月別アーカイブ / 2019年10月


発達障害の問題について
度々触れていて
今回も一部過去の内容が重複するかも知れないが
自分なりに気付いた事について綴ってみたい。


人というのは
物事を受け取る脳のインプットや
その後の情報処理、
そして処理した内容についての
アウトプットが
ある程度正常な範囲内で行われるからこそ
より良い客観視や
間違いの少ない状況判断に繋がるとしても

これが生まれつきの
脳の機能障害である発達障害の場合は
少し状況が変わるように思う。


ちなみに自分などは
昔から人間観察をする事も多くて
その中で相手の発言や行動を
細かく見る事で

相手に発達障害の傾向がるかどうかがある程度見える事もあり 

  
例えばある時
ボタン開閉式の地方の電車の車両に
乗っていたのだが

シャツのボタンを上まできっちり留めている高校生と思しき男子生徒がいて

彼は左右のドア部分に対して
ちょうど真ん中辺りを
自分の定位置のように立っており

ボタン開閉式の車両の為に
乗車時にボタンを押して乗車すると
乗り込んだ後で中から 
ボタンを押さないとドアが閉まらなくて 
その作業を誰かがしなければドアが
開けっ放しの状態にはなるもの

普通に考えれば
ある程度開放したままでも
そこまでの弊害はないように思うが

その男子学生に至っては
乗り込んだ後で
ドアを閉めない乗客がいる度に

わざわざ閉めるボタンだけを押しに行ってから
また定位置に戻る事を繰り返しており


例えば他の在来線によれば
ボタン開閉もなく
発車までは常に開けっ放しの事もざらであり

例えばであるが
夏場や冬場でエアコンの影響が
あるならば開閉式のドアのボタンを
必要に応じて開け閉めした方が 
良い事は言うまでもないが

当時は6月前半ながら暑くもなく
当然寒くもなく、
更にはエアコンの空調が効いている訳でもないのに

閉じられないドアに対して
その男子学生は毎回のように
反応する様子が見られた。
  

一見すると見落とされがちだが
自分の目からは

「〇〇でなければならない!」
(ドアを開けたら絶対に閉めなければならない!)

という固定概念や
拘りが強いアスペルガーならではの
行動(ルーティン)として見えていた。


彼は途中までは乗客の間をぬって
ボタンを押しに行っていたものの

乗客が沢山乗り込んで
やがて満員近くになっていくと
最終的には流石に定位置からは移動しなくなっていたが

やはり途中開いては閉じられない
ドアを気にする様子が見られたし

発達障害の特性を一定以上理解していれば
数分~数十分の行動観察だけでも
把握できる事もあるとはいえ

その相手の表情は無表情ながらも
HSP特有の共感性が働く自分からすれば
「何故お前達は開けた後で
ちゃんと閉めないんだ?」
言いたいかのようなイライラや

フラストレーションのような感覚は
伝わって来ていた。


かといって世の中自分の思い通りになる訳ではないし
優先順位は人によって異なるので

多くの場合は
「どうせ閉めても直ぐに人が乗ってくるんだから
毎回ボタンを押しても意味が無い」
と気付くだろう。


普通に考えれば
自分以外の相手や世の中が思い通りになる訳ではないし

だからこそ
先程のようなケースでは

脳の情報処理の問題が見られない
定型発達なら
正しく情報処理して
一定の部分で 
「いちいちドアを閉めても無駄である」
と割り切れたり

閉じられないドアだけでなく
様々な事に折り合いをつける中で
健全な思考パターンに繋がるとしても

アスペルガーを含めた
一部の発達障害傾向で
情報処理も特殊なタイプの場合は、
脳の情報処理の問題が影響する事で

必然的に
物事を分けて考える事もしにくく
ある程度の部分で

「こういうものだから仕方ない」と
妥協しにくい部分が仇となり

他人が何とも思わないとか
仕方ないと受け流せる事でも

アスペルガー傾向の者にとっては
それに執着したり拘りを持ち続ける中で
受け流す事も出来ず
時に納得もしきれない事で

定型発達者ならどうにもならないと
理解する中で
次第に何とも思わなくなる事さえも

理不尽な出来事による
ストレスのように
被害的にさえ感じる事で

好きな事やこだわりの中で楽しめる事以外については
常に多くのストレスを続け
のが想像つくし


場合によれば
そうした一部のアスペルガータイプほど

思い通りになりにくい他人の事を
不完全で愚かな存在かのように
イライラしながら見ている場合もあるだろう。
 

見方によれば
彼らの特性でもある
拘りの強さや執着というのは

抽象的ながらも
見えない鎖に繋がれ続けているかのような
心の不自由さすら伝わって来るし


前述した男子学生のように
24時間365日、
考えても仕方ない事について
時にイライラし、
他人や世の中への不満として感じ続けているとすれば

一定の部分で物事を納得しにくい
アスペルガータイプほど
ストレス過多の状態から
統合失調症にまで重症化するのではないかと見ている。


実際問題、自分が関わった
統合失調症患者で
物事の理解力も低いタイプの場合は

例えばテレビゲームで
自分の名前を登録しつつ
似た姿のアバターで対戦出来るとしても
自分のキャラクターが
高いところから落ちるとか
武器で殴られる...

みたいな状況に対して
耐え難い不快感を示していたのを
見たことがあり

そういった人というのも
恐らくはアスペルガー症候群が起因した脳の情報処理の問題が影響して

「あくまでゲームのキャラクターだから自分がされる事とは関係ない」

といった正しい認識がしきれない
からこその弊害があるように見えたし

そういった認知の歪みによって
何をするにしても
必要以上のストレスを抱え続けながら
日常生活を送っているとすれば

普通の栄養補給や休息では
脳の神経伝達物質の供給と
神経細胞の再生などが間に合わず

その状況で更にショックな事や
凄く嫌な出来事でもあったならば

脳のダメージが抜けないような
深刻な状況にも陥る可能性は出てくる。


そう考えた場合
もそものアスペルガー症候群の程度にもよるが
アスペルガー症候群ならではの
認知の歪みが影響して
統合失調症の呼び水になると推察している。


なので自身のHSPの特性から
彼らに共感すればするほど
彼らの抱える問題の深刻さも伝わって来る。


ちなみに上記リンクの内容は
アスペルガー当事者に対して
厳しい視点ながらも

「無駄な思考が多すぎる」
という指摘から

アスペルガーでなければ
本来抱えなくて済んだはずの
「無駄なストレス」にも繋がっていると
捉えれるし

何度か言っている
情報処理の対象そのものが少なく
現代のように複雑ではない
社会環境ならば

彼らの生きづらさが
今よりも軽減されていたかも知れない。



今回はそれまで自分が提言するような
内容の根本的な部分にある
「そもそもの考え方」
について
その解説を含めた内容を綴りたい。
 
まず言いたい事としては

生物学的な
ヒューマン(human)としての
「人間という生き物」という
定義とは別で

「あくまで自分の中の思想の範囲として捉える
哲学的な視点」

による
「人間の条件」というのが別で
あって

自分以外の相手が存在している
社会において

「自分以外の相手の立場を想像し
相手の気持ちを推し量る」
といった

人間が社会を維持するうえでも
最も重要とも言える要素からすると


「人の間に立つ事を前提にして思考し
考えれるからこその人間」
とするならば
(ここでは特に漢字の意味や構成も含めて注視して貰いたい)

相手の立場を想像したり
人の気持ちを汲めるようになるまでの段階というのは
人の間には立てない状況とも言えるし

「人は人の間に立って考える能力を身につけて 
ようやく人間という概念になる」
と捉えている自分からすると

人間と
人間未満で発展途上な
個なる存在として明確に分けて見ている部分がある。


なので自分なりのそういった論理からすると

例えば
他人が自分を見てどう思うかの
思慮や想像をする為の見当識が育っておらず

自分以外の様々な相手の状況を
読み取れないとか

相手に応じた対応が身についていなくて

自己のエゴによって
「あのおもちゃが欲しい!」
と駄々を捏ねて
地べたに転がるような子供ほど
人間までには至っていない存在であり

あくまで
人間未満のまま
個なる存在を超越出来ない
「未成熟な個人」として認識しているし
(誤解されぬように言うと子供は好きである)


自己の哲学的観念に照らし合わせれば

「他者の立場などを踏まえて考えれる人=人間=大人」(※)
という構図があるので

そう考えれば
見た目や年齢だけで見れば大人であっても

実際のところは
まだまだ個なる人という
未成熟な領域で

大人や人間という
一定以上の資質が求められる
高いレベルの存在として認めては 
いけない者も多いようには見ている。

 (※逆にいえば、
相手の立場などを踏まえて考えれない人=個人(唯の人)=未成熟な
小人とも見れるかも知れないし 

見方によれば人の間に立って考えれる思考力と人間性や心が伴っていれば
年齢的には子供ではあっても
小人ではなく大人として見れるかも知れない。)


なので
例えば18歳や20歳を過ぎたから
自分は
「〇〇を認められる権利を有している」と
それが普遍的であるかのような
現代社会の流れにおいては

現在のそういった流れや制度に対して
何の疑問も持たず
自分は権利や自由を認められて
当然と捉える側からすれば


そもそも論として
自分が別で考えるように
資質も含めた根本的な部分で

自由や権利を与える相手については
安易にその年齢だから
大人とか正しい判断ができる者として
認めるのではなく


成熟した人間に至る存在か、

それとも
人間未満の未成熟な個人でしかない
別次元の存在 
として
分けて考えた方が良いと考える
自分のようなスタンスの側からすれば

根本的な部分で大きな隔たりがあるように思えるし

政治とか社会に対しての提言などにおいても
人間か人間未満の存在かのような
違いを見出している自分のように

一部の人とは根源にある部分の捉え方そのものが違う事で

その後の考えそのものが
相容れにくくなる要素はあるだろう。


自分の哲学的な考えを
誰かに強要するつもりもないが

人間(大人)の条件として
能力や資質も含めて細分化して見た方が
資質なき未熟な小人が大人と認められて
許容範囲を超えた自由と権利を
行使する中で起きる問題を解決出来るかも知れず

例えば
「車を扱う資質の問題が影響する
危険運転や煽り運転」
「親になる資質の問題から起きる
児童虐待や育児放棄、を含めた
不適切な養育」
など
様々な問題が起きる前に

自分の考える人間未満の相手には権利や自由を制限する事で

今後起こり得る多くの問題を
未然に防ぐ事もしやすくなるだろう。

(更に言えば
メンタルケアや脳科学的な視点で見ても
生まれつきの部分で共感性が働かず
相手の立場を想像出来ないタイプの
人が数多く存在するのを知れば知るほど
時に今の社会の中で
法律やルールや
様々なシステムを維持する為の前提になっている
性善説が通用しないことも分かるようになったというのは大きい。)



以前上記のような内容を書いたが
その内容とも重複するものの

改めて
「人の心=脳」
に纏わる事の問題提起をしたいと思う。


人間の脳においては 
情報処理をする為の
シングルタスクとマルチタスクによる
違いがあり

生まれつきの脳の差異も含めて
使えるタスクの数も
人それぞれで違うと思うが

今の社会は
都市に適応するライフスタイルほど
必然的にやる事が増えていき

普段から脳のマルチタスクが
使われる事になるが

(移動でさえも車を使う場合は
その運転の為に必要なタスクを消費し、
公共交通機関を使う際にも費用負担や目的地までの順路や乗り換え、到着時間などを細かく計算する作業の為にタスクが使われる事になる)


例えば仕事や勉強において
許容量が10あるタスクのうち8を消費すると仮定すれば
残りの2でしか対人関係に使えなくなると例えられるだろうし

仮に1人につき1タスクと例えた場合は
2人以上の気持ちについて考えようとしても
必然的にキャパオーバーにつながって
その他の相手については配慮しきれなくなるような状況にも陥るのではないか?


逆に社会がそこまで複雑ではなく

自然という唯一無二な流れに適応するライフスタイルの代表として

ネイティブの社会における
タスクの使い方を調べる事で

生活様式によれば
タスクの消費が
必要以上には行われなくなり

結果的に他者への配慮も
一定以上しやすくなる事が立証されれば

現代社会そのものが
脳と人の行動に弊害を齎している問題さえも明確になるだろうし

人の心が影響した
様々な問題の解決方法を模索するうえでも
研究の余地はあるだろう。


ちなみに最近の実体験としても
元々マルチタスクには向かない
ADHD傾向の相手との関わりにおいて

相手の普段の生活様式の変化から考察した事があり

例えば
その相手にとってやる事が
増えれば増えるほど

以前まで出来た他者への配慮などが
出来にくくなって
その人の考え方も極端になっていった部分が見られたし

そういった相手の変化や
行動と発言の推移から分析すると

やはり人は
タスクを使えば使うほど
多角的に考えたり
客観視する為のタスクも消費されて

視野や考えも限定的になっていくような弊害があるのではないかと思えた。


更に言えば
それぞれが抱えるストレス量によっては
脳の神経伝達物質や神経細胞への負荷がかかりすぎて

本来処理出来たはずの
タスクさえも処理しきれなくなる要素はあるだろうし


元々は
今の社会の問題として
人間のエゴを増幅させる
社会的な要素について昔から考える事も多かったが
 
実際問題
欲望の捌け口が多い事でも
「欲望→自分だけの思い→
エゴイズム」
のような構図からも
自分主体による自己中心性にも
繋がりやすくなる事で

人がいつしか
他者の気持ちを慮るよりも
自己の欲求を優先させやすくなっていく
メカニズムもあるように思うし

上記のメカニズムが影響する事で
人の自己中心性が高まる要素とは別に

脳の機能的な問題に注視すると

その前のADHDタイプの例のように
タスクを沢山使えない人ほど

今のタスク消費の多い社会だと
「自分のことで精一杯」にもなりやすく

時に他者への優しさを持ちにくい状態にさせるようにも思うし

「今の社会が人の優しさを奪う」
みたいな表現をすると
些か抽象的ながらも

そもそもの部分で 
脳(心)のタスク消費が多くなれば
他者への配慮をする為のタスクまでが残らなくなり

結果的に
相手への気配りや思いやりを
持ちにくくさせているとすれば

皮肉な事に
人間の利便性や
生活の質の向上の為に作られて
発展してきた社会が

人が人を思いやったり
誰かを愛する為に必要なタスクや
許容量までに影響した挙句

人間の健全な脳と心に悪影響を
与える事で
「社会が人間を駄目にする」
かのようにもなって

人間社会における様々な問題に
繋がっているのではないかと見ている。

↑このページのトップへ