月別アーカイブ / 2017年09月

前回は

最後の方に少しだけ地球主義的な生き方について触れたが、

地球主義と対称的な考え方に繋がりやすいのが

多くのアメリカ人やキリスト教徒が信じている創造論であり

それは人間が神に選ばれた存在として都合よく解釈されてしまうような

「人間至上主義」

にさえ陥り易いという事を指摘をしたいと思う。


実際問題として人類の営みの中で人が宇宙にまで進出しているが

人類が他の惑星の資源も食いつくそうとする様は

ガン細胞が他の臓器に転移して
その臓器をも蝕む事に似ているし

神という概念があることで

人類が地球の中の

「一生命体」

であるという事を忘れさせ
地球に生かされているという大前提ではなく

「神に選ばれた人類」

という考えから
地球や他の惑星さえ

「神が人間の為に作ったもの」と捉える事で


結果的に人から多くの謙虚さを奪い
それら万物を意のままにして良いというような考えすら持たせてしまうだろうし

(動物の生き死にさえも、人間が食べる為に神が他の生き物を作ったという解釈に繋がっている)


「神」の存在で

全ての人類が謙虚さを持ち続け

結果的に道を踏み外さないのであれば

神の存在を肯定して、

それを教え広める事も間違いとは

言い切れない


存在しない(であろう)

絶対的な存在の神という概念に対しては
例えばアメリカ国民の半数以上が

神が人(世界)を作ったという創造論を信じる事で

人が作る環境によって

人間の精神にさえ影響を及ぼすという重要性を見失わせ


結果的に現実(事実)を見えなくさせる事にも繋がれば


人類の進歩と発展を遅らせ
この世界を破滅に導く要素にもなるのではないか?

と危機感を感じる事もある。


ちなみに万物に八百万の神が宿るという

原始宗教の考え方の場合は


人間がまだ森羅万象との調和を

保てる要素もあったり

一部の仏教的な観念の場合は

他力本願や外からの救済ではなく


自分自身の心の在り方で

己の中に仏を宿し

自己の心の成長を促す考え方だったりもするが


一神教の考えは

「神に選ばれた自分達が正義である」

というような盲信を生みやすく


神の存在を悪用した者によって争いや破滅を引き起こされる恐れもあるし


歴史的に見ても

コルテスやピサロの侵略によって

インカ帝国やアステカ文明が滅ぼされたり
十字軍の進攻や魔女狩りが正当化された歴史が全てを物語っているだろう。


未だに創造論を信じて止まず

歴史から学べない

アメリカ合衆国とその国民に対して思うのは

アメリカ人がトランプを選んだ事で大きな争いに発展しつつあるが


嘗てヒトラーがドイツ国民によって

選ばれたように


今のトランプ政権も同じで

国民が選んだから仕方ないではなく
ヒトラーも盲目的な国民が選んだ

結果大きな過ちに繋がっているの


アメリカも仕方ない事として
受け止めるべきではなく
過ちからドイツ国民が反省し学んだように

間違った判断なら

それを正す勇気が必要なのだろうし

現代に生きるアメリカ人こそが

先人達が迫害したインディアン達に

頭を下げてでも学ぶべき事は多いのではないかと思う。

今なお続く悲劇と惨劇――〈アメリカ先住民政策〉の歴史 | きっかけは、絶景から。 wondertrip[ワンダートリップ]
1492年、コロンブスによるアメリカ大陸発見。ヨーロッパ人にとっては「発見」でしたが、そこに代々住み生活していた人びとにとっては「侵略」のはじまりでした。〈インディアン〉(この記事では北米ネイティヴ・アメリカンを示すために〈インディアン〉の呼称を用います)たちは白人たちによる虐殺と疫病、戦争や強制移住におびやかされ、その余韻は今なお残っています。この大地のもとの主であるアメリカ先住民たちに、白人は一体どのような政策でもって臨んできたのでしょうか?今回は〈アメリカ先住民の歴史〉をあつかいます。 コロンブス以前のアメリカ大陸と「上陸」 image by iStockphoto 「アメリカ大陸発見」以前、アメリカ先住民(インディアン)の人びとはどのような生活と文化を営んできたのでしょうか?そこでは平和で、人間だけでなく自然も尊び、「すべてはみんなのもの」というある種の楽園境が広がっていました。トウモロコシ、カボチャなど今私たちに馴染み深い食べ物も、はじめはインディアンたちが耕作していたもの。白人たちは「黄金」を求めてこの大陸へ上陸しましたが、そこで見つけたものとは。そしてコロンブスはどのような言葉を残しているのでしょう。 大地は、誰のものでもない インディアンたちは、トウモロコシやカボチャを栽培して食していました。ディズニーのアニメ『ポカホンタス』で、黄金を求めてやってきた白人の航海士にインディアンの娘・ポカホンタスがトウモロコシを「金よ」と差し出すシーンは印象的ですね。またタバコは聖なるもので、どんな儀式のときもタバコの煙で清めを行っていました。 今私たちに馴染みあるタバコ、トウガラシ、いんげん豆などはインディアンたちがもとは栽培していたものです。さらに狩猟や採集で生活を営んでいました。 インディアンたちは「大地は誰のものでもない」と思っていました。所有するという概念がなかった、もしくは薄かったといいます。すべては「みんなのもの」であり、分かち合うべきものであると。そのため、のちに白人たちと対峙したときに「土地の所有」という意味がわからずに混乱したのです。 白人たちの上陸と、認識の相違
wondertrip.jp

前回は生まれつきの障害を
「持たざる者」として表現し
それに焦点を当てた内容を綴ったが

健常者であっても思考レベルが低く
考えが足りない人間も多く存在するし

ここからは権利についての指摘になるが
そういった考えの足りない人間に
権利を与える事によって起きる問題として

考えが足りない人間にまで結婚する
権利を与える事で
不倫などをしてパートナーや家族を
傷付けたり

考えが足りない人間が人の親になれば、躾なども出来ない自体に陥るだろう

考えが足りない人間にペットを飼う権利を与える事で飼育をしきれず
いい加減な飼い方をして
動物虐待に繋がったり

飼いきれずペットを捨てることで
罪もない動物が殺処分されるような
理不尽な事に繋がるのだろうし

考えが足りない人間に権利を与えた
結果

引き起こされた悲劇を
実例として例を挙げるなら

運転免許を取得した事から
車に乗る権利を与えられたとして

表面的に運転についての知識や技術があっても人間性が伴っておらず
「まぁ、大丈夫だろう」
と飲酒運転をした結果
北海道の砂川で起きた事故
(もはや殺人事件といえるだろう)
のように
信号無視をして他の車に衝突した挙句逃げ去って高校生を何kmも引きずり
殺しただけでなく

衝突された車に乗っていた家族が
娘一人を残して後は全員亡くなるという加害事実を作っておきながら

信号無視をしていない…
とか
スピードも出していない…
みたいな言い逃れと自己弁護に終始するような
考えが足りないという次元では
済まされない者にすら

人間性を考慮する事もせずに
一定の条件がある者には運転を許可するという甘すぎる判断基準で

権利と資格を与えた事がそもそもの
間違いだし

これは自動車運転免許の資格に限らず言える事であり
個人の判断に委ねて
思考レベルの低い人間にまで
権利や自由を与えてしまうような甘すぎる社会の在り方が
被害者と加害者を生み出す事にも
繋がっているのだろう。

全ての人が
多くの知識を有して
テクノロジーを使いこなせたり、
リスクに対して深く考え
理知的に生きれるような
賢い存在になれるならまだしも

多くの人が賢者にはなり得ず
人として考えが及ばない現実が多くあるのならばこそ

性善説的に人を過信して
誰にでも権利や自由を与えたり
人の欲求を正当化し容認する社会を
追求するよりは

自分自身が考える持論としても
人間がこの地球の中で
地球や自然に生かされている事を感謝し
分達を律して生きる術を真剣に考える事が出来るようになれば

人が人を殺したり
国と国がいがみ合うような
地球すら壊しかねない自滅に向かう
流れすらも変える事は不可能ではないと思うし

嘗てのネイティブ・アメリカンなどは多くを求めないライフスタイルながらも

人が人として生きる上で大事な事に
気付き、それを実践していたし

言い換えるならば
彼らが普通に実践していたような
「地球主義」のような社会が実践出来れば
今ある多くの問題も解決していけたり
そもそも問題が起きなかったのではないかと思えてならない。

参考文献
インディアンの言葉 (コレクション「知慧の手帖」) 紀伊國屋書店 https://www.amazon.co.jp/dp/4314007370/ref=cm_sw_r_li_awdo_QLUYzbNJHD071

以前は権利と自由についての問題提起をさせて貰ったのだが
改めてそれについての指摘を
したいと思う。

今日の権利や自由を主張する事を容認する流れは
民主主義における
人の性善説」に基いて
犯罪性や違法性が無ければそれをしても構わない…
というある種、
国家が無責任かつ投げっぱなしな
権利を人に与え、
その中で個人が過ちを犯せば
「自己責任」と
割り切られてしまう側面もあるし

社会経験の少ない未成年者であったり、判断力の低い一部の障害者などは

現実問題として
(脳科学的には前頭葉などが発達しきれていない故に)
物事を色々考えたとしても
論理的思考や客観性が欠如して衝動的かつ場当たり的になり易いという事は大いにあるだろう。

かく言う自分が民間のカウンセラーの
立場から発達障害を抱える当事者との関わりの中から感じた事としては

その当事者が幼年期から本人の
直面する問題に対して周りの親や
大人からの適切なサポートを受けた
ケースだと大きな問題には繋がらない事があっても

案外そういう問題を見過ごされて来た事で
昨今は大人の発達障害として後々に
発覚するケースも多く

学歴社会という側面からも
発達障害がある事で一部ではIQなども高い傾向にあったり、

勉強などの成績が良い事からも
学生生活の間は障害として疑われる事はなく、
仮に兆候として見え隠れしたとしても
「ちょっと変わった人」だとか
「個性的」
程度で見過ごされているケースも多いだろう…

仮に粗暴で感情のコントロールが苦手でトラブルを起こしやすいケースですら
親の躾や育ちが悪いのだろう…
困るのは本人だから…

みたいに危機感なく捉えられてしまう事も少なくないだろうし

結果的にそういう問題行動が
犯罪に繋がったり、
先天的な要素も加味して、思考や行為のパターン化が成される事で

仮に犯罪を犯して捕まったりしても、
客観性の低さから内省や学習も出来ずに再犯を犯すケースも多いように思われ
自身が関わった発達障害の未成年者のケースでも

発達障害からの認知の問題が起きていて、
それがパーソナリティー障害に繋がっている事が見受けられ、

その子の場合は18歳になるまで
親がその問題を見過ごして来た事で
発覚も遅れていて、
本人に判断力の問題があったり

影響を受けやすい要素があるにも
関わらず
小学生くらいからパソコンで
インターネットが使える環境を作っていて
その中でマイナス要素が強い掲示板などを覗くことが増えた中で

自傷行為をしたり、それに関連して、
血液への執着などから自傷した後で
自分の血を集めたり、それを飲むだとか、
深く切りつけた後で出てきた自分の
脂肪を食べる…
みたいな問題行動までするようになっていたし、
TwitterのようなSNSで横行している
闇アカウント(病み垢)などに依存する中で
他のユーザーにそういう行為ですら
イイネを付けられて
「肯定」
されてしまう事で
治療も困難な程に問題が根深くなっているのも把握していただけに

本来その子に対して悪影響を与えるような存在を
「社会が表現の自由の一環」として
認めてしまうような事さえ無ければ、
親の力量不足からの見落としがあったとしても

本人がそこまで道を誤る事はなかったのかも知れない…

本人の経過としてはそういった場所での繋がりの中で
安易な出会いだけでなく
向精神薬の譲渡をしたり、

大量服薬(OD)などの具体的な方法を
ネットでやり取りをしたり

風邪薬などとの飲み合わせをする事で、ドラッグのような効果を狙ったような事をしたり、それを人に説明するやり取りでは
「アッパーとかダウナーが…」
みたいに薬物中毒者のような発言までするようになっているのを目の当たりにした事で

私の知るその子は々は純粋で優しい部分があっても
発達障害故に健常者よりも良くない
影響すら取り込み易い現実がある事
強い危機感として受け止めたし

例えば
健常者ならば善悪の判断もつきやすく
殺人描写の映画やドラマさえ
フィクションとして捉えて真似をする事が無くても

障害がある事で
色んな影響を受けやすく
それが未成年者では無くとも
正しい判断が出来ない(しづらい)
人に対しての配慮を
社会としてもっとちゃんとしなければならないと感じた…

何でもかんでも経済活動の一環だとか文化として容認するのではなく
生まれつき「持たざる者」
がいるという事実と

今の社会としてそういった問題を
重く受け止めて

そういった人が誤ちを犯さなくても済むような
人が人間として生きやすい
有るべき社会の姿を真剣に模索するべきなのだろうと思う。

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