こちらを見つめているおばあちゃんの瞳を見て、わあ、綺麗だなあ、と驚いたのを鮮明に覚えてる。

記憶や思い出、何も分からなくなっても、それでもおばあちゃんの目は、あまりにも澄んでいて、そのたった2つだけが、病室のたくさんの中で、どれよりも綺麗だった。
それは本当に、驚くほどだった。

涙がこみ上げてくるほど、綺麗な瞳だった。

私の目はおばあちゃん譲りかなあと、そのときに思った。
ただの遺伝。先天的な。
わたしとおばあちゃんは全然違う。
おばあちゃんみたいに美しくない。
されど遺伝。


何年も前のはなしですが。
大好きな映画を作る人に、何度目かに会いに行ったときのこと。
覚えてないだろうなと思ったら、
「覚えてるよ。ダイヤモンドの瞳の桜子ちゃん」
と言われたことがあった。

驚いた。
息をするように詩的な言葉を吐くひとだったけど、それにしてもあたりにも不意打ちで、喉元まで出てきたのは、
いいえ、わたしのなんて偽物です。
そんなに綺麗なものじゃないんです。
みたいな言葉だったけど、もちろん言えなかった。


瞳の綺麗なひと。
綺麗だなあと思う。

「おめめちゃんきれいよ。」

"綿の国星"という漫画の、この台詞がかわいくて、好きで、きれいなおめめちゃんを見ると、まねして言いたくなってしまう。

おめめちゃんきれいよ〜


ふとした、何気ない瞬間に、遠くを眼差すその瞳や、もっと奥まで、見つめようとする瞳。
その瞳には何をうつしているの。うつしてきたの。

この間、おじいちゃんの瞳を見て、ふと、綺麗だなあと思った。
動物の赤ちゃんみたいに、濁りなく澄んでいて、きらきらしていた。
おばあちゃんを思い出した。

見つめようとすればするほど、反射してきらめく。





2020.5


_var_mobile_Media_DCIM_168APPLE_IMG_8530.JPG





自分の言葉というものが、立ち振る舞いというものが、自分の体も、名前も、私の外側を形作るものひとつひとつが、まったく私とは乖離していて、そんな自分が、とてもくやしく思います。

私はいつだって、誠実でいたいです。
それだけを持っていたいと、ずっとずっと思っています。

そこにいる小西桜子はだれですか。

誰かが作り上げてくださった"おかげ"で小西桜子でそこにいれるなら、いらないです。
こんなことを思うなら、私の本当の名前も、この世界で生きるときに、捨ててしまえばよかったんですか。


昔、とある現場で、カメラ前に立っていたときに、「人前に出る人間が現場でそんな顔をするな」と怒られたことがありました。

私はただ、その瞬間、本気でお芝居のことだけ考えていました。
本気で良い芝居がしたいと、この役に、この空間に、誠実にいたいと、ただそれだけを一点に思っていました。

それ以外は、あー眠たいとか、疲れたとか、本当にそんな余白は一ミリもないくらい、ただの本気でした。全集中。

私はほんとうに、一瞬意味がわからずぽかんとしてしまって、それはもう、さらに完全な"悪"印象だったと思います。

それ以来、本気になっている時ほど、あ、口角を上げよう、とか、あ、周りを見よう、とか、なるべく気付いた時に思うようにしていますが、こんな私がそのことに気付けるのは、既に何かが生じているということで、それに気付くのもそのあとです。

本気じゃない時の私ほど、笑顔で、素直で、穏やかで、大人しくて、平和で、謙虚で、
それが側から見たら、"正しい"方。らしい。

そう思われてしまうのは、本気の方の私が"悪"だからですか。

普段、誰よりものんびりとしている私が本気になれるのは、このお仕事をしている時くらいです。
それだけ私にとって何よりも大切なもので、妥協したくなくて、いつだって真剣だし、本気です。

そこには自分の意思があるから、譲れないものは譲らないし、身の程知らずだと分かっていても、言いたいことは言います。
自分が快適な思いをしたいとかよりも、良いものを作りたいという気持ちしかありません。
でも、もしかしたらそれを自分の中だけで強く持ってしまうことが、わがままというものなのかもしれません。

だとすれば本当に、人前に出る人間じゃないのかもしれないです。
人前というよりも、人と関わることのすべてが、得意ではないです。むかしから。
人に限らず、自分以外のすべて。
子供の頃の記憶のほとんどが、私はこのまま一生、私以外の世界と上手く関わらないんじゃないかという毎日の不安でした。

それでも。私は今、たくさんの人の前に立って、たくさんの人と、ものと、関わって生きています。
私と世界をつないでくれる好きなものに出会えて、その好きなことをして生きています。
だから今、私がこうして生きれていられるすべてに、心から感謝しています。
深く。

この世界には、こんな自分でも肯定されたと思える瞬間があって、自分自身も、自分のことを肯定できる瞬間があって、
ああ、生きててよかったと思います。
そういう気持ちの積み重ねで、生きながらえています。

最近も、そういうものに出会いました。
ああ、私が、絶対にやりたいと思いました。
こんな私が、こんな私だから、そう思いました。


私は。
小西桜子です。

これからも。


いつまでこんなこと言ってるかなあ。
いつまでも言ってられないから、今ここで言っています。

見つけてくれたあなた、
明日の朝には、消しているか一緒に賭けしようー。

だから今は、またあした。

おやすみなさい。









「時間が経って色々なことが流れていって、慣れなんてとんでもないけど、ありがたさがわからなくなってきてたなあと実感した今日だった。

悔しいことに不感症になってきているけど、あの日、人生で一番悔しくて泣いた次の日だったからこそ、今があること忘れないでいたい。

あの日の私は、客観的に見てもぎらぎらだった、こんなへにょへにょな私だから信じられないかもだけど、本当にこれからの人生で死ぬ気で取り返してやりたいと思っていた。そんな気持ちが無かったら、今頃もっと地獄だった。

事実として、それがちゃんと、届いたということ。今更初めて、私はあの日のぎらぎらをちゃんと全部あの時間に残せたかなって考えた。

 明日が来る前に、まさかのこの奇跡みたいなタイミングでそのことを思い出させてもらったこと、出来過ぎなくらい有り難い。
あの悔しさぶりにトイレで嗚咽するほど泣いたのが今日で、本当に良かった。まだ本当に現実になる前のうちに悔しくなれた。

きっとこれからの方がもっともっともっと悔しさを味わうんだろうけど、その何倍もわくわくしたい。

あの気持ちごと忘れないための、ジンジャエール。」

_var_mobile_Media_DCIM_177APPLE_IMG_7651.JPG

カネコアヤノちゃんのバンドセットが終わって、ネバヤンの前にふと携帯を見たら、マネージャーさんから連絡がきていた。
後にも先にも、私が初めて立ったカンヌのこと。そこに立てるよ、と。
私は偶然にも、一番に伝えたいと思えるひとたちと同じ空間にいて、なんだか人生のいろいろな瞬間が走馬灯のように過ったライブハウスの夜だった。
そんな2年前の春の日記。


なんか最近の私は、とってもだめだ。
かるい。ふわふわと、風船みたいに飛んでいきそう。

これって良いことでもあると思う、というか今日まで、この頃いい感じー。そう思ってた。
でも今日、とってもだめだと思った。

いや、だめなんかじゃないけど、きっと変わったということは良いこともたくさんあって、それでもやっぱり何もない私がここにいるきっかけのぎらぎらだけは、飛んでいかないようにしっかり掴んでないとだめだ。

昔と違っていろいろな人が見るし、きっと、ああごめんね、って返したくなるようなコメントもくるけど、私が発信できる場所くらい、こういうこと残さないとだめだ。
こういうこと言わなくなったら、むしろ誰か怒ってほしい。
ふわふわと飛んでいきそうになったら、この紐を掴んでほしい。

さいきん、どこかで紐を握ってくれているような存在に久しぶりに会えたからか、深夜だからか、きっと朝には後悔するけど、なんだか今日は言葉が自由で、気持ちがよいです。

あ、とっても明るい気持ちです。
爽やかな気持ち。
ジンジャエールを飲みたい。


おやすみなさい。




↑このページのトップへ