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発展を極めた情報技術が環境のなかに溶け込んで透明化した未来の社会。そこには美しい自然環境がよみがえり、昔ながらの丁寧な暮らしが取り戻されつつあるかに見えた。しかしそれは、持つ者と持たざる者の対立が巧妙に隠された社会でもあった。

古くて新しいライフスタイルを求める人々が集まる代々木犬助の故郷・遠野。初め感じた親愛は、次第に違和感となり、やがて、そのムーブメントの中心にいる藤原犬田老への反発となっていく。そして、機械的知性たちの能力を組み合わせた降霊会がはじまる。そのとき死者は蘇り、神が現れる。

新たな象徴を戴いて生まれようとする内なる外国は、対立を解消する福音か、それとも……

此の書を内なる外國に在る人々に呈す

自分が心地よいと感じる領土を旅立ち、帰還し、その繰り返しによってComfort zoneを広げる。そして次はさらに遠くまで出かけてみる。そして再び生きて帰ってくる。
最初のうちは、誰かが背中を押してくれるし、弁当だって持たせてくれる。風呂も沸かして待っていてくれるかもしれない。
しかしやがて、そこを旅立つのが億劫になってくる。それでもなお、見送ってくれる人がいなくなっても、尻に鞭打って出掛けていかなければならないときがある。そして、待っていてくれる人がいなくなっても、帰ってこなければいけないときがある。

なんのために?
知らない。
それをする人、しない人、したけれど帰ってこれない人がいる。それだけ。

僕は旅の途中で、Comfort zoneの外側で帰るべき領土を見失ってしまった人々を見つけることがある。その手を引いて導こうにも、どこに向かえばよいのかわからない。彼らはさらに外側の世界にに自らを駆り立て、傍目にはPanic zoneに踏み入れているように見える。

でも本当にそうだろうか?
本人以外の誰がLearning zoneとPanic zoneを見分けられるというのか。

いや果たしてそうだろうか?
他者だからこそ、帰り道を示してあげることができるのではないか。

振り返って自分はどうだったかと考えてみると、Panic zoneの果てに至ることによって、それによってやっと、そこから反転し帰還することができた。内省の習慣を欠かさぬことでぎりぎりのところで自失ぜずに済んだ。

待て。それは本当か?
誰かが導いてくれたのではなかったか。時を止めて、冷静さを取り戻してくれたのではなかったか。

あるとき背中を押してくれた誰かは、あるとき誰かの手を引くことがある。同じように、僕の背中を押してくれた誰かの手を、いつの日か僕が引くことがあっていいのかもしれない。

それに資格がいるか?
知らない。
それをする人、しない人、したけれどうまくいかない人がいる。それだけ。

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その日はじめて会った15人の大人が、スコールに振られて雨宿り。いつ止むかわからないけど、こっちはこっちで何の予定もないので、ただただぼけっとして過ごす。雨宿りなんて、いつぶりだろう。

というわけでフィリピンでの英語学習がんばります。

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