25年。

当時6歳だった私ですが、記憶はしっかりあります。

開いたタンスの中にすっぽりはまった私は、急死に一生でした。

もしタンスより、私の身長が大きかったら…
タンスが開かずそのまま下敷きになっていたら…

今の私はいません。

違う部屋で寝ていた父は、タンスの下敷きになった私の姿に頭が真っ白になったと思います。

父親が必死の声で「あやこ!!!生きてるか!!!」と叫んだ声は今でも覚えています。

私6歳。弟3歳。もう一人の弟はまだ生まれて6ヶ月。

リビングの机の下に兄弟3人が入り、私は末っ子の弟を抱いて、目の前のアパートが燃えあがる姿をじっと見ていた事もしっかり覚えています。

あの時は何が起きたか分からないけれど、決して泣いてはいけない。しっかりしなくてはいけない。という強い思いがあった様で、私がしっかりしていたから、弟2人も泣くことがなくお前は偉かった。と後に父親から教えられました。

寒空の中近くの小学校に避難しましたが、もちろん学校も開いていません。大人たちが体育館のガラスを割り、血だらけになっていました。

体育館での避難生活。
食べるものも菓子パンやおにぎりでしたが、私たち子供は泣き言も言わず黙って食べていたそうですが、私たちの隣に居た方が持っていたショートケーキをじっと見つめていたようで、その方がショートケーキを譲ってくれた事も覚えています。

避難生活の中で一度だけ、嫌だと泣いたことがあります。
それは水も流れずトイレが詰まっていたので、子供用のおむつを配られ、そこにしなさいと言われた時。

当時6歳の幼稚園の年長。数ヶ月後には小学一年生になる私にとってはオムツをするということが受け入れられなかったようで、、、
嫌だと泣いて父親を困らせました。

そして私たち家族は、大阪の祖父母の家に3ヶ月避難していました。幼稚園も3ヶ月間、大阪の幼稚園へ通いました。

神戸生まれの私にとって、1月17日は決して忘れてはいけない日です。

父や母が
あの震災で生きていたことは奇跡。
生かされた生命を大切に精一杯生きなさい。
という言葉をいつもこの時期に話してくれます。

今思えば、両親はただならぬ恐怖と不安に襲われていたはずです。その中で私たち3人の子供を守ってくれた事を今、改めて感謝します。

私は弟を突然亡くし、それはそれは言葉にしたくない、出来ないほど辛いです。
でも、25年前の震災で突然家族を亡くした方も沢山沢山います。幸せな日々が一瞬にして奪われた人も沢山います。
震災25年の節目に被災して家族を亡くした方のインタビュー記事を読んで、突然大切な家族を亡くした気持ちが手に取るようにわかります。

「どうしてこんな目に」

誰を責めても、叫んでも、泣いても、怒っても亡くなった人は二度と帰ってきません。

自分たちは歳を重ねるけれど、自分の中に焼き付いている亡き人の姿は当時のまま。

「今…生きていたら」

考えると涙が溢れます。

でも、泣いてばかりいたら天国にいる弟も無念だと思うのです。突然先立つことになった本人自身も思い残す事は沢山あったと思います。もっともっとやりたいことも沢山あったと思います。
弟の分まで必死に生きて、やりたい事に沢山挑戦して、弟の分の人生も全うして…そんな姿を天国から弟に見守っていて欲しいなと思います。

阪神淡路大震災が起きた1995年に
神戸で生まれ、今も大切に歌い継がれている曲

『しあわせ運べるように』

その一節より
〝亡くなった方々の分も
毎日を大切にいきていこう〟

1日1日を大切に生きることが何よりも大切だと。

今、改めて感じます。

今日生きていることに感謝。