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サンドイッチ店の店長でありオーナーでもあるワタルの朝は早かった。朝の4時には起きてサンドイッチ用のパン生地の仕込みを始める。
本来ならば朝の4時にLINEを見たりはしない。そんな暇はないのだ。しかしその日の朝は違っていた。ワタルは何かに誘われるようにスマホを手に取りLINEを見る。ワタルの店のパートの一人からだった。
「徳永さんか」
ワタルは舌打ちをする。徳永さんからは、3日前からLINEで相談を受けていた。辞めたいというのだ。
「そんな無理なこと言っても人手がないっつーの」
ワタルは忙しいことを口実に、ずっと既読スルーを決め込んでいた。その徳永さんからの新しいメッセージだ。
ワタルは電源をオフにしようとスマホを手に取る。
「下手に見ると既読がつくからなぁ」
そう思っているとき指があたってしまった。徳永のトーク画面を開いてしまう。
「ヤベッ」
ワタルは思わずうなったが、仕方ない。メッセージを見る。
『店長を時給985円で雇います』
「はい?!」
ワタルは驚いて目をむいた。
メッセージをもう一度よく見る。やはりそこにはこう書いてある。
『店長を時給985円で雇います』
「なんでオレが雇われなきゃならないのよ!」
ワタルはサンドイッチの仕込みに戻ったが、徳永のメッセージが気になって、もう一度LINEの画面を開いて見る。
新しいメッセージはワタル個人のだけではない。徳永は、店の従業員のグループLINEにも同じメッセージが送っていた。
『わたしのシフトをかわっていただける方、時給985円で雇います。店長も応募可』
わたしはいつも通り、パート先の弁当屋に向かう。
「おはようございます」
午後二時だけど、取り敢えずいつもそう挨拶している。
店長は少しだらしない白い調理服を着た小柄な男でオニギリを作っている。パートの桜さんは、大きな銅のボールを直接火にかけてひじきを煮ていた。
「何かお手伝いすることはありますか?」
桜さんも店長もわたしより年下だ。けれど職場では先輩だから、タメ口ってわけには行かない。桜さんは銅のボールを熱心にみつめたまま、振り返りもせずに言った。
「東北大震災の後始末をお願い」
桜さんは黄金色のクリームを木杓子でボールをこそげるようにしながら混ぜている。重そうだ。
「あの?東北の何でしょうか?」
わたしは桜さんの手元ばかり見ていて、言ったことを理解できなかったので聞き返す。
「東北大震災、言ったでしょ」
桜さんはスーパースキニーが似合うスレンダーな美人だ。手際も良いし、職場のことは店長よりも把握している。けれど、テキパキしている人の常として、相手の反応が遅いとイライラした口調になってくる。
「東北大震災、ですか?」
「そうよ。この間教えたでしょ」
店長はオニギリを作りながらこちらを見ている。
「覚えが悪いのかコイツは」
とでもいうようだった、その視線は。とにかく経費削減にこだわる店長は、少しも無駄にするのが許せない。とくに人件費がかさむことが何より嫌いなのだ。
「レシピ帳にありますか?」
わたしは歴代のパートの人たちが書き残したレシピ集を手にした。
「のっていないと思うわよ」
桜さんは笑顔だがきっぱりと宣言した。
「簡単なものだからね」
それでもわたしはレシピ集を開いてみる。なんだかんだいって、今までもレシピ集にないものはなかったからだ。店長の作るオニギリの具材から桜さんのひじき煮まで、ほとんど網羅していた。
レシピ集を繰る手が震えていて、東北大震災の『ト』のインデックスがうまくつかめない。ようやく『ト』を開くが東北大震災は載っていない。
わたしは深呼吸して、自分に言い聞かせる。
「のってないと思うから見えないだけ。のっていると思えば、必ずみつかる」
もう一度落ち着いてレシピ集を見る。
「あ、ありました」
東北大震災と書いた項目がみつかるので読み上げる。
「今から全員で地震なんてなかったと3回唱えて、さらにそれを信じる」
気が付くと桜さんと店長は互いの持ち場を離れて、向かい合わせに立って手を繋いでいる。
「地震なんてなかった」
2人ともブツブツと唱えながら肩をまわしている。アスリートがウォーミングアップするみたいに2人一組で手を繋いだままストレッチもし始めた。
「あ、あの」
わたしはどうして良いのか分からなかった。
大人になってから赤の他人の桜さんや店長と手を繋ぐということにも抵抗があった。が、それよりも、弁当屋で何かを唱える必要性が理解できなかった。
「あのジャムおじさんじゃないですから、それはちょっと」
わたしはそう言って笑った。
桜さんと店長は真顔だが、きっと二人の冗談に違いないと思ったのだ。これはアンパンマンを作っているジャムおじさんが唱えるという美味しさの秘訣。
「おいしくなぁれ」
あの言葉のパロディだと思ったのだ。
「朝比奈さんも早く」
桜さんは手を出している。普段は忙しいばかりで冗談一つ言わない職場環境だと思っていたので驚いた。わたしは恐る恐る桜さんの手を握る。店長も手を伸ばすので仕方なく店長の手もつかんだ。桜さんの手は予想通りというか、すべすべしてヒンやりしている。店長も低体温だったのは驚きだ。
大人になってから大人同士で手を繋いで輪になるというのは初の体験かも知れない。
「はい、一緒に唱えるわよ」
桜さんの合図でわたしは言った。
「地震なんてなかった」
桜さんも店長も黙っているので、わたし一人の声が厨房に響く。狭い厨房は大きな調理台が真ん中にあることもあって、三人で手を繋ぐには端の方で肩を寄せ合うしかない。だから聞き逃しようもない。
「朝比奈さん、あなた本気?」
桜さんは美人なだけに笑っていないとすごみのある表情になる。
「えっと、どこの部分でしょうか?」
「はじまりのところよ」
「地震は、あった?」
店長が手を握ったまま、ブンと音を立てるくらい早く振り下ろした。
「痛い!」
私は顔をしかめる。調理台の上に開かれたままのレシピ集を見る。
「地震なんてなかった」
読み上げるけれど、自分のどこが間違えているのかわからない。
「言葉通りよ」
桜さんは店長がわたしの手を振り下ろしたときにずれたメガネを直しがてら首を振った。メガネは鼻の上でカタカタと微かに揺れながら丁度良い位置に収まった。
「地震なんてなかった」
わたしはリハーサルのために一度口に出してみる。今度は本気っぽい口調でやってみる。
「まるでわかってない」
店長がそう言ったとき店の入口のチャイムがシャラランとなる。
「あ、あのお客様みたいです」
わたしはこのおかしな輪の中から抜ける良い機会だと思って喜んで声をあげた。厨房は弁当を売っている店の部分の奥にあり、扉もないため丸見えだ。
「あ、あれ?いない」
ドアは確かにまだシャラシャラ音を立てている。けれども店には誰もいない。どうやって輪を抜けようかと考えながら視線を元に戻す。
「店長は?店長はどこかにいらっしゃったのですか?」
気が付くと店長がいない。わたしと桜さんだけが、手を握り合って向かい合わせで立つ形となっている。途端に気恥ずかしさがわたしをおそってくる。
「朝比奈さん、まだ分からないの?」
桜さんの握りこぶしくらいしかない小さな顔の中にある切れ長の目を見つめる。
「東北大震災のこと、でしょうか?」
わたしは東北大震災に関連することを思い出そうとする。この弁当屋で聴いた覚えはないけれども、記憶にある東北大震災のことなら、次々に思い浮かんだ。
「最近すっかり忘れていましたけれど、あの大きな津波のこと、原発事故のこと。忘れてはいけませんよね」
桜さんを見ようとしてハッとなる。
わたしが握っているのはお味噌汁をかきまわすスクリューの鍋の取手だったのだ。
厨房を見回す。
「わたし独り?」
怖くなって、わたしは店へと走る。
「誰もいない」
わたしは勤務中だけれど、店の外に出る。大きな通りに面しているけれども東京の中心部というのは車の通りは案外少ない。通っているのはタクシーか業務用のトラックなどが殆どだ。でも今日の、そして今、そのタクシーすら一台も通っていなかった。
駅から少し離れているけれども、いつもは誰かしら歩いている歩道。けれど今日は本当に誰もいなかった。
わたしはもう一度店の中に入る。店の2階も厨房になっている。朝は、店長がそこで弁当の仕込みをしているとのことだった。が、わたしは一度も見たことはなかった。フライパンを使った形跡があるので、そうだと思っていたのだ。
2階に向かって1階から声を掛ける。返事はない。
1階の厨房にある内線電話をとる。
「あのもしもし、店長?」
店長はいつも電話に出なかったので驚くことではなかった。2階に行ってみる。
思った通りというか、2階の厨房にも誰もいない。
それでもわたしは声を大にして叫んだ。
「店長さん、お聞きしたいことがあるのですけど」
シーンと静まり返っている。コトリとも音がしない。
わたしは警察に電話するべきか迷ったが止めた。
「気のせいね、きっと。わたし白昼夢でもみたのかしら」
わたしは2階にあるトイレに行ってから下まで降りた。それから、いつも通り厨房のメモを見る。
「今日はもうやることはなし」
メモはすべて線が引かれている。用事はすべて午前中に終わっているようだ。先ほどのことを思い出してメモの消された部分の文字をもう一度よく読む。
「東北大震災、東北大震災」
東北大震災の文字はなかった。メモには当たり前のことしかない。卵をゆでるとか。しかしそれとて、すべて消されていた。
鍋もボールもいつものところにある。店に行ってみる。弁当は相変わらずの品ぞろえで種類が増えたりも減ったりもしていない。目新しいものは何一つなかった。
店のショーウィンドウの内側から通りを眺める。誰もいないけれども、昨日見た景色と何の違いもないように思えた。電信柱の位置とか、向かいのお店がどんな色のビルだったかとかをはっきり記憶していないけれども。同じに思えたのだ。それでいて、どこかが根本的に違っているように思われた。
その日は午後2時から午後7時までいたがお客は0人だった。
いつものように調理台を洗い、フキンを煮沸消毒する。それから店内の売れ残りの弁当を冷凍庫にしまう。いつもと違うのは弁当が大量に売れ残っているということだけだった。
電気を消して鍵をかける。通りには相変わらず誰もいない。
「あ」
わたしは怖くなって立ち止まる。
「蓮さん」
夫のことを思い出して、わたしは走って家まで帰る。夫とは結婚相談所で出会い結婚して1年になる。
マンションの3階にある我が家の窓は明かりがついていた。珍しいことである。夫は、この一年間、午前0時より前に帰ったことがない。わたしは階段をかけあがる。
「ただいま」
「おかえり」
しかし、振り向いた人は夫とは別人だった。
三年前にガンで亡くなった人だった。結婚を約束していたのに。わたしは彼の他、だれとも結婚する気はなかったけれど、家族に押されて見合いをすることになりトントン拍子に結婚が決まったのだった。
その人が、いつもの居間に、いつも通りというように座っている。
茫然と立ち尽くしている私に、彼は歩み寄って来た。
「結婚一周年だね。いままでありがとう」
「え、でもあなた・・・・・」
そう言いかけて、わたしはスマホの画面を見る。
「あ、二年前だ」
「え?二年前?」
彼はわたしを見て驚いている。
「ここ、どこ?」
マンションの窓にかけより窓を開けた。
「あ!」
「うーん、アメリカの空気って日本よりおいしい気がするのは僕だけかな?」
彼はワインを片手に持ち、わたしの肩を抱いた。
「ガンの特効薬が出来たおかげで、ぼくたちこうしてここ、アメリカにいられるんだね」
彼は片手にワインを持ち乾杯の仕草をしてみせる。そして、わたしを見て満面の笑みで微笑んだ。
「そう、ガンの特効薬ができたのね」
わたしはそう言いながら、とめどなく流れる涙をぬぐった。