以前は権利と自由についての問題提起をさせて貰ったのだが
改めてそれについての指摘を
したいと思う。

今日の権利や自由を主張する事を容認する流れは
民主主義における
人の性善説」に基いて
犯罪性や違法性が無ければそれをしても構わない…
というある種、
国家が無責任かつ投げっぱなしな
権利を人に与え、
その中で個人が過ちを犯せば
「自己責任」と
割り切られてしまう側面もあるし

社会経験の少ない未成年者であったり、判断力の低い一部の障害者などは

現実問題として
(脳科学的には前頭葉などが発達しきれていない故に)
物事を色々考えたとしても
論理的思考や客観性が欠如して衝動的かつ場当たり的になり易いという事は大いにあるだろう。

かく言う自分が民間のカウンセラーの
立場から発達障害を抱える当事者との関わりの中から感じた事としては

その当事者が幼年期から本人の
直面する問題に対して周りの親や
大人からの適切なサポートを受けた
ケースだと大きな問題には繋がらない事があっても

案外そういう問題を見過ごされて来た事で
昨今は大人の発達障害として後々に
発覚するケースも多く

学歴社会という側面からも
発達障害がある事で一部ではIQなども高い傾向にあったり、

勉強などの成績が良い事からも
学生生活の間は障害として疑われる事はなく、
仮に兆候として見え隠れしたとしても
「ちょっと変わった人」だとか
「個性的」
程度で見過ごされているケースも多いだろう…

仮に粗暴で感情のコントロールが苦手でトラブルを起こしやすいケースですら
親の躾や育ちが悪いのだろう…
困るのは本人だから…

みたいに危機感なく捉えられてしまう事も少なくないだろうし

結果的にそういう問題行動が
犯罪に繋がったり、
先天的な要素も加味して、思考や行為のパターン化が成される事で

仮に犯罪を犯して捕まったりしても、
客観性の低さから内省や学習も出来ずに再犯を犯すケースも多いように思われ
自身が関わった発達障害の未成年者のケースでも

発達障害からの認知の問題が起きていて、
それがパーソナリティー障害に繋がっている事が見受けられ、

その子の場合は18歳になるまで
親がその問題を見過ごして来た事で
発覚も遅れていて、
本人に判断力の問題があったり

影響を受けやすい要素があるにも
関わらず
小学生くらいからパソコンで
インターネットが使える環境を作っていて
その中でマイナス要素が強い掲示板などを覗くことが増えた中で

自傷行為をしたり、それに関連して、
血液への執着などから自傷した後で
自分の血を集めたり、それを飲むだとか、
深く切りつけた後で出てきた自分の
脂肪を食べる…
みたいな問題行動までするようになっていたし、
TwitterのようなSNSで横行している
闇アカウント(病み垢)などに依存する中で
他のユーザーにそういう行為ですら
イイネを付けられて
「肯定」
されてしまう事で
治療も困難な程に問題が根深くなっているのも把握していただけに

本来その子に対して悪影響を与えるような存在を
「社会が表現の自由の一環」として
認めてしまうような事さえ無ければ、
親の力量不足からの見落としがあったとしても

本人がそこまで道を誤る事はなかったのかも知れない…

本人の経過としてはそういった場所での繋がりの中で
安易な出会いだけでなく
向精神薬の譲渡をしたり、

大量服薬(OD)などの具体的な方法を
ネットでやり取りをしたり

風邪薬などとの飲み合わせをする事で、ドラッグのような効果を狙ったような事をしたり、それを人に説明するやり取りでは
「アッパーとかダウナーが…」
みたいに薬物中毒者のような発言までするようになっているのを目の当たりにした事で

私の知るその子は々は純粋で優しい部分があっても
発達障害故に健常者よりも良くない
影響すら取り込み易い現実がある事
強い危機感として受け止めたし

例えば
健常者ならば善悪の判断もつきやすく
殺人描写の映画やドラマさえ
フィクションとして捉えて真似をする事が無くても

障害がある事で
色んな影響を受けやすく
それが未成年者では無くとも
正しい判断が出来ない(しづらい)
人に対しての配慮を
社会としてもっとちゃんとしなければならないと感じた…

何でもかんでも経済活動の一環だとか文化として容認するのではなく
生まれつき「持たざる者」
がいるという事実と

今の社会としてそういった問題を
重く受け止めて

そういった人が誤ちを犯さなくても済むような
人が人間として生きやすい
有るべき社会の姿を真剣に模索するべきなのだろうと思う。

この内容は
嘗て自分がヘイトスピーチの問題について
産経ironnaに投稿した内容である
※一部改正

ヘイトスピーチに関して
表現の自由の観点から、慎重に議論されているようだが
そもそも今日ある表現の自由が表現手段であれば権利として何をやって許される…
というような流れが間違いであると感じる

ヘイトスピーチなどは完全な悪意と差別意識によるものであり、
例えば記憶に新しいイスラム過激派による
日本人人質事件の残念な結果に到る前には
動画サイトなどでは
人質だった後藤氏に対して辛辣な意見もあり、

ある動画投稿者の発言は

「人質になって迷惑をかけるなら、テロリストの隙をみて自殺しろ!」

というものであった

今の表現の自由の在り方と捉え方によれば

こんな発言すら容認されてしまい
広く認められている国民の自由や権利においては

権利や自由を与えられる前提として
「公共の福祉に反しない範囲」

として設けられているはずで
後藤氏に対しての心無い暴論を発した人間にしてもそうだし
ヘイトスピーチに関しても言うなら
そもそも悪意があり、
表現によって対象者を攻撃して傷付ける事をいとわないものであり、

公共の福祉の観点で見ても明確な逸脱行為であるだろうし

悪意を持って相手を攻撃したり傷付ける内容ならそれらは認められてはいけないと思う。

表現の自由の考え方については上記の指摘を踏まえる条項を盛り込む必要があるのではないかと思う
本来ならこういった議論をされなくても、
やって(言って)良い事と悪い事の範疇として

悪意から攻撃する事が
「正義」
ではないというのは考えればわかるはずで

ヘイトスピーチは表現の自由として認められるか?
という事を
議題として盛り込んで、時間を掛けて精査して議会で決議しないと
決めれないという現状が情けないとすら思うし

表現の自由に関してはその考えを欧米社会を中心に世界的に広められてはいるが、

どうもその解釈が独善的で身勝手であるものや
発信者による一方的なものも認められていて

それが西欧社会におけるイスラム教徒に対しての無理解からの
「風刺画」が
その典型であり

表現の自由を正当化した者達による配慮を欠いた
その行為が

彼等にとっては信仰に対しての冒涜行為として捉えられ、
軋轢を産んで問題にもなったのであり

これに関しては前記のような悪意からのものでなくとも、
それが
「尊厳」
を傷付けている事実があるのであれば

「表現の自由だから」

と正当性を高らかに謳うべきではないと思うし

残念ながら
国際社会にも日本国内に於ても
そこまで考えが及ばなくて
大事な部分に気付く事が出来ない人がメディアに取り上げられて
有識者として扱われるのを嘆かわしく思うし

自分から見れば
この国を動かす人の中において
有識者だと思える人は
本当に少ないと思えてしまう。




世界的な民主化の流れの中で
「自由と権利」
を声高に主張する人々が多くいて
それに対しての疑問も持てなくなっている人も沢山いて
その「自由と権利」が多くの問題
を生み出している事にそろそろ焦点をあてていかないと
人類が取り返しのつかない事になるのではないかと思っていたりもする。

トランプという暴君が
アメリカ大統領として選ばれてしまったのも
民主政治における選挙と
国民に与えられた
「選挙権」
がもたらした結果であり

イギリスのEU離脱の決定なども
選挙によって決まった事であることから見えるのは

選ぶ権利を与えられた側が
必ずしも正しい判断や考え方などが出来るとは限らず
それが不完全な人間が選択する事だとすれば
いくら多数決で決められるとしても

の多数の考えさえも誤りに繋がる中で
最悪な結末にすら繋がる事もあるだろうし、
その権利の行使の為には一定の条件などがある場合があるとしても、

制限が無さすぎて多くの人に等しく与えられる「権利」
の在り方が本当に正しい事なのか?
という
根本的な事を見直す「そもそも論」などの視点で
それらの問題提起をしていきたいと思う。

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