お知らせ



子どもは、感情がコントロール出来ないことが多くて

それは大人の中にも脳の構造上、そうなってしまう人もいて

どうすれば上手く伝えたいことが伝わるだろうかと考えながら

言葉を選んだりして、失敗した!成功した!を毎回繰り返してます。


否定されるのを攻撃と思ってしまう人や子どもには

本来は声と表情が分かる状態で

柔らかい口調で、「なぜ、いけないのか?」から端的に説明する。


それでもなかなか通じないもので時間が経って理解されると

あぁ良かった、と胸を撫で下ろすの繰り返し。


色んな若者や子どもとの会話の中で、複雑な感情が見えてきて

自分には簡単なことも、人によっては簡単じゃないと気付き

受け止めることを覚えていくようになりました。


多分、私は器用な方で、空気も読めてしまうし、

自分の心の処理も上手いほう。


それは生育環境からもあるだろうけれど、

それだけではない何かが複雑に作用して形成されている。


だから、人の気持ちが少しでも楽になるようにカウンセリングも

コソコソと行っているけれど、子どもは本当に大変だ。


そして裏には親の対応も影響していることが多い。


せめて、子どもを蔑むのは辞めて欲しいと願う。


言うことを聞かない子に対して、汚い言葉を使うと

学校で連鎖が起こり、誰かが悲しむ。


人の心は小さなことで揺れるから、心無い言葉だと思う言葉は吐かない。


私自身にも約束。



今、タイトルに興味を持ったある対談の本を読んでいるのだけど

テーマが犯罪なのに、ひとりの人からは続々と映画のタイトルと

知識が出てきて、サブカルの本だったっけ?と苦笑。


そういえばある映画を見に行った時、この方が登壇されていて

話を聞きたい人よりもやたらとその方が一方的に話すから

萎えてしまったのを思い出した。


知識は使い方によっては弱点になる。


言葉にもTPOが大事なんだと気付かされる。


その会話の本質からズレ、自分のしたい話を長々とすると

対談ではなく、コミュニケーションが苦手な人の

自己陶酔が薄ら見え、良い印象にならないのだ。


そのテーマの知識が対談相手よりないと思うなら

少しでも知識を得たいと、聞く姿勢を持てばいいだけなんだけれど。


「聞く」時間は大事、そしてバランス良く互いに会話するのが

対談では、観客も本人たちも良い時間だと思えるもの。

私は、どうしても引っかかってしまう箇所が存在する映画があると

その感覚を大事にしている。


何故、引っかかるのか、どうしてそう感じたのか、この囚われはなんなのか?


引っかかるものがある作品は、

そこ以外が素晴らしいと感じているものが多く、

引っかかりに悔しさを覚える。


時間をかけて答えを自分なりに見出した時は紹介しない

タイトルを出さないという選択を取る。


その映画を他の人がどう評価しようとその人の感性なのだから

親しい関係で議論しあえる以外は、否定するのは失礼な話。


それでも映画賞の審査となると顔を合わせてとことん議論をする。


そこには年齢も性別も関係ない。


この感覚は大体にして、命に関わること、心的影響面で良くないこと

と思う表現についてが多く、映画賞審査の場合は特に大事にしている。


好き嫌いではなく、話題性でもなく、お手本とすべき映画か?


審査するとはそういうことだと個人的には思っている。


刺激の強い作品は、エッジが効いていると履き違えてはいけない。


ジェンダーバランスも意識出来ているか

テーマも増やしていきたい問題か?


人の心にどう影響を及ぼすかで映画から社会を変えていくことを

信じる作り手や評論家が増えたらと

生意気にも思うんですよね。

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