月別アーカイブ / 2019年07月



とある場所でこのような意見が書いてあった

「マルクスの資本論の
「個人的所有の再建」とは土地と生産手段の共同占有を基礎とするから。
やっぱり、共産党が政権を獲ったら私有財産は国に盗り上げられるんですね...」

これに対して色々思うことがあったのだが

そもそもで言えば

民主主義にしても社会主義や共産主義などの多くのイデオロギーは

元々の概念を後の世代の人間や
権力者達によって歪められて伝わったり

ご都合主義によって勝手な解釈をされている要素の方が大きいのではないだろうか?
(キリスト教などが植民地支配の大義名分に利用されていた事などがその典型)

そして自分が提唱する
「地球主義」からすれば

「土地の所有権」みたいな権利さえも
人間が後付けで

「地球や自然を自分たちの所有物」
みたいに捉える事で

そこに生きる人間以外の生き物達の
住処さえ脅かしている問題があるし 

「人間中心主義」の問題に気付けない
人の方が多いのではないだろうか?


そういったのが行き着く先は
人間のエゴイズムを認める中で

「諫早湾干拓事業」や
「辺野古基地」の問題のように

そこに生きる生き物の生きる権利さえ
奪ったり

人間が欲を満たすための正当化に置き換えられて

ゴミ問題や食品ロスなどの
無駄や身勝手をも容認する
「自由の履き違え」にさえもなるのだろう

そもそもの民主的な形ですら
大国のご都合主義に変えられているだけで

本来の民主とは
例えば部族社会だと族長が一方的に
決めるとかではなく、村の大人たちが話し合いながら

問題解決の為の取り決めをするような事こそ
本当の民主的なやり方と言えるが

政治家という「代行者」に任せてしまい、
国民が選挙で一喜一憂するやり方は
本当の民主的手法とは思えないどころか

実際のところ
代表者を選挙による多数決で選んで、
更にその代表者が
国民の意思を背負っている」と勘違いしたまま
一部の人間の利権を優先させるような
「独善」を後押しするシステム作りをしてるだけに過ぎず

そんなやり方に「民意がある」と言ってしまえる国民はもう少し
「そもそも論」で考えつつ
物事の本質を見れるようになった方が良いだろう。


そして人間の間違いを増やさない意味でも

権利や自由を与える時は
「それ相応」の能力や人間性によって
権利を行使させる対象を選びつつ

人類の規模の拡大を考えるよりは
本来の地球の中の生物という立ち位置に戻って

人類の規模を縮小していき
人間が侵食した土地を地球に還す流れが自分の考える理想の形だと思っていて

自分が考える
「地球主義」は

今の世界を占める
「人間至上主義」
をベースにしたイデオロギーとは
真逆なので

多くの人々が自己を律するまでには至らない間は
なかなか受け入れられないかも知れないが

地球の未来と
後の世代までの事を考えれば

人間が自然を作り替えるのではなく
自然に適応する流れの中でこそ
問題解決にも繋がると考えている。


分かりやすく言えば
嘗てのネイティブ・アメリカンのように
地球や自然を敬いつつ


経済発展や生産性を追い求めない
アーミッシュのような生活様式に
原点回帰すれば
(金銭で何かを買える仕組みも
人の欲望を煽って間違いを犯しやすくなる弊害の方が多いと感じる)

人間の心(脳)の問題が引き起こす事件事故や様々なトラブルも解決して

平和な人間社会が築けると思っている。


ちなみに今の経済活動が肥大した
社会システムだと
人が沢山いないと回らない流れがあって
例えば物品の流通の際には
品物を梱包する為の入れ物を製造し、

更にそれを加工するような
物流させる「手間」と「人手」が必要になるが、

仮に人口減少しても
自給率をあげて地産地消にするだけで少ない人口で多くの事を賄いやすくなる。

かといって
今のグローバル資本まで取り入れた
資本主義社会においては

経済活動が活発になって物流なども
拡大する反面

エネルギーロスなど様々な問題が起きて
結果的に原発に頼ったり
石油などの天然資源を浪費するだけの流れにもなりやすい。

それにより利権争いにさえ発展する
弊害の方が大きいだろう。


テクノロジーというのは
一見便利なものであるが
例えば自動車やインターネットなどの
テクノロジーだと

性善説的に考えてはマズい事が多く

例えば人が意図的に起こす弊害を防ぐ法整備なんかも必要になっていき

扱うテクノロジーが増えれば増えるほど
人がそれをコントロールがしにくくなる構図があると言えばわかりやすいだろう。


コントロールしきれないテクノロジーが時に人の心や脳への暴走に繋がる中で

エゴイズムだけが増大するからこそ
平和は得にくくなるし

全ての人々に
大きなチカラを制御できるだけの叡智を授ける事は不可能だし

脳の限界からも
人類が賢くなりきれないならばこそ

人類そのものの規模の縮小による
シンプルな営み(社会システム)に
戻した方が真の平和に近づくと思っている。


そもそもの部分で言えば
生物学や脳科学的にみても

人間という生き物は
あれもこれも出来るような

「マルチタスク」には向いておらず


マルチタスクを使おうとすればするほど
脳(心)への負担になりやすく
「脳過労」状態にも陥るし




だからこそメンタルに不調を来す人が
増えているように見える。


人間は永久機関の機械にはなれないし
生物としての人間で見た場合は

今の社会システムはどだい無理があって
心(脳)を蝕んだり壊す弊害が大きいからこそ
人の行動に直結する脳の偏りが
様々な問題を引き起こす事にも繋がっているのだろう。

(行動の問題=脳の指令の問題だからこそ、弊害を生まない社会システムに変える必要があるのでは?) 



児童虐待が子供の脳の萎縮に繋がる事は明らかになっていて
(そう考えると親の責任というのは重い)

子供の頃に自身も虐待を受けた当事者で

例えば
子供が1番の愛情や安心感を求める
対象であるはずの母親から暴言を吐かれていて、

当時事件になったような場所に預けると脅されたり、
暗い部屋に閉じ込められたり
恫喝されるなどの心的虐待と

その母親が気に入らない事があれば
叩かれたり蹴られたり
髪を掴んで引きずられるような
身体的虐待を受けていたし

今では克服したものの
そういった虐待+親の自死までを
目の当たりにしたPTSD
(心的外傷後ストレス障害)があったし

小学生の頃は衝動性なども強く
キレやすかったり
思春期からは鬱や不眠、不安発作などに悩まされた事もある。


昔の自分の問題を振り返って分析すると
明らかに虐待の後遺症による
脳(前頭葉)の萎縮による情緒的な弊害が見られたし

仮に生まれつきの発達障害などが影響した問題なら

今のような落ち着きはなかっただろう。

かといって当時の行動だけで見れば
発達障害と誤解されかねない
エピソードなどもいくつかある。


自分の特性である
HSP(Highly Sensitive Person)は
感覚的な部分が強いらしいので、

子供の頃に虐待を受けていた不安定さも加味して、
周りがやたら気になって集中しきれずに勉強に身が入らないとか

集中しようと意識すればするほど
身体が痒くなる...

ような事はあったし

視界から入る情報に意識がそがれるなども顕著ではあったが

発達障害のケースならば
何らかの問題が継続していても不思議ではないが
今はそれらの問題は起きていない。

かといって、そういった身体化や
相手の言葉に反応して周りと喧嘩をするような
子供の頃の過剰反応などは
一見すると
ADHD(注意欠陥・多動性障害)のように見られていたかも知れないし

ASD(自閉症スペクトラム)と誤解されるようなエピソードなども含めて

当時の自分の思惑や本質を知らないと
「あの子供は発達障害があったのでは?」
と疑われていた場合もあるかも知れない。

例えば子供の頃に親と親の知人が家で険悪な空気になった時には

場違いな事を言い出すような所があったものの
実際は「空気の悪さ」をいち早く察知して
意図的に「子供のおふざけ」を入れる事で
場の空気を和ませたり、
怒ってる親達の緩衝材になるべく
計算したうえで道化を演じていた事があった。

他には
家庭環境の影響で不安と苛立ちが多い子供ではあったし

親の自死の前後で1番荒れていた小5の時には
言い争いになった同級生と
授業中も睨み合うような事があって、
それを見かねた担任に

「そんなに喧嘩したいならここでやれ!」 

と教壇の前に呼ばれた際には
教師による反省を促す意図は読み取りながらも

相手を殴らないと気が済まないような憤りもあったし、
「喧嘩を止めさせたい」
教師の本音を理解しつつも

建前の方の
「喧嘩したかったらここでやれ!」という言葉を
作為的に大義名分にすれば

そこでアクションを起こしたとしても
教師としては言った手前
怒るに怒れなくなる」状況を先読みしつつ
本来喧嘩をすれば咎められる状況も
回避出来る事まで計算して

皆が見てるその場で相手に殴りかかった事がある


その状況しか見ていない側からすれば

「文言どうり受け取るアスペルガー」

のような子供だと誤解されたとしても
不思議ではないが

人の気持ちを読み取りながら
相手の心理などを計算して
立ち回ろうとする思考は
子供の頃から身についていたようには思う。


10代後半での友人関係においても
例えばその相手の「嫌な部分」が見えた際は
「何でこいつはこんな考えをするのか?」という疑念は抱きつつも

相手を嫌いになる事はなく
その相手の本質にある問題を見抜こうとして
相手の家庭環境や家族構成、
それまでの発言などを整理して

「生育歴における影響」を冷静に分析して見ていた。

ちなみに
ただの分析だと機械的になりがちだが

相手のそれまでの状況を踏まえながら
「自分がその時の相手の立場ならどんな気持ちになるか?」

を共感と想像力によって
シュミレーションしつつ

「今に繋がる相手の精神性」を紐解こうとしていたし

特別な勉強をせずとも
独自の心理分析術を身に付けていた

なので実際のところは
そこまで専門書などを読み漁った事もなく

心理や精神医学などに関しては
生来のHSPがある事で
人よりも強い共感性と想像力を活かした洞察力の中で
自分なりにたどり着いた理論があって

それを答え合わせとして
専門的な見解と照らし合わせると
専門家の言ってる内容と
自分自身で考えついた事が一致してる事も多く

自分の場合は
「特別な勉強をする」とか
「人から教わる」
というよりは
「気付きによる学び」
頭の中の殆どを占めている。

(当然ながら全て独学ではなく最低限の専門的知識はある)


子供の頃に脳の萎縮が起きない環境で適切な教育を受けれていれば

恐らくは安定した精神のまま
もっと早くに今くらいの考えにたどり着いたり
今頃はそれなりの立場で
社会の変革に対してのアプローチを
積極的に行えていた可能性もあるが
実際はそうは上手くいかず
自分自身の中にあった
「人からの愛情への渇望」の大きさと
求めてもそれを得られない状態に気付きつつ
の経験からも理不尽な事に巻き込まれる事も多かった酷い現実など、
自分のおかれた境遇と
内面的な弱さまでもが見えすぎて葛藤していた時期も長かったように思う。

そういった不遇の時期を乗り越えて今の自分があるし

今現在精神的な問題を抱える人に対しては
自分のような者でも乗り越えられた
事実から
何かを感じ取って貰えれば嬉しく思う。


ちなみに自分の場合は
様々な経験を通して
つまらぬ承認欲求や名誉欲も持たなくなり

富を得たいとか
世に出て有名になりたいとも全く思わないし

きている間にめられたり
人から評価される事がなくとも

自分自身の役目としては
それまでの気付きから生まれた社会への提言を残しつつ

いつしか
その書き残した自分の思いや考えが
他の誰かに伝播して

より良い社会に変える為の布石になるだけでも本望だし

改めて世の中のためにも
自分なりに出来る事を精一杯するしかないのだと思えている。


前回は自身の宗教観などについても
少し触れたが

宗教やイデオロギー(思想観念)というのは盲信的(妄信的)でなければ
人の心の救済にもなるとは思うし
 
更に発達障害者支援の立場からすれば

亡くなった母親やその周りの人達も含めて
「心が弱く自分が何者かも分からない」ような
悩みを持つ人達が多くいる事からも

宗教には
「心の拠り所」や「生き方の指針」
を見つけやすい要素があるとは思う。

自分の場合は早い段階で
生きる意味や死ぬ意味などを
自分自身で答えを模索する中で
自分なりの答えを見つけ出したので

それについて人から教わる事もなくなったが

例えば「ハキリアリ(葉切り蟻)」という
蟻がいるのだが

その蟻には他の蟻と同様それぞれ役割分担があって

更には葉っぱを切って集めたものを
地下に運び、
それを利用してキノコを育てて
それを食料にするのだが
「立派な自給自足」を行っていて
(切った葉っぱの間から光が差し込みやすくなる事で密林の中で光合成を手伝っている)

役割を終えて死んだ蟻は
仲間に運ばれて土に還り、木々を育てる栄養になる...
(その木々がまた多くの生き物を生かすだけでなく
土と一緒に雨を濾過し自然の循環をも助ける)

という見事な循環(輪廻)があるのを知った中で
「蟻」という小さな生き物ではあっても
彼らから生きる意味や死ぬ意味の全てを教わったし

例えば自死(自殺)について
何故それをしてはいけないか?

という部分も自分なりの答えが見えていて

人は1人では産まれて来る事は出来ないし
他の成長が早い生き物のように
生まれてすぐに生きる術やそのチカラを持てる訳ではないからこそ

誰かしらとの繋がりや関わりの中で
生きていられるのだし

当然そういった中で
人や世の中から酷い扱いを受けて
「死にたくなる」事はあっても

相手を心配したり
他者に優しさを配る事が出来るのも
人間であり

この世界のどこかではそういった
「人間的な心」
をちゃんと持っている人がいて

そういった人間からすると
他者の痛みも我が事のように感じる事が出来るし
(少なくとも自分はそうである)

「生まれた時から他の誰一人とも関わった事が無い」 なら別だが

そんな人はどこを探してもいなくて

「誰かと繋がっている」
からこそ

「その人が不幸になったり
命を粗末にして悲しむ人が1人でもいるなら
その相手の想いを無駄にしない為にも生きる意味はある」と言えるし

その人の身の回りで優しさを配れる
人間がいなくて

直接会ったことはない自分だとしても
離れた所からでも心を配りたいし

「他人だからどうなろうと関係ない」

とは到底思えない自分のような人間がいるならばこそ

「こんな世界でも生きる意味はある」
事を知って欲しい。

かといって自分は
人よりも感覚や感性が強いので

その特性があるからこそ
心の目が開くかのように
気付きや学びが多かったが

自分の母親なども先程挙げた
「自分が何者かも分からない」
ような部分が強く

結果的に欲に流されたり
盲目的な生き方をしていた人だったので
多くの人は余程でないと
「自分自身で学び大事な事に気付く」
事は難しいのだろう...

かくゆう自分も
相当な紆余曲折もあったし
(自分自身が見えすぎる事による苦しみ)

今でも少なからず煩悩はあるからこそ
人の支えや愛を求める部分もあるし

近年になってようやく

「今の自分はまんざらでもない」

と思えるようになったにすぎないから 
偉そうな事を言える立場でもない。

だからこそ
人生は死ぬまで学びの場であるとも言えるし

更に先の人生に
人としての学びや、心の成長があるなら
それもまた楽しみに思えるようになった。

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