月別アーカイブ / 2017年08月



別れにまみれた月だった。2017年8月はかつてないほど、いろんなひととの別れ際が多かった。


「別れ」って付き合っている男女の離別だけを指す概念ではない。もっと多岐に渡る。


解散も退社も退学も卒業も転校も転職も「別れ」だ。

むしろ自分が上記のイベントを起こすのではなく、誰かが起こしても別れだ。
そう考えるとこの世は別れに満ちている。




それにしてもあまりにひととの別れが多いので、超自然的な物事のせいにしたくなった。
【別れ スピリチュアル】や【別れ  続く 魂】なんかで検索したりした。我ながら「末期だなぁ」と思う。救いは無い。


それにしても最近会っていないひととの別れも多いので、直接的原因は自分自身に無いケースばかりだ。だから自分が嫌われたとかそういう話ではないのだと思う、思いたい。


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スピリチュアルなブログによると「自分のエネルギーが変化し始めると、これまで合っていたエネルギーのものとは合わなくなります」と書かれていた。菅さんは「なんかの啓示なんかじゃない?」と言っていた。



なんていうか、どうしようもなさすぎて怖い。手出しできない領域はキツイ。



でもサイトには「この波長はレベルアップでもあります」と急に持ち上げられた。菅さんも「悪いことではないんじゃない?」と言っていた。


悪い気分ではないが、サイトには「自分の波長が下がっての場合もあります」といきなりどん底に突き落とすようなことが書かれていた。
菅さんはこの話どうでもよさそうだった。



今生の別れになるひとなんてそういないとは思う。どこかでまた巡り会えば巡り会うのだろう。

別れに対して寂しいばかり言ってもいられない。離れ離れになっても歌っている何かが届くのだろう。もしかしたら。



あしたは9月1日。

夏休みが終わる、子どもの自殺が一番多い日だ。毎年、どうしようもない気持ちになる。これもまた救いは無い。義務教育なんてやめちゃえばいいのにと思っている派だ。
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「コミュニケーション能力とは何ぞや?」という問いがあったら答えられるだろうか。

ウェイウェイ騒げたり、誰かれかまわず仲良くできる能力はコミュニケーション能力とは呼び難い。学生の指す「コミュニケーション能力」と社会で使う「コミュニケーション能力」には大きな違いがあると感じている。


では「コミュニケーションの本質はなんだろう」と考えたときに、核となる技術がある。

それは「伝わる」ということだ。
話せばいい、見せればいい、聞かせればいい。では足りない。

それではひとは動かないからだ。

「伝わった」ときにようやくひとが動く。コミュニケーションは「伝える」ことが本当にむずかしい。「コミュ障」という言葉があるが、あれはこの「伝達力」の過不足を指すのではないだろうか。


でも「伝わる」の本質が分かっていると、あらゆるシーンで成果がでる。

教師、営業、作家、音楽、お笑い、エンジニア。

全部そうだ。

伝わって、相手が初めて動く。そして変化して感動して感化していける。
優れた表現者が尊敬を集めるのはその影響力所以だ。

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ムチャクチャ大切で、なおかつ学校が教えてくれない真実がある。
それが「『伝わる』のは相手が聞きたい話だけ」ということだ。


つくづく痛感する。
でもこれを知っていると、ひととの対話が画期的に楽になる。

ユリウスが言うように、人間は自分が見たいと欲するものしか見えない。無理やり見せようとすると反発を生む。
 

あなたのまわりに「何を言っても伝わらないひと」がいると思う。誰かからすると、あなたもそうだし、僕もそうなのだ。ひとは自分の聞きたいことしか聞こえない。


あなたが、その話をして「伝わらない」のなら、それはそのひとが「聞きたくないこと」なのだ。それか聞きたくない言い草になっているかだ。

そんな「何を言っても伝わらないひと」に対しては時間をかけないといけない。「先送り」がナイス判断なケースもある。
 
少なくとも、「無理くそに聞かせる」という手段はパフォーマンスを落とすか何かが破滅するだけだ。
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そして、コミュニケーションは感情抜きでも伝わらない。

これは「論理によって話は伝わらない」と言い換えもできる。論理によって伝わるひとは稀だ。期待してはいけない。

数学者よりも音楽家の方が表現に秀でているのと同様だ。先生よりもパンクロックから何かを教わるのだ。

つまり伝えたいことがあるときは、説得しても無駄なのだ。説得に効果は無い。
感情を揺さぶる何かが無いと、伝わらない。


そして、「誰に言われたか」をひとは重視しているということだ。
同じことを言ったのでも、あなたとYAZAWAが言うのとでは、あなたとイチローが言うのとでは、異なる影響力がある。

CMに芸能人が起用されるのはこのためだし、有名人本が売れるのはこのためだ。

したがって、自分が変わっていかなくては影響力は強くならない。

それが待てないときもある。

自分が表現しても「伝わらない」ときは誰かに言ってもらうのも手だ。

「ちょっと、センパイ!やすしのやつにガツンと言ってやってくださいよー!」という手段は理にかなっている。

やすしもあなたの話は聞かないが、センパイの話なら聞くのだ。やすしのことはムカつくかもしれないが、感情の生き物である人間にはそういう一端がある。
でもそんな人間、不器用でなんかかわいくないすか?とも思う。


「コミュニケーションとは何ぞや?」という問いに答えはない。
でも強いて言うなら、「相手のことを考え、思いやる姿勢」のことではないだろうか。「自分の言いたいことを喋るだけ」というレベルの表現はどうにも届かない。ライブも作詩もブログも同じか。


 
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「威張っちゃいけない、ナメられちゃいけない」という言葉がある。むかし世話になっていたひとがよくよく言っていた。

自分が威張ってしまったときや萎縮してしまったときに、思い出す。いかんいかんと振り返る。

この言葉は大好きだし、幾つかある僕の座右の銘のひとつだ。
その論理を眺めると一見、矛盾に映るが、じつは極めて本質的だ。

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いじめられてしまうひと、虐げられてしまうひと、騙されてしまうひと、まわりからひとが離れていくひと、立場によって気分が変わってしまうひと、DVを受けてしまうひと、冷たくされてしまうひと。

人間関係におけるいざこざは多種多様だ。
でも、憂き目にあうひとはいつも会っているのではないだろうか。

たとえば「DVをくらうひと」というのは誰と付き合ってもくらいがちだ。悲しいことに僕のまわりはそうだ。

一生に一度も暴力をくらわないひとがいるのに、「誰と付き合ってもくらう」というひともいる。

かしら原因があるのだろう。加害側が良いということではなく、何かしら自分に原因があると考える方が良くなるかと思う。

しかし、そういう話を聞くたびに、また「威張っちゃいけないし、ナメられちゃいけない」という話を思い出す。
人間関係のいざこざは「威張らず、ナメられず」でほとんどの破滅を避けられる。

昨日、秋葉原で二人組の男に声をかけられた。
「金貸して」とのことだ。

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僕は「今、二万円しか持ってないし、貸せない」と答えた。
すると、片方の男が僕の肩を掴んで「いいじゃん、貸してよ」と少し大きな声を出した。

ーーあ、カツアゲだ。と思った。

僕は「勝つか負けるかは置いといて、やりあったらお互い無事じゃ済まない可能性がある」ということを伝えた。

彼らは最初、笑っていた。

僕はもう一言付け加えることにした。

「でも、『ケガをするかも』ってだけでも合理的ではないんじゃない?」と続けた。

そう言うと、「まぁ・・・・・・そっか」と納得していた。

「見逃してくれてありがとう」と告げて、平和的なところに着地した。

彼らはリスクを犯してまで、お金がほしかったのではないのだろう。それなら強盗や窃盗という手段がある。

僕は彼らに「無事」という利益を掲示して、win-winの関係を作り出した。

もしも僕が「警察呼びますよ!」と刺激したら、彼らは怒りだしたかもしれない。
好戦的に手を出せば、それこそ事件性が出てくる。
怯えて払えば二万円は無くなってしまう。

威張らずにナメずに対応したことで、理想的な解決にたどり着けた。久しぶりに自分を褒めてやりたい。

ピンチのときは「威張らず、ナメられず生きるにはどうしたらいいか?」と自分に問いかける。

すると建設的なやり方が浮かぶ。
もちろん、そのやり方がよりいっそう自分を生きやすくするとも思っている。
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