月別アーカイブ / 2016年07月

また公共の場所に注意喚起が増えた気がする。
駅や公園、食品やライブハウスの楽屋。何から何まで過保護に注意書きが書かれていて、
もはや適度という域を完全に超えている。
「気をつけろ」も与えすぎると変に甘えた人が量産される。自己責任で生きていきたい。


どこにいても「気をつけろ」が多い。

個人差があるかもしれないけど多いと思う。
「アブナイ!もっと増やせ!」と思っている人もいるかもしれない。
 
でもホントに注意書き、多くないかな。どうだろう。


駅には歩きスマホ禁止。と書いているし、
公園にはボール遊び禁止、大声禁止、自転車乗り入れ禁止。
楽屋にも貴重品の管理の注意。 


僕らが危ない目に合わないように注意してくれてるのは分かる。

それにしてもちょっと注意多すぎじゃないかとも思う。

公園の画像を貼り付けよう。




僕がもしこの公園で遊ぶ子どもだったら
「もう、むしろやっていいことだけ書いてくんない?」と思う。


これだけの量の「気をつけろ」を浴びると、無意識に責任感がおかしなバランスにならないだろうか。
自己責任感を育む大切さよりも、浴びる注意の質と量に論点がいきそうだ。

「もっと分かりやすく注意しろ!」とか「もっといっぱい注意しろ!」ばかりで、
「自分で気をつけよう」が鍛えられる気がしない。


子どもの時、やって良いことと悪いことを色んな場所で学んできた。
あれらを学ぶにはある程度、自問自答し、思考するあたまのスキマが必要だったんじゃないかな。


僕の場合は「これやったらおもろない!?でもやってええかな?アカンかな?」と自問自答してきた。
そしてあれはたぶん必要なカリキュラムだったんだと思う。


自分で考えてるうちにルールや安全の中で、何かを創ったり、倫理観を整えられるようになった。
それを守ったり破ったりして、時に失敗して学んできた。


だけどこれだけの量の「やんなよ!」があれば、もはや自問自答などする必要がない。
完全にこれら注意書きに依存してしまえばいい。

失敗したら「この注意書きに書いてなかったから」と言えばいい。
この看板にはそれぐらいの全知全能感がある。


しかしこれが続くと他のことでも、失敗した時に
「だって誰も注意してくれなかったんだもん!」というロジックを持つ大人にならないものだろうか。

もっといえば、人生の勝負を仕掛けるタイミングで、
責任感の無い斬れ味の鈍った人間にならないだろうか。



子どもと同じく、大人にも生活の中でやって良いことと悪いことがある。
大人の場合、「法やルールを破らなければOK!」というわけじゃない。
もっとシビアだ。逆に安全を犠牲にしてでも進まなきゃいけないケースもある。




たとえば会社の飲み会の帰り道。
同僚の女の子が飲み過ぎでブッ倒れそうだ。
どうやら昨日彼氏にひどいフラれ方をしたらしい。
凄い飲み方してたもんな。完全にヤケ酒だ。
ちょっとかわいそうだ、うわ酒くせ。



しかしどうやらあなただけが
帰り道が一緒らしい。

送ってやるか、どっかで寝かせるか・・・と思ったらうわこいつ泣きだした!吐きそうとか言ってる。
嫌だなぁ。
 
どうしよ、帰り道一緒ならタクシー呼んで送って帰るか、朝までグチに付き合ってやるか。
あぁでも会社の同僚の面倒をそんな時間まで見てるなんて、彼女に誤解されるかも。
誤解されたら嫌だなぁ。

というシーンがあったとする。


その時に「僕は彼女いるんでおつかれさん!グッナイ!」

と酔っ払って泣く同僚を路上に見捨てて帰るのは、やはり違うと思う。


もちろんこの同僚女子がシラフでしっかりしてれば全然帰っていいだろう。
しかし、ほとんど急アル候補生だ。危ない。一応かわいそうな事情もある。


もちろんあなたはその同僚の面倒を見る義務も無いし、法も違反していない。

このやらなくても罰せられないけど、自分の倫理観に基づいて、やること。
これが「自主的な責任感」ってものだと思う。

やはりこういう時は、面倒見る人でいたい。彼女には後で説明すればいい。
あなたの彼女が素敵な人ならそれをとがめたりはしない(たぶん)。



僕の場合でたとえてみる。
QOOLANDもバンド活動の中で色んな勝負の仕掛け方をしてきた。

ステージや制作、すべてにわたって、自分たちらしいやり方であなたの心を動かしたいと思っている。

でも何かしら新しいことを仕掛けるときは不安もある。
それでも出来ると信じて勝負をかけている。 もちろん結果、失敗もある(結構多い)。

それでも「失敗したらコワイから何もしない」というのはイヤだ。
行きたい方向に進むには、勇気がいるときもある。
 
なるべく僕は「勝負をしている」という血の通った活動をしていたい。
誰に指示されるでもなく、自分個人でそう思っている。 


こう書くと妙に立派に聞こえるかもしれないが、そんなことはない。
逆に考えてみてほしい。


「ステージや制作、すべてにわたって、適当にノロノロやる。
賛否あることにはなるべく手を出さない。曲もまわりと似せとこう。怒られたくないし。
新しいことを思いついても失敗するリスクがあるから別にやらないヨ。たぶん無理だし。
目付けられたくないし。とりあえず無難にやりすごしていこう」


そして「なんで何もやらないの?」と聞かれたときに 


「だって誰もやれって言わなかったんだもん!」

という伝家の宝刀を持ち出すのだ。結構ヤバい。ダサイ。

やはりダサくはなりたくない。


もちろん良い活動をやらなくても法に裁かれることはない。捕まることもない。
これも自主的な責任感に当てはまると思う。


自分のために自分らしくいたい。
公園の注意書きに場合「ダサくなるな」とは決して書かれていない。

国や役所や学校も「ダサくなるな」という注意通達はしてこない。
誰かに決めてもらうことよりも、自分で決めたことの方が大事なこともあるなぁとつくづく思う。


「そんなこと言って公園で事故が起きたらどうすんのよー!」と言われたらグウの音も出ないのだが、
そう言われても、注意書きを増やして事故を防ぐってやり方が、やはりしっくり来ない。
 
Abstract05



「注意過多」にしっくり来ない理由が二つある。

一つは前述の

「だって誰もやれって言わなかったんだもん!」

という考え方を量産していきそうで、イヤだ。
 
人から主体性が無くなり、当事者意識が
低くなって、良いことは何も無いと思っている。



もう一つが文化の香りが落ちることだ。


テレビをつまらなくしたのは苦情だし、マンガが不自由になったのも苦情によるものはでかい。

寄せられる苦情は作品を不自由にしたが、何を手に入れたんだろう。


もしもこの先グランドキャニオンが手すりだらけになったら
安全の代償に大自然の景観を損なうだろうし、
もしもすべてのライブハウスが全席指定のシートベルトで固定される日が来たら
消滅する音楽があるし、
もしも太宰や三島の小説に※危険ですので絶対に真似しないで下さいと書かれていたら、
流れたはずの涙は流れなかった。


注意書きや規制が優先されて、文化の香りが落ちるのは悲しい。

不要なわけじゃないけど、過度なクレーム対策や心配性は文化にとって、時にきゅうくつになる。

あまりに対策が目に入ると「人のためよりも、苦情やクレーム対策の意味合いが強いんじゃ」と感じる時もある。



話題沸騰の歩きスマホゲームポケモンGO。
まさしく近代技術の結晶を宿した新たな文化だ。
果たしてこれから、この注意大国をどう泳いでいくんだろう。
関係無いけど関心は凄くある。

「僕の場合これで上手くいった」を呟いてるけど
「僕の場合」というだけで万能じゃない。
歌のお悩みが来た。
「僕の場合」が有る。
「僕の場合」が誰かの役に立ったら嬉しい。せっかくだ。公開したい。
でも、したら「僕の場合」はTL全員に処方される。webを服用するかしないかは自己責任で怖い。



とてもまどろっこしい言い方で140文字の限界を感じる。



僕らは望む望まないに関わらずインターネットというツールを使って生きている。 

その中にSNSという自分の考えを発信できるプラットフォームが誕生した。

以前はそんなことはできなかった。
テレビ雑誌などのマスメディアの力を借りなければ、
多くの人に個人の考えを伝えるという行動は起こせなかった。

それが可能になったし、ひいては個人の創造力で大きな力に立ち向かうことまでできるようになった。  

フリーランスのデザイナーや、ノマドワーカー、ユーチューバーのような生き方を選ぶ人が出てきた。

自己責任の旗のもとに自由を手にする人々は彼らの大地を耕しだした。



僕もせっかく自分のプラットフォームがあるのだから、
「僕の場合はこうやったよ」というやり方や考え方を書くことが誰かのために、
なるんじゃないかと思って始めた。

自分が誰かにとって影響を与えられるのはやはり嬉しい。



オマケにこれが思っていたよりも、僕自身にとって良いものだった。

自分が本や旅や音楽や出会いや仕事や経験や指導やらから得たスピリッツがいくつもある。

そしてその中でも良い結果が出た事柄を、噛み砕いて、人に伝えようとすると僕自身もより深く、 改めてそれらを理解できることに気付いた。


しかし伝えようとすればするほど、難しい。
 
『自分が人に伝えられること』は自分なりに体得したものだけになるなぁと思った。

逆に言えば人に伝えられないことは、インプットはしたけど、 まだアウトプットは出来ないレベルの技術とも言える。

pic765



カタカナで書くと「インプットしたものを自分というインターフェイスを通してアウトプットする」 

という行為。なんかうっとおしい。

漢字で書くと「得たものを自分の中で消化し、人に伝える」という行為だ。


誤解をできるだけ軽減して、自分の言葉で人に伝わるように伝えることは
とてもクリエイティブだし、ドーパミンがやたらと出る。 瞳孔とかも開く。


そして僕の道程に、良い成果をもたらしたやり口がいくつかある。

ただ注意したいのは「僕の場合は」というだけで、全世界のあらゆる人々、シーンに 通じる考え方や、やり口ではないということ。

ていうかよっぽどじゃない限り万能な手法なんて無い。 

誰かにとって素晴らしい手法が、誰かにとっては害悪となるケースも沢山ある。


そんなことを思っている時に一件のDMが来た。

詳細は省くが
「カラオケで歌を歌うと数曲で喉が枯れてしまう。長く楽しく歌える方法はアリマセンカ?」
このような内容だった。
 

僕は一日に沢山歌を歌うし、ステージでも日によっては20曲以上歌を歌うことがある。 

これは生まれつき強靭な体力を持ち合わせているとかではなくて、
「僕の場合」のやり方がいくつもあるから可能になる。


この歌における「僕の場合」がDMをくれた人だけではなく、もっと多くの人にも役立つんじゃないかなと思った。


そこで僕自身が「枯れやすい」という同じような悩みを抱えていたときに、解決に向かった「僕の場合」を公開した。


だが、この歌に関する「僕の場合」も前述のとおり万能じゃない。


人によって声帯の状態や体調、歌における症状は違う。
人によっては枯れない解消法が、悪い方向に向かう恐れもある。

僕のアドバイスは歌の「支え」という技術がゼロの人に向けて書いた。
この「支え」が無いと枯れやすくなる。 

基本的に歌を歌うという運動は筋肉のバランスによって決まる。 

つまり「支え過ぎ」の症状が出てる人にとっては僕のツイートは悪になる。

「カラオケで声がすぐに枯れる」という症状を引き起こしている原因はいくつかある。 

そこから推測して、僕が思っている原因の患者さんなら改善するであろうやり方をツイートした。


そうは言ってもインターネットの大海原に処方すると、多くの人がその処方箋に触れることになる。 

「支え過ぎ」の人も読んでしまう可能性はある。こういうのは少し怖いなぁと思う。


「体調悪い人はコレ効くで!」という情報だけに触れて、「俺体調悪い!」と思っている腰痛の人が、抗がん剤を服用してもまったく良くならない。ていうかマズイ。
 

適切な処方が欲しいなら病院に行って、ちゃんと自分のために診断してもらって、
自分のために処方された薬を飲むことだ。


歌の症状でとても困っている人なら、専属のボイストレーナーに教わるのが一番良い。


ということを踏まえても、やはり「僕の場合はこうやった」を発信していくことはやっていたい。 

もしどこかで「僕の場合」が「誰かの場合」になって活躍したら、とても嬉しいからだ。


「誰かの迷惑になるんじゃないかな」で黙っているよりも
「誰かのためになるんじゃないかな」が上回って、
色んなことが、くるくる回っていくといいなぁと思う。

昼はスタジオに入って練習をしていた。
今日から8月4日まで、毎日四人で交代でツイキャスをする。
ツイキャスだからこそできることも沢山ある。ぜひお楽しみに。



行きたい場所やありたい形の話だった。やりたいことが見つからない人はいる。

でも「こんな風にありたいな」は結構あると思う。
『ありたい形、やりたいこと』と実際の行動がかけ離れてると不幸だ。
「本当はこんな事したくないけど仕方ないから」を積み上げすぎると崩せなくなる。
人生は短くて忙しい。

今日は三日前のツイートを使って書いてみる。



僕たちの中には大なり小なり「理想の自分」と「現実の自分」がいる。
ていうか、「いるよな!」って話をしていた。
ここで書いた「理想の自分」は憧れや、その人の目指しているあり方と言い換えてもいい。


「スポーツがうまくなりたい」「明るい人気者になりたい」「学年テストでトップ10に入りたい」
そんな「こんな風にありたいな」をみんなが抱えて生きている。

夢や目標!といった大きな話じゃなくても、みんなの心の中にある
ちょっとした「こんな風にありたいな」でも同じだ。

「笑顔で悩み無く、過ごしたい」「みんなと仲良くしたい」といったあり方も
「理想の自分」と言えると思う。


ここでの「理想」は、「いつまでも寝ていたい」「好きな物を好きなだけ飲み食いしたい」
「100おくまんえん欲しい」といった種類のものとは違う。端的な欲望や、お金とかではないということ。


たまに就活の面接とかでも聞かれる「尊敬する人物」というものがある。

イチローさん、ボス(YAZAWA)、椎名林檎さん、ミスターアインシュタイン、
坂本龍馬先輩、ご両親...etc。

現代のヒーローから歴史上の偉人や、身近な先輩などが挙がる。

そんな心の師匠たちはたしかにお金持ちだったり、
端的な欲望を叶えようと思ったらできるケースが多い。

だけど僕らがその人たちを尊敬しているのはそういう理由ではない。
その人の生き方が魅力的だと思っているからだし、自分もそんな風にありたいからだ。

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僕はQOOLANDというロックバンドをやっている。

これがどういうことかと言うと、「僕はQOOLANDという集団にいて、
そこに人生の貴重な時間を使っている」と言い換えられる。

大仰に聞こえるかもしれないが、まぁそういうことだ。


QOOLANDという集団で、行きたい場所やありたい姿がある。
僕なりの「理想の姿」がある。

この「理想の姿」と現実の行動があまりにかけ離れていると、不幸だし苦しい。
だから少しでも自分のありたい姿に近づくために、色んなことをやっている。

人によっては「努力」と呼ぶ人もいるかもしれない。
たしかに表面だけ見ると「やりたくないなぁ」と思うことが無いわけでもない。


何もせず、家で寝ているだけの方がカロリーも使わないし、ストレスも無い。楽に決まっている。
楽ではあるけど、理想とはほど遠い自分の姿に、きっと僕は吐き気がする。


僕も色んなことを怠けてしまうこと、サボってしまうこと、逃げてしまうことが沢山ある。
でも僕の中の「理想の自分」はずいぶんと立派なやつで、楽ばかりしていなかったりする。

だから現実の行動が「理想の自分」に重なった時はテンションがブチ上がる。


人間、出来ることしか出来ないんだけど、
理想の自分はやっちゃってるなら、たぶん出来ることなんだと思う。


「ホンマはこんなことやりたないねんけど、しゃあないからやってんねん。
ホンマの俺はこんなやつちゃうねん」が何日も続くようだったら、
ちょっとだけ気合いを入れて、自分を変えるタイミングなのかもしれない。 
 

【理想と現実】って世の中のことのイメージあるけど、魂の話でもあるなぁと思った。

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