人生の大切な瞬間に限って、僕たちに選択肢は無い。
悲しいようにも聞こえるけど、だから生きられるのかなぁとも最近思う。


新宿駅や渋谷のスクランブル交差点。テレビに映る「日本の中心」だ。都内在住の僕はここに日常的に訪れている。

僕はここを読みに来てくれているほとんどのひとが都内に住んでいないんじゃないかと思っている。勘だけど、当たっている気もする。

当たり前だけど、地方人の方が多い。東京にひとが多いのは事実だが全体の一部ではある。そして、田舎育ちのひとはわりとその一部になりたがる。

僕の人生にも「東京」は交差した。この生活は長い人生の一部かもしれないし、大半かもしれない。

全体像を見ないと、つまり終わってみないと死んでみないと割合は分からない。後から「嗚呼、東京にいたのなんてちょっとだったなぁ」なんて思うのかもしれない。

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上京という道を自分で選んだ気もしているが、俯瞰的に改めて考えると「たくさんの道の中から選んだ」とは言い難い。あの時の僕には他に選択肢も無かったのだ。

音楽を始めたのも同様だ。他に手段が無かったからだ。おそらく思春期に何の問題の子どもであれば、楽器なんて触らなかった。

たぶんいろいろなことは「選んだ」けど、選択肢は他に無かったというのが本当のところだ。


さまざまなアレコレを思い返して、人生には選択肢が少なかったと感じた。


後ろには決して戻れないけれど、前だけを向いていたら、忘れてしまったであろう思い出がいくつかある。そしてそれらがイマの自分を作っているのも事実だ。


重要なときに限って、僕たちに選択肢は無い。だけどそれはそんなに不幸な話でもない。
「なるようにしかならない」っていうのは、「なるようにならばなる」ってことだ。

それを不満でいっぱいにしていたら、何も見えなくなる。不満足と照らし合わさないと「向上心」という概念を携えられないわけじゃない。

満足しながら良くなることはできる。むしろ最近は満足していないと良くならないんじゃないかとすら思う。


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「文章はテレパシーである」はスティーブン・キングの言葉だ。



文章は伝達手段としては不自由かつ抽象的だ。


誕生したときは「遠方のひとに情報を伝達できるツール」として革命を起こしたが、その後も人類の伝達手段は進化を遂げてしまった。



カウンターツールである写真や映像は圧倒的に詳細を伝えられる。


「百聞は一見にしかず」と言うが、写真や映像は、文字通り「一見」を受け手に示すことができる。


あるがままを映し出す写真、映像は質、速さ、ともに文章より優れていると言えるだろう。



文章は手間がかかる上に受け手と「読み書き」の互換性を合わせる手間もある。


さらに相手の読解力次第では、間違って伝わってしまうリスクもある。


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だが、文章には、文章にしかないパワーがある。


そのパワーとは、「一見」以上のものを、受け手に伝えられる訴求力だ。


心のこもった文章は、「伝達」というレベルを超え、読み手を「共感」に導く。書き手の気持ちを、読み手に、そっくりそのまま届けられるのだ。



言うなれば、他の伝達手段にはない「深さ」がある。


「書籍」は、その最たるものだろう。「書籍」ほど深くて、時間のかかる伝達手段は無い。

深い場所には、読み手自身で潜ってもらわないと光があたらない。潜るには、時間がかかる。




「一人で、じっくりと文字を追い、たまに物思いに耽る」


読み手にそんな時間を作ってもらわないと、書き手の声は伝わらない。

書籍一冊を読み切る時間があれば、YouTubeの動画を何本見られるだろうか。



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だが、読みきれば、一人でしか噛み締められない感動が手に入る。心がじんわりと浸る海のような感動だ。

一人でしか味わえない感動は、尊い。本は人生さえ変えてくれる。


10年ぶりの帰省で感じたノスタルジー、ビル群から覗く夕焼けの終末感、夏が終わった瞬間のにおいの消失感。



味わうのは「言葉にならない」感覚ばかりだ。この感覚が美しく表現された書籍は書店に無数に並んでいる。僕はそれらに、強くインスパイアされてきた。

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太宰や芥川、安吾と、僕たちが生きる時代は、まるで違う。

だけど彼らが感じた苦しみや痛みは活字を通して、突き刺さってくる。


文章の力は、凄まじい。


読み手と書き手がまったく違う時間を生きているのに書き手のメッセージがザラザラと味わえる。書き手の感情を、読み手が時間差で、みずみずしく受信できる。



「心が伝わっていく」という点では、まさにテレパシーといえる。

テレパシーと違うのは、文章は書き手の心が良くも悪くも無意識ににじみ出るということだ。


「行間を読む」というのだろうか。

文章には文の底に溜まったものや言葉と言葉のあいだに挟まっているものがある。それは、書き手の心だ。



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いくら隠しても心はにじみでる。


怒っている人が書いた文章には怒りがにじみ、いばっている人が書いた文章は抑圧的になる。


書き手の心は隠せない。言語を超越して読み手に「なんとなく」伝わってしまう。



人類は、「伝えるため」に「読み書き」を発明した。


長い歴史に磨かれてきた、この伝達手段は、ときとして、僕たちの本質をあぶり出す。

文章を書く毎日の中で僕はより一層、「読み書き」について、考えるようになった。




「本質をあぶり出されてもいいように本気で書かないといけない」


そう思って書いている。行間の先に自分という人間が見えるからだ。



文章は写真や映像よりも読むのにエネルギーを使う。時間もかかる。オマケに読んでも読まなくてもかまわないのだ。


それを、あえて読んでくれている人がいる。


ならば少しでも面白くしたいし、「読んでよかった」と着地できるものにしたい。熱を持って伝えたい。



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メールにTwitter。ブログや匿名掲示板。サイバーテクノロジーが進化しても、僕たちは「読み書き」から解放されていない。



どれだけ、小型化や高速化が進んでも、「書いて伝える」「読んで伝える」という、本質は変わらない。



それほど大切な技術なのに、僕たちは「文章の書き方」をほとんど学校で教わらない。おかしな話だ。


句読点や「てにをは」のような文章作法は習うかもしれない。


だが、「書く」習慣を身につける授業は無かったし、英文の暗記や数学の公式を解く感覚で、「文章の勉強」をした記憶も無い。



思考力や解決力、読解力は、書くことで養われる。


考える力や、問題を乗り越える力、人の言葉を読み取る能力は、生きていくうえで、大切な武器になる。



書くことで、自分の考えを具現化できる。書くことで、問題をロジカルに捕らえられる。


問題を書き出せば、問題の段階や、突破口も見えてくる。


「なんかよく分からないけど、ヤバイし、たぶんムリ」という抽象的な状態を文章化すると正確に近づける。


そして、書いていく中で言葉や脈絡の力学を理解していき、読む力が培われる。



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何よりも、大切な、「自分の考えを伝える」という力がつく。「自分の考えを伝える」ことができないと食い物にされる。




国語以外のすべての科目も、すべて日本語で書かれている。文章力を鍛えると、すべての成績が上がるとい研究結果もある。


商品を自分で作って誰もが「買ってみたい」というキャッチコピーが書ければ会社の経営をまわせる。


メリットを伝えられる企画書、稟議書を書ければ、やりたい仕事ができる。


愛を伝えられる手紙が書ければ愛する人を喜ばすこともできる。


歌詞を書けるようになれば、たくさんの人に想いを伝えられる。




僕たちは「書く」ことで情勢を変えられる。毎日文章を書く暮らしももう長い。自分の心の声が、よく聴こえる毎日は、悪くない。


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神戸。我が地元にて5日連続ライブ終了。

こんなに家に帰らないスケジュールはあまりやってきていない。今まででも1.2度しかなかったように思う。

それをイマまさにやっているが、意外とキツくない。想定の範囲内というか、楽でもないが体調も特に崩れない。


筋肉は傷付けたり負荷をかけて、回復すると強くなるが、じつは心もそうだ。

もちろん必要なケアをしないでいると傷んでいく一方だが、しっかりやれば身体も心も強くなる。

何事も負荷と修復を繰り返すと心の繊維はキッチリ肥大化する。

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4日前、名古屋の日、交通事情で到着が遅れた。

QOOLANDは16時出番で16時にライブハウスに着いた。

ウォームアップも何もなく、車から降りて即ステージが始まった。そんなことをするのは初めてだった。


普段は、楽屋でけっこうなウォームアップをしている。準備が本番を作ると信じている?
ウエイトトレーニングやシャドー、スケールの発声とネブライザーなんかをこなす。

最近は砂嵐を聞いていないが前は1/f揺らぎ音として砂嵐を聞いたりもしていた。
規則的な無機質音を聴くと右脳のパフォーマンスが上がり、集中力や記憶力が増したり言葉がスラスラ出てきたりする効果がある。


イマはけっこうバテバテになるぐらいアップをしている。ドーパミン、ノルアドレナリン、セロトニンの分泌レベルを上げてからステージへ行くようにしている。

30分しか無い持ち時間で1曲目からブチ上げるには、1曲目を8曲目ぐらいのテンションにしないと話にならないからだ。

「身体が温まった頃にはもう終わりかけ」というライブなんか演りたくないし観たくないだろう。


だから名古屋の日はヤバかった。それら頼みの綱であるウォームアップ無しだ。
ロングドライブの後だったが、ステージに直行した。

ステージスタッフの方も「着いてすぐは演れないですよね?」と言っていた。
だが「演れます」と答えた。というより演るしかなかった。
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いやはや不思議と演れた。

延々とライブをしていると、細胞ひとつひとつに染み込んでいる栄養素があるみたいだ。

拍手だったり、リズムだったり、展開だったり、自信だったり、経験則による予測だったり、勘だったり。これらは練習では決して培えない部分だ。

名古屋の日はコレら細胞がフル稼働した。一曲目の最中、「嗚呼、演れる」と思った。


もちろん緊急的な身体のセンサーが働いたのだろう。
「やるしかないんだ。たとえ間違ったとしても」でいくしかなかったから、必死だったのもある。

しかし3月からの「気色悪いぐらいに精力的な活動」による進化を体感したスペシャルな出来事だった。確実に「進化」という対価を得ていた。

おかしなカタチで進化を感じるものだ。なんだか不思議な気分になる。

「過去に一生懸命やっていたこと」が違うカタチで成仏した。
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ひとは何か筋を一本通して生きてれば、想定外やトラブルにも耐えられるようになっていくらしい。

「叶う叶わぬよりも夢を持っていることが大事」という言葉がある。努力の対価は成功ではなく成長だということだ。

筋を通していきたい。自分史上最強を更新していきたい。さらにいい風景を見せていきたい。

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ツアー6本目。京都だ。京都来すぎだ。二条グローリー愛してる。


人間何かを手に入れるまでは一生懸命やる。問題は手に入れると初回プレミアで付いてくる「油断」と「傲慢」だ。
「ポイントは油断と傲慢とどう付き合っていくかだ」と先輩が言っていた。


しかし手に入れたのにその初回プレミアを持っていないひとがたまにいる。とてつもない素質の持ち主だと思う。
なぜならほとんどのやつは油断してしまうし、威張ってしまうからだ。そしてミスる。

幸い僕には未だ大した「手に入れた感」が無い。

というより「すべてのものが絶対にいつか失くなる」と心の底から思っているので、「手にした」と思えないのだ。もっと言えば「手に入れる」という現象はほぼほぼ無いと考えている。

唯一「手に入れた」と呼べるものは自分の身体に刻みこんだものだけだ。

それ以外のものは「与えてもらっている状態」 なのだ。それが現在進行形で続いているに過ぎない。

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これは謙虚とか奥ゆかしいとかいうレベルではなくて、「何も手にしていない」は真実だ。それぐらい所有権というのは泡沫のように儚い。

僕も体感したいもの、見てみたいものというのは有るのだが「手に入れたいもの」という観点だと年々ピンと来なくなっている。
「手中に収める」なんてものは錯覚だからだ。

だけど、この感覚は足を進めていく上でアドバンテージになるのだと思っている。

「貧すれば鈍する」と言うが、「貧する」というのは「足らない」という意識から結びつくことが多い。


「満足したらそこで成長が止まるぞ!」とむかし監督に言われたが、果たしてそうだろうか。

たしかに監督はいつも不満げだったが、別に1ミリも成長しているようには見えなかった。


肌感だが「足るを知る」で生きている方がいい。
いろんなことを覚えていけているように思う。


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姫路終了。姫路に来たのは初めて。呼んでくれてありがとう。関西に住んでいたときもほとんど来たことの無い街だ。

そう、僕は大阪の歓楽街で暮らしていた。

あの頃はひたすら下北沢に憧れていた。今日はそのときの話。

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いわゆる「シモキタ」が放つ魅力は凄まじかった。

夢を持つ仲間が集う場所、夢を信じられる場所、新しい何かが生まれる場所。そんな典型的なイメージが頭の中に広がっていた。

まだ見たことの無い下北沢は、夢を目指す結晶のように思えた。


「いつか上京して下北沢でバンドをやる」

そんな情景に胸は膨らんだ。というよりそれ自体が夢だった。夢を追いかけることを夢見ていた。だけど夢が無いとひとは生きていけない。

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「アジカンも出たことがあるらしい」

「ラーメンズもやっていたらしい」

「たまにバンプが来るらしい」


先輩バンドが興奮気味に話す、下北沢の話が大好きだった。


「らしい」の域を超えない話に、僕はいつも胸踊っていた。憧れは日に日に強くなった。

僕は2010年、ついに上京した。

下北沢のリハーサルスタジオで練習し、下北沢のライブハウスに出演する日々が続いた。夢は叶った。

しかし憧れていた日常は甘くなかった。
ライブハウスに出続けていてもファンはなかなか増えなかった。
さらに東京で出会う音楽仲間たちとは、あまり話が合わなかった。彼らの輪にうまく入れなかった。

だんだん音楽自体も面白いのか面白くないのか分からなくなった。
お客さんを増やすために歌っているわけではないのに、なぜか目的はそれだけになっていた。だけど、それは叶わなかった。

しばらくダラダラと活動を続けた。叶わないけど叶えないといけないノルマのような感触だった。時間だけが過ぎた。


ひたすら寿命をすり減らしているような毎日が続いた。呼吸はしているけど、生きている気がしなかった。アルバイトばかりしていた。予定調和のライブを繰り返し、やる気の無い練習を繰り返した。


リハーサルスタジオでの練習は当然自腹だった。お客さんのいないバンドは常に赤字運営だった。
アルバイト一時間で稼いだ千円札はドブに捨てられるみたいに、スタジオのレジに吸い込まれた。 


富士山は遠くから見ると美しいが、実際に登ってみるとゴミだらけだ。

強すぎた下北沢への憧れは僕を苦しめた。僕は少しずつ下北沢という街を嫌いになっていった。

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上京して一年ほど経ったころだろうか。今はもう無い下北沢の北口の階段で、僕たちのバンドは解散した。
 

「一緒にやる必要が無い」



階段に座り、結論は吐き出された。
憧れていた下北沢で、僕の夢は完全に終わった。


僕はその後、QOOLANDというバンドを作ることになる。話が滑り出した場所は下北沢だった。


毎週、下北沢で練習を重ねた。

フルアルバムを丸ごと無料配信し、イベントの誘いはほとんどすべて出演した。やれることを全部やった。段ボールのケースでCDを売り、自作でDVDを作った。高速バスでツアーをして、車を人に借りた。



最初の1年で100本近くライブをやった。「何かを残そう」とひたすらあがいていた。

何かを残さないと死んでも死にきれなかった。効率も恥も外聞も捨てていた。身体と心をすり減らしたら何かが返ってくると妄信していた。

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お客さんは少しずつ増えはじめた。
次の年の夏、オーディションコンテストに優勝した。


その知らせを聞いたときも、僕たちは下北沢にいた。コンビニでビールを買って、道ばたで乾杯した。やってきたことが認められたと思った。

この街で苦しんだことも報われた気がした。嬉しかった。


ふと空を見上げると、すっかり暗くなっていた。それでも街には人の気配がした。まるで品川や新橋とは時差があるみたいだった。

何も始まっていなかった。でも何かが始まりそうな気がした。


ずっと「夢を持つ仲間が集う場所、夢を信じられる場所、新しい何かが生まれる場所」である下北沢に憧れていた。

上京したばかりのときは、現実を知った。その現実は圧倒的に枯れていて、憧れは幻想だと突きつけられた。

大阪から僕が夢見ていた下北沢は、存在していなかった。


しかし気付いたら、集った仲間と夢を信じ、新しい何かを生み出そうとしていた。僕はようやく下北沢にたどり着いた気がした。

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灼熱五連続ライブ中の新潟終了。姫路へ行く。焼き尽くす。


身体や心に悪いものなんていっぱいある。できれば少なくしていきたい。良い物を増やしていたい。理屈ではそうだ。

でもなかなかうまくいかなかったりする。

芸能人は不倫を連打しているし、それを暴くことを連打する仕事もある。
クスリは無くならないし、酒で馬鹿をやるひとも有史以来耐えない。
 
でも正解なんてみんな知っているのだ。
PTAや先生は「これが正解だ!」だと声高に叫ぶが、間違いを犯す人たちも正解を知らないわけではないということを。


知ってるけどできない。分かっているけどやめられない。死にたいのに死ねない。っていうのが現実だし、人間なのかとも思う。

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生きているといろいろある。この世界は「大っぴらに言えないこと」で構成されている。

むかし、旅先で出逢ったひとと「イマまであったあんまりひとに大っぴらに言えないこと」縛りの雑談をしたことがある。

鬼ほど盛り上がった。「イケないこと」は知らないひととでも絆を結べる不思議な力がある。

自慢話なんかより「言えないこと」の方が話したとき物語になる。聞きたいのは事実よりも物語だ。

事実を事実としてしか話せないのはつまらない。不幸話をただの不幸な話としてしか話せないのでは、登場人物たちも浮かばれない。


しつこいようだが、今日も世界は変わらずに「大っぴらに言えないこと」で回っている。

そんなことねえよ! というひともいるかと思う。でもそんな鋼鉄の感受性を持ったひとよりもきっとあなたの方が面白い。

 
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スティーブ・ジョブズの「点を繋ぐ」という話がある。

ジョブズは大学で学んだデザインの知識を10年後にマッキントッシュに注ぎ込んだ。だが天才と言えど、「このデザインの勉強がパーソナルコンピュータを作るのに後々役立つだろう」なんて分かるわけがない。


つまり「昔学んだことが後々役に立つよー」って話だ。なおかつ「学んだことがいつ役に立つかは分からん」という話でもある。


こういう考え方は他の思想家にもよくよく見られる。

フランスの文化人類学者にストロースというおっさんがいる。このおっさんは「ブリコラージュ」という概念を唱えている。
「とりあえずイマ手の中にあるもの、そのあたりに存在するものを使って、何かしらを作る」という考えだ。

「大切なのは事前に何が必要かを想定しないことだ」とおっさんは言う。

そうなのだ。「いつ役に立つか分かんねーこと」が未来の自分を救ったりする。

「イマやりたいこと、イマの長所」に夢中なひとがいる。
だけど、それを輝かすのはイマ目の前にある「つまんねーこと」だったりする。
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この記事を読んだあなたが何かしらを思うかもしれない。

「とりあえずイマ目の前にある面倒ごとを一生懸命やってみるか」と思うひとがいる可能性はゼロじゃない。
ヘタすりゃこの駄文があなたを悩ましている「イマやっているつまんねーこと」に意味を与えるヒントになるかもしれないわけだ。

そうなれば僕がむかし受けた授業は無駄じゃない。
ストロースの哲学やジョブズのスピーチをノートにとったあの日はここで成仏する。


「なんでもやってみる」、「いつ役に立つか分からんけどとりあえずやってみる」の破壊力はあなどれない。


『あしたを面白く』のジャケットを作った人間、『現実と非現実。』のリリックビデオを作った人間、いつも写真を撮っている人間、Twitterにあげている動画を撮った人間は同一人物だ。全部が専門なわけではない。だが「やってみる」を連打しているのだ。


将来を見据えて点と点を繋げることはできない。ジョブズも大学生のときにマッキントッシュの誕生を見据えていたわけではない。

できるのは後から点と点を結ぶことだけだ。

予知能力を持たない僕たちは「どこかでこの伏線は回収される!」と信じてやるしかない。生きるしかないってそういうことだ。

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あしたから名古屋、新潟、姫路、京都、神戸の五連続。行程や移動のタフ具合がかつてない。気温差もあるので、鍛えてないと即死だ。

ここから寒くなって、また半年ぐらいは寒い時期が続く。じつは寒い時期の方が長い国だなぁと思う。10,11月はさほど寒くないはずなのだが、夏の後というコントラストのせいで寒く感じてしまう。

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久しぶりに新宿御苑(しんじゅくぎょえん)を歩くと、よりいっそう寒さを感じられた。

ふだんビルや人間の密度が高いと肌寒さにすら鈍感になる。

¥200円のコストパフォーマンスを考慮すると新宿御苑は最高のスポットだ。定期的に行ってしまう。新宿なのに一撃で人口密度を地方都市にできる。

ビル群や歌舞伎町には大陸系の外国人が多い。仕事や買い物なのだろう。うって変わって御苑にはアングロサクソン系ばかりだ。観光と日本の美を見ているのだろう。

「新宿も外国人が増えた」と言うが、一概にはまとめられない。黒人が多いエリアもあれば、イスラム系のひとばかりのエリアもある。
主語は小さくなるほど、物事に対して正確になる。

寒いと気圧も下がり気味だ。
テンションの下がっているひとも多いのかもしれない。ライブをやりまくっているので、来てもらえればいいものを見せれる。テンションを上げたい。
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「住んでみるごっこ」が好きで定期的にやっている。まったく別の暮らしをシミュレーションする遊びだ。


歌舞伎町には大勢、カプセルホテルに住んでいるひとがいる。
彼らが「カプセルホテルで暮らす」という選択肢を選んだ理由は僕には分からない。

保証人の関係なのか、特定の住所を持つのが嫌なのか、掃除もいらないし風呂も自由で楽だからなのか、指名手配でもされているのか。

それらに対するアンサーは永遠に出ない。
だが、僕たちと異なる価値観で「住まい」と向き合っているひとがこの世には一定数いるということだ。

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「住んでみるごっこ」は数年前から始まったクセだ。
そのひとたちに混じって、新宿のカプセルホテルに泊まる。
カプセル暮らしをしていると想定して、一晩過ごす。

もちろん用事は無い。自宅だって新宿の近所だ。ひとから見れば無駄な出費なのかもしれない。でもあえて泊まるのだ。ただし「もしここに住んでいたら」という体で泊まる。

この「住んでみるごっこ」はやってみると楽しい。不思議とストレスの溶ける音がする。

カプセル住まいは私物を持てない。掃除や風呂や洗濯のシステムは完備されていても、完全なパーソナルスペースは無い。

そうして本来の自分の住まいの有り難さにも気付く。反対にそこで暮らす人々もいるのだと肌感で分かる。「住めば都」だとも思う。一ヶ月もすれば慣れるのだろう。


この「住んでみるごっこ」にハマりすぎて年末年始はひどかった。衝動的に関西に突撃したりしていた。

そこの住民のつもりで、近くのスーパーに行ったり銭湯に行ったり古本屋で本を買ったりした。仮装的にだが、僕はいろんな場所に住んでみた。


馴染みの無いエリアで普通に過ごしてみて、住民になったつもりになると、本当にいろいろと気付く。右脳が全開に稼働する。

最初はキツイ日常を擬似的に手放せる逃避でしかなかった遊びだった。それも最近は前向きに捉えられるようになった。

もっと興味が沸いた場所もあった。特別興味が沸かなかった場所もあった。それらを重ねると自分が何が好きで、どんなものに心が動くのかが見えてくる。


ツアーが始まったのでいろんな街に行く。

せっかくなので、そこに住んでいるひとの気持ちになってみたい。そして空き時間に散歩なんかも楽しみたい。心のコスプレは心にいい。

 
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16歳ぐらいのときから「いつかこの生き方を後悔する日が来るのだろう」と思って生きてきた。

カッコつけて言えば、いわゆる「まわりに調子を合わせた生き方」をしていない。進路や何から何まで、多数派というよりは少数派でやってきた。

しかし「いつか後悔するだろう」の「いつか」は意外とやってこない。すべてに満足しているわけでもないが、「足るを知る」は座右の銘のひとつだし、なんだかんだ大きな後悔は無い。

「自分の人生はもっとこうあるべきであった」みたいな高い理想が無かったからかもしれない。
高い自己評価はいいことばかりではないとも思う。変にプライドが高いやつはしんどい。
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どう考えても人生は思ったとおりにはいかないし、なるようにしかならないなぁと感じる。ここんとこ夕暮れが赤すぎて余計にジワジワきてしまう。

「なるようにしかならねー」の話をすると「じゃあ何をしても無駄ってことか?」と解釈するひとがいるけど、もちろんそれではない。

「人事を尽くして天命を待つ」という言葉が適切なのだろう。本当によくできている。中国人は偉い。

「過程はコントロールできるけど、結果はコントロールできませんよ」ということだ。

「やるだけのことをやるといい。結果がどう出るかによって、やる量や頻度を変えるのは違う」というところだろうか。

たしかに「いい結果が出るかな?出ないかな?」と右往左往しながらやってもうまくいかない。不安にかられると大概ミスる。

みんな人事を尽くすために人間として生まれてきたし、人事を尽くすのは気持ちいい。10月もガッチリ尽くしていこう。

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