まず、型とは何かについて考えてみたいと思います。勉強で大切なものは何かと考えていくと、「型」というものが挙げられるのではないでしょうか?
では「型」とはどういうものなのでしょうか。
型についてネットなどで検索すると「空手等の武道や、能、歌舞伎、日本舞踊といった芸能等で、規範となる動きの連続。」とあります。
広辞苑には「武道・芸能、スポーツなどで、規範となる方式」という意味や「伝統・習慣として決まった形式」等があります。言葉にとらわれるのではなくもっと広く考えてみると、野球や陸上競技に至っても、多くの人に良いと認められる無駄のない動きがあるはずです。
センスのいい人というのは、自然にそれに近い形にたどり着くわけですが、スポーツは一例ですが、どんなスポーツでも、一般的には我流の楽なやり方を指導者達に少しずつ修正されていくものです。野球のバッティングならば、例えば脇を修正ポイントとし、それを意識しながら素振りを何百何千回と繰り返すことで体に染み込ませます。そして次は、軸足のタメがどうであるかとか、腰の使い方はどうであるか、というように新たな課題を設定し、同じように修正していきます。
こういった例にみられるように、多くの人達が指導者のもとで、いいとされる「型」へ近づけていっているわけです。その証拠にプロの選手は当然みな個性がありますが、その奥には確かな基本動作という共通性が見られます。一方で小学生の野球少年達のフォームはみんなバラバラという印象を受けます。
しかし、ある一定以上野球に打ち込んだ高校野球児になると、投げる、打つの動作が、皆、比較的似てきます。それは、幼い頃より肩やひじ、腰の使い方を正しいとされる理論の元に習い、練習してきているからではないでしょうか。そう考えると、通常はどのスポーツも高校や大学までに基本的な型を身につけ、反復練習した結果、プロになれるかどうか判断され、そこを超える事ができた選手達がプロの選手になり、プロの選手になってからはそこからさらに自分の型を作り上げていく。つまりは、基本の上に型を作るということでしょう。
結局の所、型を身に付けるためには、基本を身に付けてこそであり、基本の上にあるのが流儀のようなオリジナリティーである型であることがうかがえます。
次に型と安定性について考えてみたいと思います。
明確な型を持たず、いつでもなんとなくやっている人達と比べると、型を身につけた人はいつでも高水準のパフォーマンスが実現できているように見受けられます。イチロー選手で言えば振り子打法、野茂英雄選手でいえばトルネード投法などです。
そのフォームには、顕著にその選手個人の型が反映され、その偉大な記録を支えた大きな要因にその個人の「型」が大きく作用した代表例です。そういった選手達に共通して言えることは、その形にもっていくのが非常に上手で、その形に持って行けば必ず勝てるという大きな強みを持っているということです。
そうでなくてもプロの一線で活躍する事は困難です。しかし、やはり彼らは、日々欠かさず基本の型を磨き、加えて想像以上の努力をしています。型を磨く前に基本がしっかりしているのですから、肉体的、精神的衰えがない限り絶対的な強さがあるわけです。
次に型は、自然な動きとは限らないのではないかといったことについて考えてみたいと思います。もし、型が理想的な動きであるならば、意識しなくても一生懸命練習をしているうちに、理想である動きが自然に身につくのではないかと思う人もいるかもしれません。
確かにそういったケースもあるかと思いますが、意識的な訓練を経ずして、理想の動きや型は身につかない事がほとんどでしょう。
そこには、どうしたらこうなるのか?どうすればどうなるのか?といった明確な意図と戦略が必要となるでしょう。
最近私が読んでいる本の古武術を例として挙げてみたいと思います。
古武術の体の使い方は、私達の普段使っている身体の使い方とはまったく異なります。
いうなればまったく逆の動きになります。勿論、現代に生きる私達にとって古武術の動きは一長一短があるでしょう。しかし、先人達が築き上げ、現代にまで伝承されてきた古武術にはある独特な一貫性のある型がある事が解っています。
私が読んでいる読み物の中に登場する武道家の甲野善紀氏の三方斬りは、実際目にした人達には速すぎてちゃんと切れているのか疑ってしまうほどのようです。
甲野氏も若い頃は徹夜で木刀を振る事があったそうで、当時いくら速く動こうとしても、決してこの速さには達しなかったそうです。そしてそれは、どうしても筋肉に頼った(古武術とは違う)動きになってしまったからのようです。古武術の動きは現代の日常生活では現れない、いわば「不自然な」ものですが、きちんと身につければ絶大な効果を発揮してくれるもののようです。
何故、古武術を例に出したのかですが、大倉山藍田学舎所属宮崎久選手の100m走のタイムの向上に古武術の動きから何らかのヒントが得られないかと模索していたからです。
そういった中で気がついた事は、私達の日常での身体の使い方と古武術の体の使い方の関係は、日本語の感覚と英語の感覚の違いに近いものがあるのではないかと思うものでした。
ある一つの事を探求するという事は、時として、今探求しているもの以外のものへも何らかのヒントをもたらしてくれるものであり、一つの事を一生懸命探求、研究する事は、様々な物事の要素や本質、果ては様々な可能性までも、もたらしてくれるものです。
つまりは、スポーツという一つの事象について探求する事が、勉強と言う違うフィールドの事象の何らかの法則をも発見させてくれるものになるという事です。物事の理というものは、どんなフィールド間においても、何か一つの法則・原理の元に深くからまりあったもであると感じました。
日本語と英語の間にもそのような法則が存在するのかとても興味深いものです。しかし、英語と日本語には厳然と横たわる構造上の相違点があり、それを無視し、日本語の延長線上で英語を捉えよう(英語を日本語に置き換え並び替える読み)といくら訓練しても、中々上達しないばかりか、修正しにくい変な感覚が身についてしまう事もあります。全く違う系統の2種類の方法があった時に、一方を訓練しても、もう一方は全く上達しないという例です。いずれにせよ、型の習得には自分にとって自然で心地よく感じていたものから、意識的に離れてみる必要があるという事です。
つまりは、それまでの習慣からの「離」が重要な要素となります。
                            
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つづく
                            大倉山藍田学舎 小野修一郎