人の目をうまく見られないのである。というか、「目を合わせる」ということの正解が未だにわからないのである。


私は目を見て話してくれる人が好きだ。目を見て話をされると緊張するという方も中にはいらっしゃるかもしれないが、私はその逆である。目を見て話してくれたほうが安心する。自分に興味を持ってくれているような気がして嬉しいし、繕って話してもいい意味でこの人にはすぐにバレちゃうなと思えるから、余計なことを考えずにありのままで話せる。

 

だから自分もそうありたいなと思うし、なるべくそうしようと心がけているのだが、どこを見るのが正解なのかはよくわからない。

 

両目を見て話そうと思うと、自然と視界がぼやけてくる。間をとって右目と左目の間のどこか一点をぼんやり見つめてみたりもするのだが、次第に「本当にこれは目を見て話していると言えるのだろうか」などといらぬことが頭の中をチラつく。多分はたから見たら「目が合っている」状態になっているだろうけど、本当はそうじゃないというか、物凄い空っぽな瞳で向き合っているような気分になるのだ。

 

それならば右目か左目、どちらかの目にピントを合わせてじっと見つめてみたりもする。そうすると一点を見つめればいいのでだいぶ楽だ。これも多分「目が合っている」状態にはなっているのだろう。でも、相手の片方の目は完全に蔑ろにしている状態になる。人の目は二つあるというのに、果たして正しい見つめ方と言えるのか。これはこれでちょっと疑問が残る。

 

映画やドラマで俳優さん同士が至近距離で見つめ合っているシーンを見るたびに、「この人たちの目のピントはこの時どうなっているんだろう」と思う。画面越しに見ると当然なんの違和感もないわけで、しかも全然黒目がキョロキョロもしていない。自分があの距離で人と見つめ合うことになったら、「ええっと、どっちを見たらいいんだこれは!」と、相手の左右の目を行ったり来たりして視線がブルブルと小刻みに震えるように動いてしまうと思う。でも彼らはまっすぐ迷いなく、相手の両の目を見つめている(ように見える)。その目の奥の輝きや空虚感さえも、表現の一つとして完全に完成されている(ように見える)。あれはどうなっているんだ。どこを見ているんだ。本当にすごいなあと見るたびに思う。

 

向かい合っているわけだから、自分の右目で相手の左目を、自分の左目で相手の右目を見るのが理想的な見つめ合い方に思えるが、相手の両目どちらにもピントを合わせるのは、さすがにどんなベテラン俳優さんでも物理的に困難じゃないだろうか。少なくとも私はどんなに頑張ってもできない。これは相手が誰であろうと。初対面の人だろうと、親だろうと、友人だろうと、赤ちゃんだろうと、猫だろうと。

 

まあただ一つ言えることは、頭で考えてもきっと無駄ってことだ。そもそも視線の置き所に意識を半分持っていかれている時点で、きっともうそれはある種の迷いとして自分の目に現れてしまっている。


迷いなきまっすぐな視線を持っているように見える人たちほど、本当は案外ぼんやりふんわり世界を捉えているのかもしれない。視線のピントとか小さいことに意識を持っていかれたりせず、肩肘張らずに自然と相手や物事の本質を見抜けるようになった時、その人の視線に強さは宿るのだろう。


とかなんとか言いつつ、私はまだまだその域に達していないので、やっぱり気になる。みなさんは人と目を合わせる時、どうしてますか。どこを見て話をしていますか。


先日、いつものように散歩をしていた時のことである。幅が一人分くらいしかない狭い路地の坂道の途中で、一際目を引く黄色い花を見つけた。

黄色い花というと、個人的にはタンポポやひまわり、菜の花やチューリップなど、"茎と葉っぱと花"のイメージが強い。しかしそれは、なんだかウネウネした変な寝癖みたいに枝垂れた枝に、可愛らしい花をちょこちょこつけている感じだった。

立ち止まってしばらく眺めていると、数メートル先で立ち話をしていた年配の女性が話しかけてきてくれた。「それ、雲南黄梅っていうのよ」どうやらその人が育てているものらしかった。

その名の通り、雲南黄梅はもともと中国の雲南省に自生している花だと言う。「かわいいでしょ、やっと咲いたの」と言いながら笑うその人はちょっと誇らしげで、どこか懐かしい感じもした。

この一年で、私はよく散歩をするようになった。いわゆる散歩コース的なところではなく、住宅街とか、今回雲南黄梅を見つけたような小さな路地などを好んで歩いている。

誰かに見せびらかすわけでもなく、でもたしかに愛情を込めて育てられた花や木たちがそこにはある。ガーデニング と言うほどお洒落なものではないが、それがいい。景色として完成されていないからこそ、より一つ一つの花の個性が際立って見える。

もうだいぶ前に亡くなってしまったが、母方の祖父は植物を育てるのが好きだった。庭中植木鉢だらけで、最終的には2階の一室も植物部屋と化していた。

小さい頃の私はそれを見て、どうせならもっと綺麗にすればいいのにとずっと思っていた。せめて植木鉢を統一するとか、花の色ごとに分類するとか、グラデーションにするとか、せっかくなら人を招き入れられるような可愛い庭にするべきだ。そうじゃなきゃ何のためにこの植物たちを育てているのか、意味がわからなかった。

でも最近になってようやく、それだけが植物の楽しみ方じゃないということに気付いた。植物の圧倒的な生命力は、良い意味で本来人の手に追えるものじゃない。予想外の方向に伸びる枝、まだらに咲く花、放っておけばすぐに茶色くなっていく葉っぱたち。答えがないから面白いのだ。

完成形をイメージして、それに向かって庭や軒先を整えていくのももちろん素晴らしい。でも、どんな感じになるのかなあと想像しながら、その期待をいろんな方向に裏切られながら過ごす毎日も、きっといいもんだと思う。そして自分以外の誰かがその面白さや美しさに気づいてくれた時、なんとも言えない嬉しさがそこにはあるのだろう。説明できないものを分かち合えた時の喜びは、いつだって特別だ。

そういえば、兄は祖父によく尋ねていた。「これは何の花?」「なんでこんな伸びるの?」私はいつもそれを眺めているだけだったが、祖父がとても楽しそうにしていた記憶はある。ああそうだ、雲南黄梅を教えてくれたあの人の笑顔は、祖父にちょっと似ていた。

時々ふと思う。天国にもWiFiって飛んでるのかしら。そしたら祖父に写真を送ってあげたい。ちょっと不恰好だけど生き生きとした雲南黄梅、きっとあなたも好きでしょう。

(写真ここにも載せたかったのですが、思いっきり住所が写っていたのでやめておきます。すみません)

本日2021年3月3日(水)、私関取花は、メジャー1stフルアルバム「新しい花」をリリースしました。全13曲、頭のてっぺんから爪先まで最高の自信作です。
 
少し前から今作のプロモーションが始まっているのですが、ラジオや取材などで「この作品はどんな作品ですか?」と聞かれるたび、一言でまとめられなくて困っています。そりゃそうだ、だって私の10年間の音楽が、人生が、ここに詰まっているんだもの。
 
言いたいことがあり過ぎて、思いが溢れすぎて、一言でこうですなんて、とてもじゃないけど言えないです。だから結局長々と喋ってしまいます。それをいやな顔ひとつせず聞いてくださるパーソナリティの方やインタビュアーの方には、感謝の気持ちでいっぱいです。また、そうやって人に話しながら、自分の中であらためて見えてきたこともありました。
 
これからきっと、たくさんのラジオですでに収録させていただいた私のコメントが流れるし、インタビューも随時公開されて行くと思います。きっとそれらと内容が被ってしまうこともあると思うけれど、やはり自分の言葉、文字でも残しておきたいと思ったので、ちょっとブログに書いてみようと思います。長くなると思うけど、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。お願い、今日くらいは自分語りさせて!(笑)
 
私は昨年、デビュー10周年を迎えました。最初のミニアルバム「THE」を出したのは19歳の時。閃光ライオットという大会で、「花」という曲を歌ったことがきっかけで、C Dを出させていただきました。
 
「花」という曲の歌詞は、めちゃくちゃざっくり要約すると、「いろんな人から水をもらい光をもらい、私は少しずつ少しずつ花になる」という内容です。でもその時はあくまでも、「これから少しずつ花になって行きたい」という状態で、自分のことがまだ大嫌いだった。いつか私も私らしさという花を咲かせて、自分のことを好きになれる日が来るんだろうか。そんな不安を抱えながら、「綺麗じゃない 華もない 泥臭い私だけど 少しずつ少しずつ花になる」とたった一人で自分に言い聞かせている、そんな歌でした。
 
それからいろんなことがありました。10年間、本当にいろんなことがあった。でも、自分にとっては一つ残らず宝物です。いろんな人に出会って、いろんなお仕事をさせてもらって、いろんな歌を作って歌って、いろんな水や光をたくさん吸収させてもらった10年間でした。
 
たまに、「関取さん、もうデビュー10周年なんですね。意外と苦労人ですね」と言っていただくことがあります。でも、めちゃめちゃ尖っていた10代から20代前半の頃も、なぜかバラエティ番組にちょこちょこ出させていただいていた25、6歳の頃も、そして30歳になった今も、自分が苦労人だなんて思ったことは一度もありません。
 
その時々でもちろん葛藤はあったし、自分のことを嫌いになったりもしたけど、それもこれも社会経験の一つだと思っていました。痛みのない経験なんてあるわけがないんです。なんなら自分の人生を後々豊かにしてくれるものほど痛みを伴います。でもだからこそ忘れないし、次に活かせるし、誰かへの優しさに変えられたりもするんです。痛みがあるから新しい自分に出会えるんです。だったらそんなのばっち来いじゃないですか、自分で苦労というレッテルさえ貼らなければ、そんなの全部ただの経験に過ぎない。そう、私という人間を豊かにするための。
 
そうやってたくさんの人から水をもらい、光をもらい、自分自身の経験を栄養にして、今私は、やっと関取花という花になれた気がしています。私は私のままでいいと、10年かけてやっと思えるようになった。私は私が大好きです。それは他でもない、今の私を作ってくれたこれまでのすべてに誇りを持っているからです。きっと何一つ無駄なものなどなかった。
 
今回のアルバムは、「私は私のままでいい、あなたはあなたのままでいい」というコンセプトを先に決めてから、曲を選んだりアレンジを考えたりしました。これほど明確に自分の伝えたいメッセージが出てきたのは、初めての経験でした。自分のことが大嫌いだった私が10年かけて自分を愛せるようになって、今やっと「あなた」に言えるようになったんだと思います。「あなた」というのは聴いてくださるすべての方であり、過去の自分でもある。
 
長くなりましたが、このアルバムから私のミュージシャン人生の第二章が始まる予感がしています。逆上がりの向こうがわで私を待っていたのは、私という、誇り高く咲く新しい花でした。風に吹かれてゆらゆらと、私だけの揺れ方で、お空に向かって伸び伸びと、時には俯くこともあるだろうけれど、私だけの咲き方で、これからも何度でも花を咲かせて行きたいです。さあ、何色の花を咲かそうか。これからの自分が楽しみです。
 
最後まで読んでいただき本当にありがとうございました。このアルバムが、どこか誰かの心の中に、新しい花を咲かせてくれることを願っています。


「新しい花」初回盤
_var_mobile_Media_DCIM_139APPLE_IMG_9533.JPG
「新しい花」通常盤
_var_mobile_Media_DCIM_139APPLE_IMG_9572.JPG
CD購入はこちら↓
sekitorihana.lnk.to/AL_AtarasiiHana

配信はこちら↓



コーラが好きだ。本当だったらレコーディングもライブのステージドリンクもコーラにしたいくらいだ。でも悲しきかな、炭酸を飲むと人というのはおゲップちゃんが出る生き物である。せっかくものすごくいい歌を歌えていても、途中でおゲップちゃんが出てきてしまったら元も子もない。マイクを通したら奇跡的にボイスパーカッションとベースを同時に出したような音になるかもしれないとか時々思うが、その発見よりもP Aさんやお客さんに嫌な顔をされるリスクの方がはるかに大きいので、多分一生やらない。
 
まあおゲップちゃん問題のことは置いといて、炭酸を飲むと喉が開く気がする。シュワシュワで刺激されてガッと喉が起きるような、そんな感覚になる。糖分を摂取することで頭も覚醒しそうだし、一時コーラにハマり過ぎていた時は、寝起き一発目でコーラを飲んで目を覚ましたりしていた。あとはとにかくもう、あのジャンクさと身体にあんまりよくなさそう感がいい。幾つになってもちょっといけないことをしている気分になれて、なんだか楽しい。とにかく私はコーラが大好きなのだ。そんなわけで今日もペプシ・コーラを飲んでいたのだが、ふと思い出したことがある。
 

みなさん、ペプシマンを覚えているだろうか。というかご存知だろうか。

 
マッチョで、目鼻口のないのっぺらぼうで(口だけたまに出てくる)、顔も身体も基本的には銀色で、身体は半分だけ青だったり真ん中だけ赤だったり、ペプシマン・レモンの時はレモン色のニット帽を首元までかぶっていたりするアイツ。ほぼ裸にニット帽、普通にヤベエヤツなアイツ。「ペプシマーーーーーーン♪」というテーマソングに合わせて、手を縦にしながら全速力で走ってくるアイツ。これだけ聞くと、知らない人からしたら何それ怖いって感じだろう。でもググってみてほしい、ペプシマンで。なんだか不思議な魅力があるのだ。
 
一時はペプシコーラがこのキャラクターを結構推していて、C Mなんかにも登場していた。そしてなぜか私はこのキャラが大好きで、フィギュア付きボトルキャップをせっせと集めていた時期もあった。なんであんなに好きだったんだろう。自分でも今更気になったので、ペプシマンについて少し調べてみることにした。すると、どうやらこんな設定があったらしい。(以下、あくまでもウィキペディアからの引用です)
 
 
弱者を助ける正義のヒーローとして登場し、困った人を助ける為に主にペプシコーラを届けるなどの活躍を見せるが、弱点は「かっこよさが15秒以上続かないこと」で、それにちなむドジでマヌケな面があり、親しみやすいキャラクターとしてCMで表現された。このCMが人気を集め、シリーズ化された。
 
 
なるほど。あれだ、これは私が一番好きなタイプのキャラクターそのものだ。完全無欠のヒーローよりも、ちょっと抜けている人間味のある感じ。「かっこよさが15秒以上続かないこと」ということは、15秒尺のC Mだと最後に必ずマヌケなオチがあったんだろう。たしかになんかそんな感じだった気もする。いやあ、めちゃめちゃ愛らしいじゃないか。やっぱり好きだ、ペプシマン。

ちなみに「ペプシマン」で検索すると、関連検索ワードに「ペプシマン 消えた」「ペプシマン 現在」などが出てきた。完全に「あの人は今」状態。あたしゃ悲しいよ。いいヤツほど淘汰される世の中の傾向、よくない本当に。(何があった)
 
そういえば私が中学生くらいの頃って、ペプシマン以外にも飲み物に関するキャラクターが結構いて、生茶パンダ、Qoo、なっちゃん……(言ってもそんなもんか?)どれも好きだった。肝心の飲み物も好んで飲んでいた記憶がある。何ぶんキャラクターものにめっぽう弱いタイプなので、今思い返せば完全にそれに引っ張られていたのだろう。
 
でも、最近はあまりそういうキャラクターものって見ない気がする。流行りじゃないのだろうか。キャラクターなんか作らなくても、今はより効率の良いウェブプロモーションとかでなんとかなるから、作る必要もないのだろうか。うーん、夢と親しみやすさがあって好きなんだけどなあ。もし何か新しい飲料系キャラが登場したら、私は全力で応援するぞ!
 
あとペプシマンにはぜひ表舞台に戻ってきてほしい。なんとなく、ああいう肩の力の抜けたヒーローが必要だと思うんだ、今の時代には。

_var_mobile_Media_DCIM_139APPLE_IMG_9357.HEIC

ペプシマン・ゼロがいたらどんな感じになるのかも気になる。

うちのキッチンのガスコンロ、時々勝手に弱火になる。ある一定の温度に達したら危険を察知して自然と火力を調節する機能が付いているのだろう。令和にもなるとそんなことまでしてくれるらしい。たぶん平成からある機能なのだろうけれど、自分の住む部屋に付いているのははじめてだったので驚いた。
 
このガスコンロがもし人だとしたら、たぶんすごいイイやつだと思う。用心深くて真面目で親切、相当気の利くやつだ。とてもありがたいのだが、その「よかれと思って」が結構厄介だったりもする。
 
先日、チキン南蛮を作っていたときのことだ。私は基本的に家で揚げ物をしないため、揚げ物的なものを作るときは少し深めのフライパンで揚げ焼きにすることが多い。この日もそうだった。あらかじめ食べやすい大きさに切った鶏もも肉に、卵と小麦粉で衣をつけて、少し多めに引いた油の上に並べて行く。あとは中火〜強火で表面はカラッとしつつ中には火がちゃんと通るように焼いて行くだけ……と思ったのだが、肉をフライパンに並べ終わったくらいで急に弱火になってしまった。そのあとは何回火を付け直しても少ししたらまた弱火。揚げ焼きをしたい時にこれはかなり致命的である。
 
説明書を見れば一時的にこの機能を止める方法が載っているかもしれないとも思ったが、料理中に部屋のどこかにしまった説明書を取り出してわざわざ見る気も起きないし、同時進行で他の料理も作っているからそんな暇もない。というか、キッチンでよそ見している間に危険なことにならないようにと弱火になる機能がきっと付いたのに、そのせいでよそ見するなんて本末転倒過ぎる。というわけで私はそのまま調理を続けた。
 
弱火になっては火を止め中火にして、また弱火になったら火を止め中火にすることを何度か繰り返しながら、なんとか私は揚げ焼きに成功した。次はそれに絡めるタレ作りである。フライパンに残った油を拭き取ったあと、私は甘酢ダレに使う調味料をフライパンにぶち込み、中火にかけた。とはいえフライパンにはまだ揚げ焼きの時の熱が残っているし、このままさらに熱くなればまたあの機能が起動するだろう。勝手に弱火になって、むしろいい感じの火加減でタレを煮詰めてくれるはずだ。あの機能をどうせなら遺憾無く発揮させてやりたいと思った私は、全力で乗っかることにした。
 
そしてちょっとよそ見をしてメルカリを見ることにした。気になっていた商品にコメントが付いたという通知が来たのだ。もしかしたら即決されてしまうかもしれないと思うと、いてもたってもいられなかった。ちなみに見ていたのは「食べっこどうぶつ」のフィギュア。集めたくて前にガチャガチャで何度かやったのだが、三回連続ヒヨコしか出なかったやつだ。
 
幸いまだ狙っていた商品は即決されていなかったので安心したが、何気なく下の方へページをスクロールしてみたら、あなたへのオススメ的なところに「食べっこ水族館」のキーホルダーが出てきてしまった。なんじゃこれ、めっちゃかわいいやないか。これは無視できない。即決されてしまうかもしれない……と思った私は、ついついそのままメルカリ沼に足を突っ込んでしまった。
 
そんなことをしているうちに、何やら香ばしいけれど確実に危なっかしい匂いが漂ってきた。恐る恐る甘酢ダレの方に目をやると、グツグツ言っているではないか。火を見てみたら、ガンガンの中火。弱まる気配も一切なく、もう自信満々の中火。なんでだ! これ以上やったら煮詰まりすぎてタレが水飴みたいになりかねないと思ったので、私は急いで火を止めた。どういうことだ、あの機能は油にだけ反応するのか。フライパンの上に何の液体が乗っているかまで今時のコンロはわかるというのか。いずれにしてもなんだかすごい時代になったものである。
 
結果的にはこちらも結局ギリギリで事なきを得て、チキン南蛮はなんだかんだ美味しく作ることができた。それにしても、いろんな手間を省くために揚げないで揚げ焼きにしているというのに逆にこんなに手間取る羽目になるとは。何事も便利すぎたり親切すぎたり、それに頼りすぎたりするのも考えものである。いやはや、「よかれと思って」って難しい。まあメルカリ見なけりゃここまでバタバタしなかったんですけどね。 
 
_var_mobile_Media_DCIM_139APPLE_IMG_9341.HEIC

↑このページのトップへ