかったの!?!?



これはいくらなんでも花咲舞が、いや関取花が黙ってない!ニクイね三菱、いやしかし!!そんな時代もあったねといつか笑える日が来るかしら!?!?燕よ高い空から!!教えてよ!!!!地上の星を!!!!!!


混乱と悲しさと到底かなわない相手との結婚の事実を聞かされ、私は溢れる涙だけを引き連れて、凱旋門の前の道をゴロゴロと転がっていった。(森光子さんのでんぐり返しの超高速版を想像してくれ)そしてバックで流れている曲は、いつのまにか中島みゆきさんの時代に変わっていた。

映像もカラーから白黒に変わり、スローモーションになっていた。とにかくひたすら転がる私。うろたえるピガシデさん。遠ざかる凱旋門。まわるまわるよ時代はまわる。転がる転がるよ花は転がる。

そしてゴロゴロと転がっている最中で目が覚めた。はて、これは夢か…しかし寝起きで朦朧とした意識の中、それでも私は確かに思った。


「あとちょっとだったのに」


「もう一度ピガシデさんに会いたい」


私は夢の中でもう一度ピガシデさんに会うために、願わくばもっと鮮明なお姿で登場していただくために、枕の横のスマホで速攻検索を開始した。

「東出昌大」

ズラズラと画像が並んで出てきた。ちなみにこの時点でかなりドキドキしていた。完全に鼻息が荒くなっていたと思う。スクロールをしながら、より夢の中で会った時と近い姿のものを探していく。

サッ


サッ



あっ…


お一人で写っている写真の中に、続々とごちそうさんの時の画像が紛れ込んできた。

私は気付けば目をそらし、急いでホームボタンを連打して、その画面を閉じていた。



…なぜだろう、胸が痛いのである。


ピガシデさんの奥様といえば、勿論私も大好きな女優さんである。というか日本国民ならみんな大好きだと思う。そして、日本一美しく、もはや天に祝福され選ばれたお二人だと思う。

それなのに、そんな素敵な奥様とは真逆の人間の私みたいなやつが、共通点なんて哺乳類であることくらいなもんの私が、方やパリコレでランウェイを歩いていると言うのに、まるでレゴブロックみたいな体型の私が…あろうことか…少し、ヤキモチを焼いてしまっていたのである。

そこからはもう地獄の自己嫌悪タイムである。
大体私が凱旋門の前でピガシデさんといい感じになった時点でおこがましい。大体なんだ、ピガシデさんてなんだ。GONINサーガだったら速攻ぶち殺されてるぞ。

そんなわけで二度寝をすることもできず、もう二度とピガシデさんにも会えぬまま、胸の痛みだけを残して私は夢から覚めたのであった。
ちなみに一週間経った今でも、まだちょっと胸が痛い。あと全然関係ないけどうちの母親は昔オダギリジョーさんに夢の中で抱かれたことがあるらしい。


はて、次はどんな夢を見るのだろうか。最近寝る前にプロレスの動画ばかり見ているから、誰かと闘う夢でも見るかもしれない。イメトレだけでもしておくか。


クリスマスを目前に控えた都心の町並みを眺めながら、私の頭の中はブッチャーとハンセンとアンドレ・ザ・ジャイアントで埋め尽くされているのであった。










学生時代にアルバイトをしていたドラッグストアが、都内某所にできていた。
チェーン店ではあるが、都内に何店舗もあるマツモトキヨシなどとは違い、郊外やそれよりもっと田舎の方に主に展開しているお店だったはずなので、少し驚いた。なんだか懐かしくなって、特に必要なものもなかったが、私は気付けば店内に足を踏み入れていた。プライベートブランド用品のゴリ推しと、無駄な食料品の充実具合は相変わらずで、なんだか少し安心した。アルバイトの子達が着ている白衣もそのままだ。ほとんどの子に「研修中」の札がついている。私にもそんな時期があったなあなどと無駄な老婆心を働かせつつ、店の奥へと進む。お店の間取りも棚の置き方も、ましてや建っている場所も違うのに、なんだかタイムスリップをしたような気分になった。

私は高校2年生から大学を卒業するまでの約5年間、家の近所にあるこのドラッグストアでアルバイトをしていた。高校1年生の時はスーパーでレジ打ちのアルバイトをしていたが、アイスコーナーの真ん前のレジの担当になると、決まって風邪をひくということが判明し、そのアルバイトはすぐに辞めた。そして、他のアルバイトを探さなきゃなあ、と思っていた矢先、このドラッグストアで運命の再会をしたのである。

ある日私は、母におつかいを頼まれ、自宅から徒歩5分ほどの距離にあるドラッグストアへ出かけた。必要なものをカゴに入れ、レジへ向かった。すると、

「花!何やってんの!」

とレジの女の子が話しかけて来た。そう、私の大親友、Rちゃんであった。Rちゃんとは小学校2年生の時からの大の仲良しで、小学校時代は常に行動を共にしていた。中学に入ってからも、学校こそそれぞれ違ったものの、年に数回は遊んだりしていた。しかし、高校生になってからはお互い忙しく、メールのやり取りくらいになっていたので、それはそれは感動の再会であった。

「何って、お母さんにおつかい頼まれて買いにきたんだよ。Rはここでバイトしてたんだね、知らなかった!」

するとRちゃんは私の腕をバシバシ叩きながら、

「そうだよ!ていうか花は今アルバイトしてないんだよね?探してんだよね?働こうよ、一緒にバイトしようよ!」

と言って、レジもそっちのけで社員さんのところへ私を連れて行ってこう言った。

「この子、私の親友で、アルバイト探してて、仕事も超できますし!お願いします!」

私はあたふたしながらも、内心これはめちゃめちゃラッキーだと思いながら、社員さんにキラッキラのスマイルで、千と千尋の千尋並みのピュアさで、「ここで働かせてください!!」と言った。すると、早速店長が奥からやってきて、翌日面接をしてくれる運びとなった。そして即日採用となり、面接の数日後からはアルバイトとして早速そのドラッグストアで働くことになった。


社員さん、パートさん、Rちゃんを含むアルバイトの皆は、本当に皆親切で、ほどよくゆるくて、とても居心地の良いアルバイト先だった。その証拠に、私とRちゃんはそこに5年間勤務したし、パートさんたちも、お子さんの受験などを理由に辞めてしまう人はいたが、基本的にはずっと同じメンバーだった。誰かが辞める時には盛大に送別会をした。パートさんも社員さんもお酒を飲んで夜まで楽しく冗談を言い合ったりしていて、本当に私はこのアルバイト先に出会わせてくれたRちゃんに感謝の気持ちでいっぱいであった。

しかし、別れは突然やってくるものである。大学4年生の1月、私はいつものようにRちゃんと品出しをしていた。すると店長が私たちのところへやって来て、サラッとこう告げた。


「来月で閉店なんです」

「ほ~…」


ショックはなかった。何せ私とRちゃんは、大学を卒業したらこのアルバイト先も卒業するということはずっと前から決めていて、店長や社員さん、パートさんにも報告済みだった。店長もそれを知っていたからサラッと言ってくれたのだと思うが、やはり5年間務めたバイト先が閉店するというのはとても寂しいものがあった。バイトの帰り道は、いつもRちゃんと自転車に乗って帰っていたのだが、その日は自転車を手で押しながら帰った。「せめてあと2ヶ月続いてくれれば気持ちよかったのにね」「そうだね」そんなことを話しながら、私たちはグダグダと坂道を下って行った。そして信号に差し掛かったあたりで、二人のどちらからともなくこんなことを言った。


「でもさ、よく保った方だよね」



「だって毎日大量のパン半額で売ってんだもん」



そう、何を隠そう私たちのアルバイト先のドラッグストアでは、毎日意味がわからないくらい大量のパンを発注しては、売れ残った分で賞味期限が翌日付けのものは19時をすぎると半額シールを貼って店の一番目立つところにドンと展開するという、あまりに非生産的なことを行っていたのである。

私たちの働いていたドラッグストアは、観光客や通りすがりの客をメインターゲットにしている渋谷とは違い、完全に近所の人達に向けて建てられたものだった。5年間もアルバイトをしていれば、店にくる大抵の人はよく見る常連さんだということくらいわかった。常連さんばかりだということは、皆19時になればパンが半額になることを知っている人ばかりということになる。

毎日のアルバイトで、唯一苦痛だった仕事がある。それが、「半額シール貼り」の作業であった。18時50分頃から、まずはパンの棚から半額にすべきパンを買い物かごに収集する作業に入る。多い日だと持ち手があがらないくらいパンパンになる時もあった。(しかも買い物かご2個分)

そして、半額シールをどんどん貼っていくわけだが、もうこの時間には背後に異常な気配を感じ始める。
そう、私とRちゃんが「四天王」と呼んでいた、半額ハンター常連達が、背後からカゴに入ったパンの中から自分のお目当てを選りすぐっているのである。はじめのうちは、半額シールがすべて貼られて棚に並べてから手に取ってくれていたが、もう5年も働いていると、「いつものアルバイトの子だ」ということで、無言の圧力をかけてくるのであった。




「俺はいつものあれだぞ、コロッケパンだぞ

お前、わかってるよな」





背中から槍で一突きにされているかの如くバシバシに感じる視線。耐えられなかった。
この四天王にはそれぞれあだ名がついていた。私とRちゃんが5年間のアルバイトで培った経験と知識をもってしてつけた、渾身のあだ名である。


・無駄な抵抗おばさん(毎回変装をしてくる)
・孫おばさん(孫が喜ぶから、孫に頼まれるから、と言っていつも買っていくのは豆パン)
・私じゃないのよおばさん(私じゃなくて、近所の人に頼まれてたのと毎回言い訳をしてくる)
・名探偵おじさん(17時頃に一度偵察だけしに来る)



冗談抜きでこの四天王からの無言の圧力といったら尋常じゃなく、アベンジャーズでも勝てないのではないかというくらい不穏かつ邪悪なオーラを纏っていた。アンパンマンなんて2秒でやられると思う。

そんなこんなで私たちは半額ハンターたちにびくびく脅えながら毎日せっせと半額シールを貼っていた。だからこそ、気付いていた。こんなんしてたら潰れるだろ…と。そして案の定、潰れた。


渋谷の店舗では、この半額パン祭りは行われていなかった。店舗による経営方針の違いなのか、はたまた渋谷というドラッグストア激戦区において意地とプライドのぶつかり合いをしているのか。真相は定かではない。ただ、なんだか寂しい気もした。都会に迎合しちまったのね…と。


あの日の思い出と、今はもう二度と出会うことなき半額ハンター達に思いを馳せながら、さあ店を出ようかと思った時のことである。私は見た。「研修中」の札をつけたアルバイトの女の子が、先輩アルバイトから何やら教えられているところを。そしてその右手には、



半額シールの束が握られているところを…








「痩せたい」そう切に願って幾日かが過ぎた。きちんと自炊をし、炭水化物や間食を減らしたりしているおかげか、少し身体が軽くなったような気がする。しかしそうは言っても理想にはまだほど遠く、手が届きそうにない。年内に木村カエラさんみたいに細くなると誓った私は、10月になった今でも何も変わらず安定のレゴ体型である。しかし今は、とにかく焦らず根気よく続けることが大切だ。継続は力なり、それを身をもって証明してくれた人物が、私の家族にいる。そう、兄である。

ラジオやライブのMCで頻繁にネタとして登場する母とは違い、私は兄の話はほとんどしたことがない。本当にクソがつくほど真面目で、話のネタにするような人物ではないからである。まぁだいぶ変わった人ではあるが、私にはないものを沢山持っている、良い兄である。

兄は毎日筋トレをしている。腹筋、スクワット、腕立て伏せなど、無理のない範囲で、私の見た限りでは毎日欠かすこと無く続けている。記憶を辿ればドイツに住んでいる頃からやっているはずだから、なんだかんだ、20年間続けていることになる。よく噛んで食べるし、間食もほとんどしない。酒も飲まないし、夜22時以降は食事を控える。見た目は全身を無印良品とユニクロでかためた、いわゆるよくいる眼鏡の青年であるが、多分意外と細マッチョだと思う。

兄は頭が良い。昔から真面目で、勉強もよくできた。でも、決してガリ勉ではなかった。受験の時も、試験の時も、徹夜をして勉強したりするところはあまり見たことがない。かと言って毎日予習復習をするようなタイプでもないので、多分授業を真面目に受けていただけだと思う。早弁、昼休みのアイス、先生にバレずに寝る方法、それから男子のアキレス腱についてしか考えていなかった私とは大違いである。
私はいつも、勉強でわからないことがあると兄に質問しに行った。学校の先生よりも、塾の先生よりも、父よりも、兄が教えてくれるのがダントツでわかりやすかった。嫌な顔も特にせず、サラッと教えてくれた。教えるというより、伝えるという感じだった。

そういえば、兄は文章を書くのも上手かった。そのことで少し思い出すことがある。というか異常に鮮明に覚えていることがある。

私が小学校一年生、兄が小学校三年生くらいの夏休み、私たち家族は母の実家に帰省していた。その頃まわりのみんなはたまごっちやゲームボーイに興じていたが、うちの兄妹は非常にアナログな遊び方をしていた。広告の裏に絵を描いたり、瓶の蓋でてんとうむしのバッジを作ったり、家中の洗濯バサミをつなげて襟足につけて「ロン毛だ!!」とか言ってみたり、テーブルの上をステージに見立てて森高千里を熱唱したり。それから、小説も書いた。祖父の書斎から引っ張り出して来た古びた原稿用紙に、それぞれ小説を書いた。その時兄が書いた話は、今でも覚えている。タイトルは、「泣いたライオン」だ。

見た目が怖いというだけで皆に嫌われているライオンと、そのたった一匹の親友のうさぎの話だったと思う。最後はうさぎが病気で死んでしまって、ライオンも悲しみに暮れて泣きながら死んでしまう。その姿を見て、皆はやっとライオンの優しさに気付くのだった、という流れである。今の年齢で考えれば少しありきたりな話なのかもしれないが、当時まだ8、9歳の子どもが書くにしてはできすぎているほどしっかりした小説だった。

ちなみに私が書いた小説のタイトルは、


「死んだウサギ」



であった。そう、

ただのパクリである。



小説の審査員は母だった。母は絵本や児童書が大好きなので、ニコニコしながら私たちの小説も読んでいた。兄の書いた「泣いたライオン」には、はなまるをつけていた。次に私の小説を読んだ母はこう言った。「花には花しか書けないものがあると思うから、お兄ちゃんの感じとは全く違うのを書いてみたらいいんじゃない?」と。

そして書いた小説のタイトルが、







「幸瀬 幸」




である。そう、人名である。なんて読むかおわかりだろうか?





「しあわせ はっぴ」





もう一度言おう。


「シアワセ ハッピ」






である。マジやばい。
しかも書き出しも一字一句逃さず覚えている。





「ヤッホー☆私の名前は幸瀬 幸(シアワセ ハッピ)!髪の毛がブロッコリーみたいで困っちゃう!」




完全にキマっているとしか思えない。たしかイメージは長靴下のピッピだった。ちなみにこれ以降の文章はまったく覚えていないが、母に「花らしい」と絶賛されたことはたしかである。恐らくこうやって、良くも悪くも今の私の雑な感じが形成されて行ったであろうことは言うまでもない。

それにしたってここまで鮮明に覚えているものか、どうせ今考えたんだろ! と思う方もいらっしゃるかもしれない。でもどうか信じて欲しい。異常に鮮明に覚えているのには理由があるのだ。

他の人はどうか知らないが、私は、自分の中ではじめてわき上がる感情を味わった時のことはどれも異常に鮮明に覚えている。初めて感動して泣いた時のこと、はじめて恥ずかしいと思った時のこと、はじめて罪悪感を感じた時のこと。その日自分が着ていた服や、自分がいた空間の物の配置など、事細かに思い出すことができる。

小説を書いて遊んでいたこの日のことに関して言うと、はじめて「この人にはかなわない、負けた」と思ったのである。それは悔しさともまた違う感情で、幼心に、ちょっとした挫折を味わった瞬間だった。なんでもかんでも兄の真似をして、兄の後ろをひょこひょこついてきていたつもりだったのが、急に遠い存在になったような気がしたのだ。その後私は荒れに荒れた思春期があったりして、兄にも大層迷惑をかけた。少しずつ距離は離れて行ったが、今は今なりの距離感で、上手くやっているつもりだ。

普段、兄とはそんなに話さない。仲が悪いわけではない。ただ、ほどよい緊張感がある。
私は兄を尊敬している。何がかはわからないが、自分にはないものを持っている、一生叶わない相手だと思っている。だからこそ、何か納得のいくことができたときしか自分のことについては話さない。兄もきっと、私のことを尊敬しているかどうかはわからないが、多分そんな感じなのだと思う。

そんな私たちだが、一年に一度か二度、8時間くらいずっと二人で喋り続けることがある。タイミングは謎だし、酒が入っているわけでもない。ただ、こんなに気の合う友人はいないというくらい、楽しい。大体はじめはなんてことない話。デジモンが復活するらしいとか、コロコロコミックを読むとなぜか食欲がなくなるとか、おっぱいプリンがマジで許せないとか、そんなとこだ。だけど気付けば自分のこれからのことや不安なことを話している。たまに意見も食い違うが、お互い少しずつ大人になったのか、最後はまぁお互い頑張りましょうぜってことになって、気付けば大体日が昇っている。

そういえば、実は今回はじめて、自分のアルバムを兄に渡した。聴いてくれたかどうかはわからないが、渡せたことに意味があるし、兄が受け取ってくれたことに意味があるのだと思う。

いつか兄と仕事をするのが私の夢だ。どんな形でも良いのだが、なんとなく同じ現場に居合わせてみたい。そしてその時の話をネタに、また日が昇るまであーでもないこーでもないと話すのだ。




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