まだ何も学んでいないのか。死が近づいているのに。「隣りのひとの邪魔になる」とか考えるのはやめなさい。もし気に入らなかったらそのひとたちは文句を言えるのだから。
それでもし文句を言う勇気が無いのであればそれはそのひとたちの問題だ。


と書かれたスロベニアが舞台のブラジル小説をふと思い出した。毎日ずぶ濡れだからか。


いつもいつでもヒントになるのは歌や本だったりする。人生取り扱いの本質は聞きかじった成功体験よりもフィクションの中にあった。
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自分は自分で他人は他人だ。簡単なはずなのに、乖離できなくて苦しんだりもする。たぶん僕もあなたも。

だからまだまだ歌も要るし物語も要るのだ。

成人していても要るのだから不思議なものだ。
というより幼いときの方が無くても生きていけたのかもしれない。フィクションが無いと僕はもう生きていくことすらできない。

そして歌や話が要らない人間になったらたぶん作ることもないだろう。その驚異的なパワーを知っているから作るのだろう。


ほどよく不幸で絶好調というやつだ。極端に偏っていない状態はきっといい。そう思いたい。

白と黒、信者かアンチ、認知か否定、勝ちか負けか。そんな判断しかできないのは息苦しい。

想いはもっとグラデーションだし、矛盾してないと嘘くさい。そんな緩さを許容できないのも潔癖すぎる。それはそれで面白くない。

東北にいる。寒い。




先日にんにく注射というものを打った。1500円程度。

別ににんにくを血管に入れるわけではないらしい。ビタミンB1を入れるだけだそう。知らなかった。


時が止まるなんてことはないのだが、世の中には止まってるとしか思えない場所がある。もちろん貴いし温かい。
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そこでしか話せないようなことがいくつかあり、そこでしか伝えられないものもある。そしてそこでしか流せない涙がある。


それらはいわゆる「居場所」になり得る。
でも永遠ではない。


ひとであれば去っていくし、場であれば駐車場になってしまうし、記憶であれば忘れてしまう。

「居場所」は「かけがえのないもの」と呼んでもいい。

その礼拝めいた何かが自分の中にあるととてもいい。外でもいいが、外だけだと怖い。絶対に失くなるからだ。

言い換えると「参ったときにどうするか」のストックで色々決まるということかもしれない。
「居場所」をいくつ持っているかで不安の転移はたしかに予防できる。

作るもよし鍛えるもよし祈るもよし。

食うも飲むも逃げるも飛ぶも打つもよしだが、これらは代償を払う必要がある。何かしらのダメージが残る。戻ってこれない時もある。

そうこうして自分をを走らせる。あしたもあさっても。そして誰にも看取られないで今日が終わる。僕もあなたも。

お疲れ俺、よくやったね俺、あそこダメだったね俺。

とんでもなくあたりまえのことなんだけど、「自分のやっていること」を肯定してくれるひとばかりじゃない。

そして往往にして「行動の否定」は「人格の否定」に至る。
日本人は嫌になるぐらいインターネットでの主張が大好きで、行動と人格を区別することがニガテだ。

よく「行動を否定しても、人格は否定してはいけない」と言われる。

世の中の規制やルールもわりと性善説に則って作られている。

だけどその本質は叶わない。

「味方ばかりじゃないし、晴れの日ばかりではないぜ」という現実があるからだ。

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でも味方ではないひとのことばかり考えていても損だと思う。

たしかに実際生きていると人格はバシバシ否定される。だけどされてもしない方がいい。


人格と物事は分けないとピュアじゃなくなるからだ。


そして否定的なひとたちも味方ではないけれど、全面的に「敵」ではない。

彼らは応援してくれなかったり、「できるわけがない」と言ってきたり、誰かのやることなすことに反対したりする。

そんな毒性を持つ。だけど、その程度なのだ。

わざわざ妨害してくることもないし、邪魔もできない。
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その毒性は馬鹿にできないし、自尊心というものはそんなに強くない。批判者からは一刻も早く離れた方がいい。

そして「言わせとけ」だ。

すべてのひとに賛成してもらって生きているひとなんていない。

進むひとたちはきっと「言わせとけ」を胸に携えて、逆風へと進んでいる。

「言わせとけ」を抱えながら大切なひとから助言を頂戴して走っている。

そんなタフさが無いと大切なひとからの助言までたどり着くことすらできない。


環境や状況が変わると、耐えられた部分が耐えられなくなったりもする。支えや土台が有るからこそやりきれる部分がある。

人間が希望を持つ上で重要なファクターに「未来」がある。

「未来失くとも全力で走る」

これが死が確定している者の課題だ。取り組み続けている。
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軽いと思っていたことが重くなり、楽だと思っていた部分がキツくなる。当たり前は当たり前ではないと自覚し、再会が別れになるし、言われるけど言えないことが増えてくる。

きっと関わる人間も変わっていく。
というより変わらざるを得ない。この先同じことをやるわけでもない。やることが変わるならそこに集まるひとも変わる。

また少しずつ見えてくるものもあるのかもしれない。産みの苦しみは味わい続けているけど堕ろす苦しみを初体験している。

だけど、これもまたいわゆる一つの修行なのだと思う。思うしかないし起こったことは意味があることと信じるしかない。


しかし「死ぬのが怖い」はあらゆる有機体の本能なのではないだろうか。

死に対して能動を貫く文化は嫌いではない。だが聞くとするはずいぶん違う。やはり怖い。

「死ぬことを企てたというだけで、このひとの世間への申しわけが立つ筈だ。それだけで、いい。この人は、ゆるされるだろう」と太宰も「姥捨」の中に書いている。

「企てるだけでも免罪されて然るべきだ」と書いた太宰はやはり分かっているサイドの人間だったのだと思う。


特攻、切腹、心中。企てるに留まらず実行した先人たちはやはりどこか千切れている。

死、喪失、終焉というテーマを数多く書いてきたが、イマまさに「本物は違う」と体感している。

だんだんと死する者の品格が僕にも見えてくるのだろうか。一直線に死する者として。

名古屋。でらロック前哨戦。名古屋もむちゃくちゃ来た。音楽をやるまで来たことない街だ。

音楽をやらなかったら一生来なかったんじゃないか?という街に散々行った。その土地でしか会えないひとがいて、そのひとたちに生で歌が届く。

これを無数のバンドがやっているのだけど、毎夜奇跡なのだ。

オーディエンスにも一人一人抱えている痛みがある。そのタイミングで、同じ配列で揃うことは二度と無い。
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大事な夜が続いていく。そして消えていく。その上にまた新しい夜が重なる。時間はただ過ぎていくのではなくて、ちゃんと積み重なる仕組みらしい。

二度と触れられないものであっても消滅したわけではない。それらが「有る」なのか「有った」なのか。歌ってみるも答えは風の中らしい。生きるしかない。

最後の新潟。あしたは名古屋。名古屋はあした合わせて三度行けるが、これからは基本どこに行っても「最後の」がつく。

言えることは言えるうちに言っとかないといけないし、できることはできるうちにしとかないといけない。

言えなくなるしできなくなるのだから。会えなくなるし叶わなくなるし息ができなくなるのだから。

前に訪れた新潟がじつは最後から2回目だったなんて思いもしなかった。

この世はそういう風にできている。あなたが過ごした今日ももしかしたら「最後から2回目」かもしれない。

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じゃあ寿命が分かっていたらいいのだろうか。いやいやたぶん違う。知らない方がいいことはたくさんある。

夜景が綺麗なのは汚さが闇に隠れるからだし、雪が美しいのは白さがすべてを覆い隠してしまうからだ。

「分からない」ということで美しくなるものが山ほどある。

何でもかんでも知りたがるひとはセンスが無い。すべてを明らかにしてすべてを理解しないからこそ輝くものもある。
分からなくてもいいし知らなくてもいい。そんなものが好きだ。

今思えばすべてを理解し合わなくてもいい場所に僕はわりと恵まれてきた。そんなひとと過ごす時間は居心地が良かった。

それにしても浮き沈みがひどい。浮きたい。衰弱気味。胃薬に抱かれ気味。

「じつは読んでる」というひとがいるらしいです。このブログ。読んでください見てくださいという気持ちで書いている。本日もいらっしゃい。コメントを残すにはLINE BLOGのアカウントが必要らしい。めんどくさ。


さてクラウドファンディングのリターンを返している。いろいろ教えたりいろいろ歩いている。これらのリターンはいつも僕も楽しませてもらっている。

「作ってきてよかったなぁ」を存分に浴びれる。
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大阪にグッドバイを突き立てて、あしたは新潟。あさっては名古屋。

どうしても「最後」の乱れ打ちがすごい。この四人でその街に訪れることは二度と無い。そう思うとものすごい希少性を感じる。

「限定」も「今だけ」もそれで心が動くなら悪いことでもない。
心が動くか動かないか、魂がどれだけ震えるかが生きる価値だと思っている。だからもはや寂しいも哀しいも価値なのだ。
そこを「最初から大事に思っとけ」と言われてもなかなかできないし、失った日にようやく知るのが人間らしい。


あれもこれも失くなる。その真ん中にいる。
そして失くなるものには理由がある。「残しておけない」という理由がある。

今月は後何回グッドバイを唱えるのだろうか。もちろん人生最多月間だ。やったことない暮らしは少々絞まる。心が。抱かれたい。仕方ない。

大阪だった。最後のパンゲア。もう大阪には何度も来れない。寂しいばかり言ってもいられないが別れ惜しい。

寄りたかった街もあるけど時間が許さなかった。やはり時間は無いらしい。

遠い地に待っているひとがいるという奇跡に何度も感動させてもらえた。それを一番感じた場所は大阪だったように思う。

地元でもあるからだろうか。特別な感情がある街だし、そこに住むひとたちにも思い入れがある。
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「いつか終わる」ばかり歌ってきた。そんな歌ばかりだ。それが「マジで終わる」というような響き方になってきた。

おかげで表現の真実味が増している。
「ウソじゃない」というのは時に刺さるけど時にキツイ。

物事はいつもこうだったりする。何か手にすると何か失う。それでも進むしそれでも転がる。生きるしかない。

今日あたりから働きだすひとが多いのだろうか。世間のことには疎いのだが、街の雰囲気はそう言っているように感じる。

結局10曲近く録り溜めてしまっている。
録り溜めないと見えないこともあると思ってひたすらやっている。

でも正直な話をすると楽ではなかった。立ち上がってもう一度書き始めるのがだ。

そんなに長い時間では無かったがやはり効いた。いつでも死に花咲かせられるつもりだったがやはりキツイもんはキツイ。今だからようやく書けるが、不幸な選択肢がゼロだったかと言うとウソになる。

「前向きな解散」として発表できた。それでも心中はとても大変だった。解散を決めてから発表までたった五日。だけど本当に長く感じる五日間だった。


人間だから無敵じゃないし万能じゃない。

だけど折れっぱなしで廃人になるか、そこから蘇るかで男の価値も決まるのではないだろうか。
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そしてその苦しさもわりと何食わぬ感じになるのだから人生分からない。

でも人生はだんだん訳わからなくなるものらしい。そうなってきたら「ようやく俺の人生もフランス映画みたいになってきた」と唱えるといい。
色々と無に帰すし、「なんでアレとコレが繋がんねん!」の大量発生に免疫もできてくる。

いつも「まさか!」が繋がってずいぶんむかしの夢が変なカタチで叶ったりする。

次にどこに転がっていくのかまだ自分でも想像できないけど、とにかく転がっていこうと思う。

人間をそれなりに長くやっていると、ライクアローリングストーンにならざるを得ないタイミングがある。

イマまさにそれだ。転がるしかない。転がっているうちに風景も自分も整ってくるはずだから。


解散する。発表から情報取得に時差があるひともいるので念のため書いておく。解散するのだ。


「解散しないで!」という有り難い声もある。もちろん覆るなんてことは無い。今から覆ったらアホすぎる。


最近は余裕が出てきたのか逆説的思考が走るようになった。

つまり「解散しなかったらどうなるのだろうか」というものだ。
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ドラマーやギタリストを募集するのだろうか。そしたら同じ曲を新しいメンバーとプレイすることになる。

果たしてうまくいくのだろうか。

ズルズルの演奏にならないだろうか。やってみなくては分からないがズルズルになった場合、目も当てられない。コピーバンドに毛が生えたみたいにならないものだろうか。

そしてズルズルの結果、菅さんも離れていくだろう。

するともうオリジナルメンバーは僕一人になる。

そうなると活動の頻度を保つのは難しくなるだろう。月に10本のライブは1本になり、新曲の制作どころでもなくなる。

「解散したくても、それすらできない」という身動きの取れないシチュエーションがやってくる。その後に起きるのは自然消滅だろうか。

「やってんのかやってないのかすら分からないバンド」になってしまう。

こうなると新しく立ち上がることすら難しくなる。
自らのモチベーションやまわりの環境などすべてが未来への進行を阻む。


そうこう考えると、解散という進路がベストだと思う。そして脱退や休止になった場合「残留」と「離脱」を生み出す。

賊軍という概念の染みついた日本人は「離脱」があまり好きではない。「残留」も建設的かどうか疑問が残る。

物事には良い面と悪い面がある。悪いとこばかりに目を向けると曇りもする。解散の中に良い面だってあるのだ。

そして「解散じゃなかったと思うとゾッとする」が次の燃料になる。

仕事、学校、恋愛も同じだ。
終末を迎えるときは寂しさが伴う。しかたない。

それでも終末を選んだならばハートのフォームを整える必要がある。

そのひとつに「そこに留まると思うとゾッとする」がある。「離れたくない」は何も生まない。

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