月別アーカイブ / 2017年05月

昨年書いたコラムがある。転載したい。

なんだかイチローさんの調子が悪いみたいだ。まだまだ僕たちの度肝を抜いてほしい。

日本が誇るタフガイであり、僕にとって凄く大きなウエイトを占めているアスリートだ。


たまに「凄い大リーガーのひと」という印象を持っているひとがいる。僕にとっては神戸の選手だったから少し違和感がある。

もちろん大リーガーなのだけど、オリックス時代の印象が強烈なのだ。


そこで昔書いた記事なのだけれど今一度、ここの読者にも読んで頂きたいと思った。よし、はじまりはじまり。


今年メジャーリーグ3000本安打を記録したイチロー。日米通算で数えると地球生誕以来、最も多くのヒットを打った野球選手になった。


保持記録は年間262本安打の世界記録や、10年連続200安打など挙げればキリが無い。偉大な記録を樹立した源泉には、意識や考え方の強さがあるのは有名な話だ。僕はそのスピリッツに憧れ、強くインスパイアされてきた。




1994年。プロ野球史上初のシーズン200安打、69試合連続出塁、パリーグ最高打率や諸々のタイトルを記録し、日本中にイチロー旋風が巻き起こった。

近年「最多安打」という単語をよく耳にするようになったが、このタイトルが作られたのは、実はこの年からだ。



しかし僕は「イチロー」をよく知らなかった。

地元神戸で人生初のランドセルを背負って、小学校に入学したばかりだった。1994年のイチローブームは子ども全員にまでは浸透していなかったし、僕自身野球に興味が無かった。

もしかしたら「イチロー」という単語を聞いたことはあるのかもしれないが、正直あまり覚えていない。あの年、イチローさんのことを考えた記憶を探してみたのだが、やはり海馬のどこにも見当たらない。



1995年がやってきた。年が明けてから17日経ったその日、僕の住んでいた神戸の町は壊滅的な地震に見舞われた。人生初の三学期は来たと思ったら、すぐに休校となった。



6歳だった僕は震災からしばらく経っても、何が起きているかわからなかった。まだ生まれて6年だ。「正常な社会」を目の当たりにした期間も短い。あの時の僕は、震災がどれぐらい異常なことなのか判別ができなかった。



慌てる大人たち、ヒビだらけになったコンクリート、休校と短縮授業をくりかえす学校。社会のいろいろなものが正常に回っていなかった。みんなが困っていることはわかった。だが、どこからどこまでが震災の影響によるものなのかもわからなかった。


3月に都内で地下鉄サリン事件が起きたが、僕はこの事件も震災のパニックの一環のように感じていた。僕にとっては、Windoms95の発売とインターネットのブームも震災の一環だった。


僕が実際のイチローさんと出会ったのは、そんな1995年のことだった。


春になり、マスコミの震災報道は落ち着きつつあった。

だが神戸には「復興」という大仕事が残っていた。

「元通りになるのに10年はかかる」と父親がよく言っていた。まだ6年しか生きていない僕にとって、「10年」という月日は天文学的な響きを含んでいた。


震災のせいで、家族を失った人、家を失った人、財産を失った人、何かを失くしてしまった人がたくさんいた。1995年、神戸の人々はずいぶんと疲れていたように見える。


そして地元神戸の球団、オリックスブルーウェーブはこの年に「がんばろうKOBE」という合い言葉を掲げてシーズンを迎えた。このフレーズは小学校にも浸透し、町のあらゆるところで見かけることになった。


不謹慎かもしれないが、少し祭りのような感覚があった。「なんとかみんなで頑張ろう」という熱い空気がヒビ割れた町に染み込んでいた。



町中がオリックスと「がんばろう KOBE」を掲げていた。「一度は球場に行こう」という雰囲気になっていた。そしてイチローさんはこの祭りの象徴だった。震災以降は名前を知らずに神戸で暮らす方が難しかった。そして、その名は全国に広まっていった。「イチロー効果」はこの年の流行語大賞になった。


インターネットの普及も不十分だったので、テレビに張りついて情報を得ていた。困ったことを「困った」と伝えきれない町の姿がそこにあった。

「野球を通して人々を元気に」と書いてしまうと安っぽいが、当時のオリックスには「がんばろうKOBE」のスローガンに対して真摯で、それでいて本気のムードがあった。



何も知らない6歳の僕もこの年、始めてオリックスブルーウェーブの本拠地であるグリーンスタジアムへ行った。住んでいた駅から球場のある総合運動公園駅までは4駅だった。



野球場に足を踏み入れたのは始めてだった。すべてが大きく、今では珍しくなった緑の天然芝は光るように美しかった。

今思えば、将来メジャーリーグで活躍する田口選手、長谷川選手、そしてイチローさんが同じ空間で野球をしていたあの空間は贅沢だった。


試合前の練習の段階で、背中にグローブを回してボールを捕る背面キャッチをイチローさんは連発した。そのファンサービスのたびに、ライトスタンドから歓声が沸いた。



僕はその時、イチローさんの名前を聞いたことはあるぐらいだった。そんな野球を知らない僕でも、諸動作の美しさが分かった。不世出のスターの持つ圧倒的な魅力に一撃で心を打たれた。


試合が始まるとイチローさんの実力は顕著になった。大勢の選手がプレイする中、一人だけが別の次元にいた。すべてが他の選手と違った。


その試合は一度も凡退せず、盗塁を決め、補殺を決めた。

動きの質やクオリティのようなものが一人だけ抜きん出ていた。当時の様子は「無双」という言葉でも伝えきれないほどだ。


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自然とオリックスのファンクラブに入った。

それから何度も球場に足を運んだ。

イチローさんはよくデッドボールを喰らっていた。怪我をしないイメージがあるが、調べたらこの年はパリーグ一位の18個ものデッドボールを身体に浴びていた。僕が見ただけでも2、3回ぶつけられていた。速くて硬いボールは背中や膝元などよけづらい場所に放られた。



相手チームの強烈な警戒態勢と執拗なインサイド攻めが、そのデッドボールの数を生んだのだと思う。子どもの僕から見ていても、どこに投げても打たれることはわかっていた。配球の工夫は必要だったのだろう。そして多少ダーティーなやり方も勝つためには必要だったのかもしれない。



だが、6歳の僕は納得できなかった。イチローさんが打席で凶器のような硬いボールをぶつけられるたびに、悔しくて泣いた。「まともに勝負すれば負けないはずなのに卑怯だ」とも思っていた。



しかし泣く僕と対照的に、当の本人のイチローさんはぶつけられても決して怒らずに、ピッチャーを睨みもせず、黙々と一塁へ歩いていた。子どもの僕には何でイチローさんが怒らないのか不思議だった。本人が泣いても怒ってもいないので、僕らファンの怒りもしぼむように収まってしまうところがあった。



そしてシーズンが終わってみるとイチローさんは執拗なインサイド攻めにも屈しず、打者タイトルを5冠獲得した(ホームランが後3本出れば前人未到の打者タイトル独占だった)。オールスターでは史上最高得票を記録し、オリックスブルーウェーブはリーグ優勝を手にした。優勝決定の瞬間、僕は一塁側のスタンドにいた。僕だけではなくみんなが泣いていた。



デッドボールを18個も浴びながらヒットを重ねまくるイチローさんの姿は、蘇ろうとする神戸の町と重なって見えた。まさに「復興を目指す神戸のシンボル」そのものだった。その6年後にイチローさんは初の日本人野手としてメジャーリーグに挑戦する。多くの大人たちが「たぶん通用しない」と言っていた。



親も先生も少年野球の監督も「2割8分ぐらい打てれば十分だ」と評論家のように述べていた。僕はそのたび「とてつもないことをやると思う」とムキになって言い返していた。


2001年のイチローさんは驚異的なペースでヒットを重ね、新人王、MVP、最多安打、首位打者、盗塁王、シルバースラッガー賞、ゴールドグラブ賞を受賞した。


自分のことのように嬉しかった。



「神戸という街を抜きにして、僕という選手を語ることはできない」と語るイチローさんの映像を見たことがあるが、僕はあの1995年のことを思い出してた。

メジャーリーグ3000本安打達成の時の、「僕が何かをすることで僕以外の人たちが喜んでくれることが、今の僕にとって何より大事なことだ」というコメントも1995年を思い出さずにはいられなかった。


あの1995年、何度もデッドボールを喰らいながらヒットを重ねていたイチローさんの姿は今も脳裏に焼き付いている。そして今年とてつもない位置までそのヒットの数は積み上った。プロ野球リーグ通算4257安打の世界記録の中には僕が初めて見た、1995年のあのヒットも含まれている。


僕の歌はどこから生えているのだろうか。おそらく根っこの根っこの部分。最も深い根源的な箇所は1995年から生えている。

そして、その中心にいてくれたのは、紛れもなくイチローさんだった。
 


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5月が終わっていく。

本当にあっという間だった。


制作とライブを休む事無く詰め込んだ結果、浦島太郎現象みたいになってしまった。「さっきまでゴールデンウィークとか言ってたのにもう30日かい!」がリアルに自分の口から出た。


今年の3月とかと比べると雲泥の差だ。

年明けはやけに長く感じた。ライブの本数だけでこんなにも違うとは。もっともっと誘って下さい。なるべく出る。



少し引いて見ると、常々こうありたいなぁと思う。


「多忙」とは少し違う気がするのだけど、ヒマじゃない状態は健全だ。「適切な負荷」みたいなものなのだろうか。

足を動かしていると、手を振っていると、声を出していると、常に現在地が分かるのだ。



今日も制作でレコーディングスタジオに入っていたのだけれど、これもまたそうだ。

これは僕の声だ。お客さんはいないけれど、地下でひたすら現在地を探している。



気がつくと、もう今月が来月に吸い込まれる音が聞こえる。


凄く大変だったけれど、いい月間だった。


来月もそうなればいい。
そうしようと思えばなる可能性が生まれる。思わなければそんなこと考えもしない。


来月はThis is QOOLANDがある。

この過密スケジュールの総決算だ。2,3ヶ月を「総決算」なんて仰々しく呼んで申し訳ない。

それでも、僕たちはこの2.3ヶ月本当に濃密な時間を過ごした。代官山のときの「総決算感」を超える。お楽しみに。


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kinotoでゲリラライブだった。
今月12本目。会えたひとたちありがとう。明日はスタジオへ。




人間、「居場所」というものがある。
僕は音楽の世界の中でも、何とも独特の場所にいる。

それでも「まだいてもいいよ」と言われていると思っているので、ギリギリ必死こいて居場所を陣取っている。


これまで「居場所が無い」や「居場所を失う」を繰り返して生きてきた。
でも失くなってしまった場所は、じつは最初から自分の居場所ではなかった場所なんだろう。


居場所が無い頃は、地図の中で現在地が分からないひとみたいになっていた。
自分の位置が分からないから、どっちに進むこともできなかった。


自分の現在地を知ることが一番大事だ。認識出来ているならばそこは、居場所になり得る。


「居場所の陣取り方」なんて、ググっても出てこない。
大事なことはいつも検索欄の外にある。

どうやったら見つかるのだろうか。


僕の場合、今現在の自分にとって、ほんのちょっとだけハードルの高い勝負を繰り返してきた。
ほんの少しの、他人から見たらすずめの涙ほどであろう無理を重ね続けた。

「少しの無理」をすると、自分が存在してもいい座標軸が見えてきた。


この座標軸はやけにシビアで、「X軸ならいられるけどY軸はどんなに頑張っても無理!」というデッドポイントだらけだ。あっちで弾かれ、こっちで弾かれだ。

それでも、なんとか両足がつく場所がある。それは「XがここでYがここかよ!」と声に出そうな、変な場所だったりする。右足と左手でかろうじて立つような座標軸だ。

でもその場所に立てるのは、世界で自分しかいなかったりする。


「少しの無理」でいずれは自分の居場所、自分の座標軸が見つかるんじゃないだろうか。

いられるところと、いられないところの差が表面化するからだ。

その居場所は紛れもなく現在地でもある。
「自分が立てる場所」は、「自分が立っている場所」だ。

後は北にも南にも進める。
自分の位置が分かったら、進んでいける。どこに行ってもいい、北でも南でもいい

どちらにせよ進んだ先に危険は無い。危険はいつも立ち止まった直後にやってくる。後ろから後頭部を硬いもので殴ってくる。

進めばなんとかなる。足を動かすこと、何かしらもがくのが最大の安全策だ。


だから、「少しの無理」がいる。

「無理しているかなぁ俺?」とたまに思う。あなたは思わないだろうか?

「まだもう少し負荷かけられる!」なんて思う日もあるし、「もう限界」みたいな夜も腐るほどある。

矛盾を抱えながらムーンウォークで進むしかない。




関係無い話。
音楽CDには「原盤権」というものがある。

僕も詳しくないけれど、「そのCDを好き勝手にしても良い権利」みたいなものだ。来月末『教室、千切る.EP』の権利がロッキンから返ってきてフリーになる。

フリー素材になるということだ。売れば売れるだろうし、インターネットに無料で流してもいい。
同人作品を作ってもいいし、誰かが録り直して自分のものにしてもいい。


映像とかで遊べるクリエイターさんやらと遊びたいなぁと思っている。
せっかく、使える素材があるのだから遊びたい。曲が遠くに届くような何かができたらなぁと思う。

なんか一緒に遊ぼうという人がいたらご連絡あれ。qooland.staff@gmail.comまで。

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