卑屈と功利打算

そもそも私達が、一つの徳目を真に徹底的に履み行わんがためには、結局根本において、人格の転換を必要とすると言えましょう。たとえば人が傲慢に振舞うということは、畢竟するに、その人が調子に乗っているということであり、したがってそれは、一見いかにもえらそうにしていながら、実は人間のお目出たい何よりの証拠であります。つまり自分のそうした態度が、心ある人から見られて、いかに滑稽であるかということに気付かない愚かさであります。
同時にまた卑屈ということは、一面からは、その人間のずるさの証拠とも言えましょう。何となれば、人間の卑屈の裏には、必ず功利打算の念が潜んでいると言ってよいからです。【207】

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謙遜と卑屈というところですが、実にこれは気にかけていなければなりませんね。

たぶん自分の考えていることが正しいと思うような時にも傲慢ということは出るような気がします。

そう考えると、なんとも自分もお目出たい部分が多いような気がします。

傲慢な自分をいかにセーブするか、これは毎日の反省しかないと思いますね。

伝記を読めと教授が言うので、教授の小伝を読んでみましたが苦労が実に多い。

引き寄せるものなのか、自らそういうものに突っ込んでいくのかとも思ってしまいますが幼少期にどう育つかによるのでしょうか。

突っ込んでいけば苦労が絶えないのは仕方ないことですがそれには公の心をもつことが必要だと思います。

公の心か。

なるほど。自分で納得したパターンです。

自己の特色を出すべきか否か

自己の特色というものは、しいて特色を出そうとして出るものではありません。否、自分の特色を出そうということが、あまりに意識的になりますと、かえって変な厭味なものになりましょう。また故意に早くから、意識的に特色をつくろうとしますと、とかく大きな発展は遂げにくものであります。【189】

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自分の特色とは何か、強みとでもいいましょうか。

なかなかに考えないことでもあります。

しかし、私はこうだからという人はたしかにいます。

それが特色とは言い難いかもしませんが、決めつけるのは良くないかもしれませんね。

人から総合的、客観的に判断されるものがいいのかもしれません。

教授がいうには、そもそも人間は一人として同じ人間はいないということですから自然と特色のようなものが出来上がるというのは納得です。

滲み出るようなものがいいんでしょうね。

雑話の中でその人の前では襟を正したくなるような人というのがありましたが、そんな人っていますよね。

書物を撫でる

諸君、書物というものは、ただ撫でるだけでもよいのです。ちょっとでも開いてみればさらによろしい。それだけでも功徳のあるものです。つまりそれだけその本に縁ができるからです。いわんや一ページでも読んだとしたら、それだけ楔を打ち込んだというわけです。【137】

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書物を撫でる。なんともよい表現だと感じます。

そういう意味では撫でまくっているかもしれません。

今年は教授で攻めるということは決まっていますので毎日少しづつ読んで1年くらいたったらしばらく放置してまた読むということの実践をしてみたいと思っています。

しかし、こういう言葉が体から出てくるようになるためには相当の読書の量が必要だと思いますし考えなければいけないと思います。

人に教える立場にある人というのはどういう頭の構造なんでしょうか。

伝えることを実行というのであればそれが仕事である人は覚えられるような気がしますし、凡人は誰かにつぶやく程度のことは常にしていないといけないですね。

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