ここで何度か発達障害についての
自分なりの考えを述べた事があるが

改めてその支援の在り方と
発達障害が引き起こす影響についての内容を書きたいと思う。


世の中には一般常識や一般教養というものがあるが

例えば
「3歳児に一般教養があるか?」
と言われれば

「子供に多くを理解するのは難しい...」

となるのが自然だと思うが

世の中には
「相応」という感覚があるので

段階的に
3歳児には無理でも

15歳には理解出来る...
とか 
20歳過ぎているのに
理解していないのは流石に
有り得ない

という事はあるし

仮に
物事を理解出来ていない
3歳児を
「こんな事もわからない馬鹿な存在」
と見下す人は少ないはずで

「分からなくても仕方ない」
という感覚になるのが一般的な感覚だろう

それは
多くの人には相手の立場に立って
想像し
シュミレーションも出来る能力がある事で

3歳児の頃の自分とも照らし合わせつつ
「自分も出来なかったし
不相応だから難しくて当然」

との結論が導き出せるとしても

これが
相手の気持ちや立場など
細かい想像をする脳の機能に問題がある人の場合は

自分自身が出来なかった時期があったとしても

「今現在出来ている自分」

という枠組みでしか
思慮する事がしにくく


更に
想像力が豊かで共感性もあれば

相手が知らなかった事についても

「知らないだけの理由があったはず」

とまで考えて
知らない事を責めるとか
馬鹿には出来ないはずなのだが

脳の機能障害である
発達障害の中で
ASD(自閉症スペクトラム)の特性があると

上記のようには思えずに

「自分が見えている視野と
自分の知識が全てで
それが普遍的(当たり前)である...」

かのような
「認知の歪み」が生まれる事で

例えるなら

3歳児に
自分自身の目線を当てはめて 

「こんな事もわからないのか?」

と言えてしまうような
共感性と社会性への問題として
出てしまう事もあり

それが
高学歴者や何かの専門知識を有する場合は

「その知識そのものが普通の感覚」
になると

「その知識に満たない相手が
愚かな存在」

くらいに思えたり
同じ知識と経験や価値を共有出来る相手以外は

「認められない下等な存在」
くらいの認識から

自分が認めた同等の「仲間」と認識した相手以外に対しては

最初から疑ってかかるとか
認めようとはせずに 
排他的になった挙句

挑戦的になったり
不遜な態度で馬鹿にするとか
無礼になって見下したり
攻撃する...

という
「人としての対応の問題」
が顕著に出るような
タイプをしばしば見かける事がある。

そして
ASDなどの特性がある人達が
全てそういった感じになる訳ではなくて

「自分が周りとは違う...」
みたいな認識があれば

元々空気を読むのが苦手だとしても

「空気を読まないまま
思った事を言えばその人を嫌な気持ちにさせる」

といった見当識から

「そう思うけど波風を立たせない為にも言わない」(自重)

という 
社会性にも繋がるのだが

発達障害との診断を受けないまま

「自分が普通で周りが劣ってる」
とか
「自分の見てる視野や見てる世界が普通の感覚」

くらいになってしまう事で

ASDなんかの場合は
自発的に共感するチカラが育ちにくいからこそ必要な

「努力して社会性や共感性を身に付ける」
という学びが得られない中で

二次障害としては
他人と自分との隔たりによる
様々な不安障害や

自己万能感が育つ事による
自己愛性人格障害などの
様々な弊害が生まれる懸念がある事からも

ASDだけでなく
衝動性や情緒的な問題を引き起こしやすい
ADHD(注意欠陥・多動性障害)や
理解力への影響が出る
LD(学習障害)も含めた

「発達障害の早期発見によって
適切な教育環境を与えて
支援する為の枠組み作り」

彼らを 
「加害者や被害者にさせない※」
為にも
本当に重要な課題だと思える。

(※固定概念が強く独善的になり過ぎるケースだと
毒親と言われるタイプや
モンスター○○になったりして様々な弊害に繋がるとか
時に反社会的な影響を受けた場合は発達障害特有の拘りや執着心の強さから
加害者として一度道を踏み外すと
思考や価値観の修正が困難になって更生しにくくなる場合もあるだろうし

被害者になるケースでは
子供や学生時代なら
浮いた存在としてイジメなどの対象にもなりやすいとか
疎外感の中で
生きづらさを抱えて
人生に悲観し自殺するケースなどもあるように思うし

定型発達者とは別の
彼らの理解力や適性に応じた
段階的な教育環境があれば
彼等を保護しつつ支援もしやすくなるのではないだろうか?)