月別アーカイブ / 2017年06月

二日連続当日解禁ゲリラライブ。新宿のSAMURAIというライブハウス。毎度突如の「やるわ」なのに来てくれてありがとう。



「文章はテレパシーである」


スティーブン・キングの言葉だ。


文章は写真や映像のように、詳細を伝えることはできない。
「百聞は一見に如かず」と言うが、写真や映像は文字通り「一見」を受け手に示すことができる。


写真や映像は文章よりも後発のコミュニケーションだ。あるがままを映し出す。
「伝達手段」としては、質、速さ、ともに文章よりも優れている。



文章はそうはいかない。状況や風景を説明して描写するのに手間がかかる。間違って伝わってしまうリスクもある。

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だが文章には、文章にしかないパワーがある。
そのパワーとは「一見」以上のものを受け手に伝えられる訴求力だ。


心のこもった文章は「伝達」というレベルを超え、読み手を「共感」に導く。
書き手の気持ちを読み手に、そっくりそのまま届けられるのだ。


そんな手間暇かかる伝達手段である文章。他の伝達手段にはない深さがあるなぁと感じる。


「書籍」はその最たるものだろう。


「書籍」ほど深くて、時間のかかる伝達手段は無い。
深い場所には読み手自身で潜ってもらわないと、光があたらない。潜るには時間がかかる。

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『一人でじっくりと文字を追い、たまに物思いに耽る』

読み手にそんな時間を作ってもらわないと、書き手の声は伝わらない。
書籍一冊を読み切る時間があれば、YouTubeの動画を何本見られるだろう。


だが読みきれば、一人でしか噛み締められない感動が訪れる。写真や映像と違って自分一人の心が、じんわりと浸る、海のような感動だ。

一人でしか味わえない感動は尊い。本は人生さえ変えてくれる。



10年ぶりの帰省で感じたノスタルジー、ビル群から覗く夕焼けの終末感、夏が終わった瞬間のにおいの消失感。


文章から味わうのは「言葉にならない」感覚ばかりだ。


これらが如実に表現されたエッセイ、小説が書店に無数に並んでいる。


僕はそれらに人生を変えてもらった。

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太宰や芥川、安吾と僕たちが生きる時代はまるで違う。
だけど彼らが感じた苦しみや痛みは、活字を通して突き刺さってくる。


読み手と書き手がまったく違う時間を生きているのに、書き手のメッセージがザラザラと味わえる。書き手の感情を読み手は時間差でみずみずしく受信できる。
 


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「心が伝わっていく」という点では、まさにテレパシーだ。

文章は書き手の心が良くも悪くも無意識ににじみ出る。

「行間を読む」というのだろうか。文章には文の底に溜まったものや、言葉と言葉のあいだに、挟まっているものがある。それは、書き手の心だ。



いくら隠しても心はにじみでる。
怒っている人が書いた文章は怒りがにじみ、いばっている人が書いた文章は抑圧的になる。

書き手の心は隠せない。言語を超越して読み手に「なんとなく」伝わってしまう。メールでもなんでもそうだ。



人類は、「伝えるため」に「読み書き」を発明した。
長い歴史に磨かれてきたこの伝達手段は、ときとして僕たちの本質をあぶり出す。「書く毎日」のなかで僕はより一層、「読み書き」について考えるようになった。


「本質をあぶり出されてもいいように、本気で書かないといけない」


そう思って、取り組んでいる。行間の先にたるんだ姿を見せたくない。



文章は写真や映像よりも、読むのにエネルギーを使うし、時間もかかる。
オマケに読んでも読まなくても、かまわないのだ。

それをあえて読んでくれている人がいる。
ならば限界まで、本気で伝えていきたい。


メールにTwitter。ブログや匿名掲示板。

サイバーテクノロジーが進化しても、僕たちは「読み書き」から解放されていない。どれだけ、小型化や高速化が進んでも、「書いて伝える」「読んで伝える」という、手段は変わらない。


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それほど大切な技術なのに、僕たちは「文章の書き方」をほとんど学校で教わらない。


句読点や、「てにをは」のような、文章作法は習う。
だが「書く」習慣を身につける授業は無かったし、英文の暗記や、数学の公式を解く感覚で「文章の勉強」をした記憶も無い。


思考力や解決力、読解力は、書くことで養われる。

考える力や問題を乗り越える力、ひとの言葉を読み取る能力は生きていくうえで大切な武器になる。


書くことで、自分の考えを具現化できる。

書くことで、問題をロジカルに捕らえられる。


問題を書き出せば、問題の段階や、突破口も見えてくる。「なんかよく分からないけど、ヤバイし、たぶんムリ」という状態を、書けば超えられる。

そして書いていくなかで、言葉や脈絡の力学を、理解し、読む力は培われる。



何よりも大切な「自分の考えを伝える」という力がつく。「自分の考えを伝える」ことができないと、他人に食い物にされる。


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国語以外のすべての科目も、すべて日本語で書かれている。文章力を鍛えると、すべての成績が上がると聞く。

商品を自分で作って、誰もが「買ってみたい」というキャッチコピーが書ければ、会社の経営をまわせる。
メリットを伝えられる企画書、稟議書を書ければ、やりたい仕事ができる。
愛を伝えられる手紙が書ければ、愛する人を喜ばすこともできる。
歌詞を書けるようになれば、たくさんの人に想いを伝えられる。


書くことで状況を変えられる。本当に。


当日解禁ゲリラライブだった。新宿はZircoにて。来てくれてありがとう。



たまに助言を求められる。たまにだけど、ある。

なかなか上手にアドバイスなどできないけど、する側として気を付けたらいいのは「重箱の隅をつつかない」ということなのかなぁと思った。


「問題を指摘するだけで改善策が出せない」って最悪なところに着地する。

それよりも、直しやすいところからひとつひとつクリアしていくことが、言われる側のテンションも上がるんじゃないだろうか。


助言には、「成果につながる内容の助言」と「成果につながらない助言」がある。
つながらない話をしなきゃいけないときもあるのだろうけど、問題の指摘ばかりじゃうまくいかない。

人間、完璧にはできないし完璧を目指してもそこには何も無い。

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「足りないもの」について語るのは楽だ。欠点の方が見えやすい。でも「良くする」の手段が「足りないものを足す」しか無いとキツイ。

「魅力を増す」の手段としての「足りないものを足す」ならいいのだけれど、「とりあえず足りないものを足す」だと、なんだか面白みが無い話になる。


マキシマムザホルモンや凛として時雨やenvy、ブルーハーツみたいなものは「足りないものを足す」だけでは生まれないんじゃないだろうか。

足りないものを足して良くなったこともたくさんある。

ここ最近だと闘争心を足した。ようやく左アッパーを覚えた。

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ホンシェルジュ更新。今月はコミックについて。



アレが失敗だった、アレは成功だったという話がある。


検証しないともちろん進化しないから、サンプル集めはとてつもなく大切だ。

よくよくやっている。やらないと猿だ。猿は猿山に帰らないといけない。

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でもじつはもっと大切なことがある。

成功とか失敗とかじゃなくて、「ひとは行動を起こすことで何かしら前に進む」ということだ。

世の中のほとんどすべてに当てはまる。


というより成功か失敗なんてなかなか分からない。 開国や明治維新ですら、成功だったのか失敗だったのか分からないのだ。

維新は太平洋戦争にだって繋がっているし、イチローさんの世界記録にだって繋がっている。どちらも鎖国の終焉が無ければ起こり得なかった。

物事はとにかく多面的だ。良い面もあれば悪い面もある。



「上手くいった」と「ミスッた」のサンプルがどんどん積み重なって、生まれてからの日数だけ僕たちは正確になっていく。失敗は減る。結果的に成功率は上がる。 


その結果、行動の総量が減るときがある。
それは一番の損失かもしれない。


僕たちはとにかく動いて物事を進めてきた。

「なんかうまくいかないのよね!」というひとは、もっと動くといい。動くとストレスもかかる。しんどい。でも動けば何か変わる。

分かっているのに動けない日もある。人間だもの。そこは「『だもの』じゃねぇよ」と思って動いてみる。
夜になったとき、嗚呼動いて良かったと思う。思ったらすかさず自分を褒めろ。もっと褒める機会を増やせ。「褒められて伸びるタイプ!」とか言うけど、そもそも褒められて伸びないやつなんていない。人間だもの。

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