自分が自分の足で立って、自分の生活設計は私以外の誰もできない。自分の幸せは私以外の誰もつくれない。その反対に、自分の不幸せも私以外の誰もつくらないという、その自立を私たちはだんだん身につけていなければならない。
愛と励ましの言葉366日 5月19日の渡辺和子さんの言葉です。
自分のことはまさしく自分にしかわかりません。
自分の心の中は他人は見ることはできません。
自分自身の心の中を客観的に見ることはとても重要なことです。
どうあろうかは自分で変えられると思いますがそれが難しいですね~。
それこそ潜在意識なんでしょうね。
思考の切り替えのスイッチが必要ですね。
今日の論語はこちらでした~。
曾子疾あり(そうししつあり)。門弟子を召して曰わく(もんていしをめしていわく)、予が足を啓け(わがあしをひらけ)、予が手を啓け(わがてをひけ)。詩を云う(しをいう)、戦戦競競として深淵に臨むが如く(せんせんきょうきょうとしてしんえんにのぞむがごとく)、薄冰を履むが如しと(ハクヒョウをふくむがごとしと)。而今よりにして後(いまよりにしてのち)、吾免るるを知るかな(われまぬがるるをしるかな)、小子(しょうし)。(泰伯第八)
曾先生は病気が重くなって死の近いのを悟り、弟子たちを枕元に呼んで言われた。
「私の手や足を出して見なさい。詩経に(恐れおののいて深い淵に臨むように、また薄い氷をふむように)とあるが、これからはもうそんなに気を遣う必要がなくなるだろう。ありがたいことだ。そうではないかね、みんな」
曾子は弟子達と共に、孔子の教えのままに「考経」を作った。そのはじめ「身体髪膚之を父母に受く、敢て毀傷(きしょう)せざるは考の始めなり」とある。そうしてこれを、生涯実践し、その実証を死の床に於て自らの体を以て弟子達に示したのである。曾子が後世「宗聖」と仰がれる所以もまたここにあると思う。
親から預かった体を傷つけてはいけない。とありました。
自分の死が近い時にこのようなことを考えれるというのは幸せだなあと思います。
どんな小さい行でもいい
積み重ねられたものは
木の実のようにいつか
その人を円熟させる
坂村真民一日一話の今日5月19日の言葉でしたー。
今日も一日がんばります。
愛と励ましの言葉366日 5月19日の渡辺和子さんの言葉です。
自分のことはまさしく自分にしかわかりません。
自分の心の中は他人は見ることはできません。
自分自身の心の中を客観的に見ることはとても重要なことです。
どうあろうかは自分で変えられると思いますがそれが難しいですね~。
それこそ潜在意識なんでしょうね。
思考の切り替えのスイッチが必要ですね。
今日の論語はこちらでした~。
曾子疾あり(そうししつあり)。門弟子を召して曰わく(もんていしをめしていわく)、予が足を啓け(わがあしをひらけ)、予が手を啓け(わがてをひけ)。詩を云う(しをいう)、戦戦競競として深淵に臨むが如く(せんせんきょうきょうとしてしんえんにのぞむがごとく)、薄冰を履むが如しと(ハクヒョウをふくむがごとしと)。而今よりにして後(いまよりにしてのち)、吾免るるを知るかな(われまぬがるるをしるかな)、小子(しょうし)。(泰伯第八)
曾先生は病気が重くなって死の近いのを悟り、弟子たちを枕元に呼んで言われた。
「私の手や足を出して見なさい。詩経に(恐れおののいて深い淵に臨むように、また薄い氷をふむように)とあるが、これからはもうそんなに気を遣う必要がなくなるだろう。ありがたいことだ。そうではないかね、みんな」
曾子は弟子達と共に、孔子の教えのままに「考経」を作った。そのはじめ「身体髪膚之を父母に受く、敢て毀傷(きしょう)せざるは考の始めなり」とある。そうしてこれを、生涯実践し、その実証を死の床に於て自らの体を以て弟子達に示したのである。曾子が後世「宗聖」と仰がれる所以もまたここにあると思う。
親から預かった体を傷つけてはいけない。とありました。
自分の死が近い時にこのようなことを考えれるというのは幸せだなあと思います。
どんな小さい行でもいい
積み重ねられたものは
木の実のようにいつか
その人を円熟させる
坂村真民一日一話の今日5月19日の言葉でしたー。
今日も一日がんばります。