kinotoでゲリラライブだった。
今月12本目。会えたひとたちありがとう。明日はスタジオへ。




人間、「居場所」というものがある。
僕は音楽の世界の中でも、何とも独特の場所にいる。

それでも「まだいてもいいよ」と言われていると思っているので、ギリギリ必死こいて居場所を陣取っている。


これまで「居場所が無い」や「居場所を失う」を繰り返して生きてきた。
でも失くなってしまった場所は、じつは最初から自分の居場所ではなかった場所なんだろう。


居場所が無い頃は、地図の中で現在地が分からないひとみたいになっていた。
自分の位置が分からないから、どっちに進むこともできなかった。


自分の現在地を知ることが一番大事だ。認識出来ているならばそこは、居場所になり得る。


「居場所の陣取り方」なんて、ググっても出てこない。
大事なことはいつも検索欄の外にある。

どうやったら見つかるのだろうか。


僕の場合、今現在の自分にとって、ほんのちょっとだけハードルの高い勝負を繰り返してきた。
ほんの少しの、他人から見たらすずめの涙ほどであろう無理を重ね続けた。

「少しの無理」をすると、自分が存在してもいい座標軸が見えてきた。


この座標軸はやけにシビアで、「X軸ならいられるけどY軸はどんなに頑張っても無理!」というデッドポイントだらけだ。あっちで弾かれ、こっちで弾かれだ。

それでも、なんとか両足がつく場所がある。それは「XがここでYがここかよ!」と声に出そうな、変な場所だったりする。右足と左手でかろうじて立つような座標軸だ。

でもその場所に立てるのは、世界で自分しかいなかったりする。


「少しの無理」でいずれは自分の居場所、自分の座標軸が見つかるんじゃないだろうか。

いられるところと、いられないところの差が表面化するからだ。

その居場所は紛れもなく現在地でもある。
「自分が立てる場所」は、「自分が立っている場所」だ。

後は北にも南にも進める。
自分の位置が分かったら、進んでいける。どこに行ってもいい、北でも南でもいい

どちらにせよ進んだ先に危険は無い。危険はいつも立ち止まった直後にやってくる。後ろから後頭部を硬いもので殴ってくる。

進めばなんとかなる。足を動かすこと、何かしらもがくのが最大の安全策だ。


だから、「少しの無理」がいる。

「無理しているかなぁ俺?」とたまに思う。あなたは思わないだろうか?

「まだもう少し負荷かけられる!」なんて思う日もあるし、「もう限界」みたいな夜も腐るほどある。

矛盾を抱えながらムーンウォークで進むしかない。




関係無い話。
音楽CDには「原盤権」というものがある。

僕も詳しくないけれど、「そのCDを好き勝手にしても良い権利」みたいなものだ。来月末『教室、千切る.EP』の権利がロッキンから返ってきてフリーになる。

フリー素材になるということだ。売れば売れるだろうし、インターネットに無料で流してもいい。
同人作品を作ってもいいし、誰かが録り直して自分のものにしてもいい。


映像とかで遊べるクリエイターさんやらと遊びたいなぁと思っている。
せっかく、使える素材があるのだから遊びたい。曲が遠くに届くような何かができたらなぁと思う。

なんか一緒に遊ぼうという人がいたらご連絡あれ。qooland.staff@gmail.comまで。

アイディアを気軽に試せる環境というのは尊い。

「試し」あっての達成だ。
試して試して壊して壊してたどり着く。

ザッカーバーグもいきなりFacebookを完成させたわけではない。ゲームも作り、チャットも作った。レミオロメンの粉雪だってサビが何パターンもあった。ジョブズのiPhoneだってそうだ。LISAがあったし、Mac Phoneという仮想があった。

傑作が生まれる前夜には、無数のアイディアの屍がある。ボツがあって、GOがある。


失敗は成功の母という言葉は「失敗できる自由」の尊さについて述べたものなのだろう。

大きなものが積み上がる直前には確実に「失敗」がある。つまり、「失敗の自由」という環境がある。

でもその「自由」は絶対に用意されているのだろうか。
残念だが世の中には「失敗の自由」が用意されている環境と、用意されていない環境がある。

経済的にもそうだし、空気的にもそうだし、立場的にもそうだ。

特に日本人は懐疑主義な風潮が多いし、切腹のカルチャーがあるから容易いことではない。むしろ「失敗の自由」が許されていない環境の方が、多いのではないだろうか。


だからこそ、僕は失敗したひとが汚名を着させられたり、失敗したプロジェクトが汚名を被ったりしない環境にいたいなぁと思う。


綺麗事でもない。

僕は「作る」がメインなので、「失敗の自由」が無いと自分が一番つらくなる。

「失敗の自由」は作品にとっての余白の残骸だ。

余白を恐れると大したものはできないし、攻めの姿勢が取れなくなる。「良いもの」は狙ってできないし、どうしても偶発的なところがある。

だからこそ僕にとって「失敗の自由」が奪われることは致命的だ。


でも僕だけの話だけでもない。

自分の可能性を追求できないひとが一人でもいたら、それはグループ全体の損失だし、その人がそれを実現できたら全体が助かる。そういう風にできている。

社会もそうかもしれない。
「社会」なんて話を大きくして申し訳ないが、個人の損失が全体の損失に繋がるという意味では一緒だ。 

今自分たちの暮らしを支えている大半の発明は「絶対ミスんなよ」という思想から生まれていない。

先日、友達から面白い話を聞いたから紹介したい。

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↑この画像を何だとお思いだろうか。

じつはコレ、チョコレートなのだ。明治の「ザ・チョコレート」という商品だ。

これまでのセオリーやイメージを、完全に廃したパッケージになっている。

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このチョコレートが発売されるまでのエピソードが面白い。



開発当初、社内では「こんなパッケージで売れる訳がない」という批判が炸裂した。

しかし開発担当者は「あなたの世代がターゲットではない」などと反論しつつ、販売までたどり着いた。

そして売り上げ結果は、当初の目標の2倍以上になったそうだ。


凄い話だと思ったし、痛快だ。
 

そして、よくよく考えると明治という会社が「古い価値観に強権をもたせていない社風」であることも分かる。

もしも古い価値観が優勢に働くならば、「ウルサイウルサイ!いいからわしの言うこと黙って聞いとけバッカモーン!」という老害の意見がまかり通るだろう。波平だろう。

すると結果、販売までたどり着かない。

しかし、明治という会社は違う。
あくまでこの上司は反論に対し、OKする器があるのだ。おそらく説得材料もしっかりしていたのだろう。


もちろん傑作を生み出した一番の功労者は開発担当者だと思う。

だけど上の社員に反論できる社風や、年下から反論されてGOが出せる上司も、この「ザ・チョコレート」という傑作を生み出す一部なのだと僕は思う。


何かしら大きな成功の影には、周囲の「誰も邪魔をしなかった」がある。

イチローさんでさえ、圧倒的な実力がありながら、プロ一年目は試合に出れなかった。監督が代わり、二年目に野球史を根底から変えた。

「誰も邪魔をしなかった」ってじつは物凄いことなんだと思う。自分も誰の邪魔もしたくないなぁと思う。



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他人の怠慢や不勉強や倫理感のなさを探したり糾弾することの最大の効能は、(「それで社会がよくなる」とかではなくて)それを熱心に探したり糾弾しているあいだは自分の怠慢や不勉強具合や倫理感のなさについて頭を抱えずにいられることなんですよね。そしてこの時間は蜂蜜のように甘い。自戒したい。

 

なんてツイートが先日あった。 


本当に気をつけたい。なぜならアレを喰らったときのダルさは尋常ではないからだ。

あのダルさを、地球上からひとつでも多く取り除きたい。降ってくるのはもう諦めるしかない。せめて自分はしないでいたい。



しかし、「自分の至らなさに頭を抱える時間」は苦しい。それは事実だ。

だから「自分の至らなさに頭を抱える時間を減らしたい」と考えるのはきっと正解なのだ。



別の手段で、できないだろうか。

「至らなさに頭を抱えないと向上しないゾ」という声も鳴りそうだけど、僕は別に頭を抱えなくていいと思う。


頭を抱えなくても向上する方法はたくさんある。第一、抱えたら向上から遠のくはずだ。

抱えた時点でコンテンツは死ぬとすら思う。



なんとか頭を抱えずに生きて行けないだろうか。



だけど近頃、気を抜くと「頭を抱えずに生きて行く方法を考える」という内容で頭を抱えている。


こんなに頭を抱えていたら何ひとつ続けていけない。たぶん頭を空っぽにするかシンプルにする方がいいのだ。そうだ、理屈は分かる。分かるのだけれども頭が着いて行かない。

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ゲリラでkinotoだった。今月11本目のライブ。来てくれた人ありがとう。

とにかく何本もライブをしている。前回を越えて越えて進む。



昨日は気分が優れなかったのだけど、「このひと死ぬんじゃない?」ってぐらいの運動をしたら回復した。いいことなんだけど、運動の奴隷と化している。

別に運動を義務にしているわけでもない。

それでも身体を動かす。
満足なパフォーマンスを発揮したいからでもあるし、風邪を引きたくないからでもあるし、強靭になりたいからでもある。


でもなんだろう。それだけじゃない。たぶん約束なのだ。誰かとしたわけでもない自分との約束だ。

「自分に試練を課す」とかそんな大げさな話ではない。

あなたにも絶対に自分との約束があるはずなのだ。

仕事に行くのも、学校に行くのも約束だ。

別に行かなくてもいいのだ。「社会生活を少し曲げる生き方」なんて腐るほどある。
人口的に見ると、日本で繰り広げられてる生き方の方が異端だ。

僕が音楽を作るのもステージに立つのも約束だ。やってもやらなくてもいい。

だから、「自分との約束」なのだ。「義務」じゃない。



「義務」にしてしまうとつらくなる。

やるのが当たり前になるし、やらないと怒られてしまう。ひとは怒られると逆ギレしてやる気を無くしてしまうのだ。これは良くない。

「約束」だと守ることで喜べる。

僕の場合かもしれないけれど、「約束」って減点のシステムにさらされないのだ。


命や時間が自分のものである以上、全部「約束」だし、義務じゃない。


こういう活動をしているのも、新しい歌を作って、新しいことを考えるのも約束だ。

響きが違うだけで、違うことがたくさんある。

どうやったら恐怖感を減らして暮らしていけるだろうか。怯えるとあらゆるパフォーマンスが低下する。

「正義感」と「使命感」とでは結果が変わってくる。どれだけ正しくても、振りかざすとおこがましくなる。

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いろいろと自宅のマシンシステムを換装している。死ぬ程めんどい。

コンピュータが超絶に強いひとというだけで生きやすい時代だなぁと思う。
人並みには強いけど、一個踏みこんだ高度なものがほとんど分からない。

しかし「人並み」のひとでも楽しめるように出来ているパソコンというものは本当に凄い。
というよりOSが凄いのか。windows95以前はそこまで易しくなかったらしい。

それもこれも知らない話だ。

書けない。
換装で疲れ果てている。鬼のような筋トレでもしてなんとか持ち直す。

iTunesで音楽買ってもうた。爆発的に良い。

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Instagram。「いんすたぐらむ」と読む。

SNSの一種だが、今現在、すさまじい勢いで普及しているらしい。

先日、「Twitterやっているのは日本人だけっすよ」という話を聞いた。
その話の信ぴょう性は分からないけど、とにかくInstagramが凄いらしい。

僕はInstagramをやっていないのだけど、「Twitterと何が違うのだろう」と考えていた。

Instagramの楽しみ方って基本的に、「写真を撮ってアップするだけ」なのだ。

Twitterでもその機能はあるけど、Instagramは写真が無いと投稿ができない。「じゃあ別にTwitterで良くね?」とならないのが人間だ。


逆にそれが「参加のしやすさ」に繋がっているのだろう。「写真」という制限がつくことで、何も考えなくてもその世界にダイブできる。

たぶんそれぐらい「参加しやすい」か「しにくい」かは重要なのだ。参加しないと「繋がれない」。SNSは繋がってナンボだ。



Twitterが普及しだしたときに、よく聞いたセリフがある。

「Twitterでつぶやくことなんか別に無いよ」

というものだ。

つまり「いちいち不特定多数にアレコレ言うことなんかありません」ということだ。

ごくごく普通かつ、真っ当な意見だ。

むしろ、「言うことがある」なんて人間は少数派だろう。しかしTwitterという世界にダイブするには、その「言うこと」が必要だった。そして彼らは面倒になり、Twitterから去っていった。


ここから分かるのは、ソーシャルネットワークの中にも「参加できるひと」と「参加できないひと」がいたということだ。

Twitterという大海原にダイブするための「140文字でなんかしら言う」というハードルはわりと高い。

「なんか言って」って、大喜利のような難しさがある。

Twitterにドップリ参加するには、0から1を生み出すか、1を1000にする能力が必要だったのだ。そう思うと「つぶやき」って、じつはクリエイティブな側面がある。


そいつらはどんなやつらだろうか。

分かりやすく言うと、学級新聞で面白いコラムが書けたり、自由帳を渡されたら変なことをちゃんと描けたり、教科書の落書きがうまいやつらだ。

そう、Twitterは杉田玄白をしっかりモヒカンにできたやつのフィールドだったのだ。

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天才・マークザッカーバーグが生み出した世界最大のSNS、Facebookも「参加スキル」がある点は同様だ。

あそこは過去と現在、現実とネットをしっかり連結させられた人々のフィールドだった。僕はここにいなかった。


その点、Instagramは凄い。

写真を撮ってアップするだけだ。
何も生み出さなくていいし、何も膨らませなくていい。
その参加の敷居の低さは他のSNSの追随を許さない。

まさに「誰でも参加できる」ようにデザインされている。そんなSNSは、まだInstagram以外にできていない。

mixiなんてまぁ大変だった。
みんながみんな日記なんてポンポン書けるわけない。

mixiの中に「聴いている音楽をさらす」みたいなサービスがあったけど、アレは好きだった。何故か途中から廃止されてしまった。悲しかった。



これからまだまだ新しいSNSやプラットホームなんかのサービスが誕生すると思う。

真新しさや革新性も普及率に関わってくるとは思うけど、「参加のしやすさ」というのも、ひとつのバロメーターになるのかなぁと感じる。


僕にとってTwitterは自由帳の落書きぐらいに思っている。気軽に何かしら書いて遊ぶためのツールだ。まっさらな場所に何かしらを書くのが昔から好きだった。

逆に写真ってあまり撮らない。
Instagramは今んとこやる予定はない。

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下北沢ERAでゲリラだった。
来てくれたひとありがとう。ERAに来るといろいろ苦しかったときを思い出す。でも今は絶好調にいいことが多い。大好きだ。


僕は幼少期から上手く生きるのがニガテだった。

ひとと仲良くなるのも不得意だし、仲良くなったらなったで、距離感を計り間違えてばかりだった。

壊して、持っていた関係をゼロにしてばかりだった。

客観的に見ても"ほどほどに付き合っとくなら問題ないけど、仲良くなりすぎるとダルい人間"だった。

あなたのまわりにも一人や二人いるだろう。そいつだ。そいつが僕だ。


その未熟かつ、思い込みのキツイ体質のおかげで、小中高から続く友人がいない。今、人生で一番付き合いの長い友人が、タカギになってしまう。

文章化すると、自分のコミュニケーション能力のヤバさが際立つ。


でも「少しでもマシになったらいいな」と思っている。だからたくさん知識を入れた。

そのせいで「ひとと関わるための技術」みたいな知識は人一倍ある。

当然、「知る」と「実践」には果てしないほどの差があって、なかなかうまくいかない。

実際にマシになっているのか、なっていないのかさえ分からないほどだ。


でも、唯一良いと思うことがある。ここLINE BLOGに書く話が豊富なことだ。


そのツールや情報を、ここに僕の言葉で書くことができる。知識は実践できなくても伝達できる。ここに書くことで、誰かの気持ちや暮らしが、少しはマシになるかもしれない。


僕が得た情報が僕の人生を彩るかは分からない。結局ツールなんてものは、使うやつのポテンシャルで決まる。

残念だが使うやつがポンコツなら、どんなにいい武器を手に入れても何にもならない。

僕が手に入れたもので、僕を豊かにできなくても、誰かが豊かになればまだいいかとも思う。

いいヤツぶるつもりもないし、犠牲心が働いているわけでもない。

ただ、自分の駄目なポイントがまわりまわって誰かのためになったなら、それはそれで意味があったなぁと思うのだ。

ここをいつまで書けるのかは分からないけど、今日も来てくれてありがとう。

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「完璧主義」という言葉がある。
これの対義語が、「達成主義」だという話。

「完璧主義という体質がクオリティを下げる一因だ!」と言われるようになって久しい。


僕自身の身に置き換えても「完ぺきにしなきゃいけない!」という意識のとき、良い結果が出たケースは少なかった。
あれもこれもそうだった。結構、完璧主義の病にかかりがちな人間なのだ。


完ぺきを目指すと、口だけ野郎になって、行動の量が減ったりする。そして物事の見方が否定的になる。
Noをベースとして考えていくので、当たり障りのないところに落ち着きがちだ。冒険ができなくなる。オマケにまわりの落ち度が気になりだす。


執着や過干渉や偏愛と「完璧主義」は心理的によく似ている。「絶対に失敗は許されない」という心理ともソックリだ。

そんなとき、大体コケてきた。


世の中、完ぺきにいかないことが常だし、そもそも完ぺきにいったからといって大したことでもない。

言葉にするとわかるけど、「完ぺきなこと」って意外と価値が無いのだ。


それよりも「とにかくやる」のエネルギーの方がデカイし、何かが回りだす。結果として「完ぺき」に完璧主義よりも近づいていく。

最善を選び取るためにウンウン悩むよりも、最低限でOKして、ひたすら動いている方が良いというやつだ。

「案ずるより産むが易し」という言葉は、昔からあるけど本質が集約されている。

ドラクエで学んだはずだ。戦わなければ会心の一撃は出ない。

「前回よりも良くしなきゃ」や「ミスを減らす」は良いものとされているけど、バランスを失うと結果、すべてを失くす。

とにかく手と足を動かしていきたい。振り回したい。

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「人生は」を「自分は」に言い換えてみると、少し物事が小さく見えて楽になるよな!の話をしていた。


「人生はいつも苦しい」

「人生はいつもつまらない」

「人生はいつも間に合わない」


全部の主語を「自分は」にしてしまうと楽になる。気のせいかもしれないが、物事の次元が低くなる。絶望感が身近になる。自分でどうにかできる範囲の問題に成り下がる。



災害や戦争やテロ。
どうしようもない問題を「人生は!」とは言わないなぁと思う。言うひともいるかな。

だけど僕たちが「人生は!」と言って、頭を抱える問題は、そんな大きくはないことだったりする。

苦しいことや、つまらないこと、間に合わなかったことは、意外と自分でねじ曲げられる。

問題には「仕方ないこと」と「仕方あること」がある。俯瞰するよりも体感する方が見える、なんてケースが山ほどある。

前向きか後ろ向きか分からないけど、進めるならいいと思う。どちらにせよ時間軸の中で後退することはできないわけだし、ムーンウォークのまま進んでいくのもアリだ。


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京都でライブだった。
呼んでくれて、観てくれてありがとう。


去年、人知れずやっていたことがある。

「今年いっぱい頑張ってみる」というやつだ。

2016年は12月31日で、自分にいったんピリオドを打つつもりで暮らしていた。具体的に首を吊るとか失踪するとか、そういうネガティブな内容ではない。
自分を鼓舞するために区切りを用いただけだ。


5月も終盤にさしかかり、ようやく今年の僕もそう思えだした。

ここまでの2017年。
思おう思おうとしても、中々思い込めなかった。どこか執着が手放せない日が少なくなかった。
僕はいつも、残り半分ぐらいにならないと調子が出ない。

「今年いっぱい頑張ろう」って「終了の意識」を強くするとも言い換えられる。

そうすると、いろいろと調子が良くなる。
苦痛にも耐えられるし、嬉しいことはもっと希少に感じる。


《2018年、夏。》


みたいな予定や意識を組んじゃうと、その日付けに押し潰されそうになる。昔からだ。
未来が刻印された文字は見るだけでつらくなる。映画の予告とかキツイ。

僕は嫌なバイト先に勤めているとき、いつも「今月いっぱい頑張ってみる」と思って、働いていた。定期は絶対に買わなかった。

「それ交通費損じゃん!」とよく言われていた。

分かる。
分かるが、僕にとっては先々の日付けを目に入れないことの方が大事だった。

交通費の損失分の臨場感を買い取っていた。 

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これまで僕は、いろいろなやり方で世の中と折り合いをつけてきた。

あなただってそうだろう。オリジナルの方法を持っているのではないだろうか。


嫌なことを許しつつ、不満を諦めながら、大切なことを喜ぶための処世術を編み出して、ひとは生きていく。

僕のやり方は「おしまいを意識する」だっただけだ。


緊張感と臨場感を高めて、感受性を過敏にするためのサバイバル術だ。

自分と世界の折り合いがつかないときがある。

大体が世の中や人間に期待しすぎている。過度な期待は毒になる。求めすぎというやつだ。

「もうすぐ終わる!」と考えると、それを手放しやすい。期待している場合じゃないからだ。


自分のために生まれてきた人間なんて、この世に一人もいない。自分のために生まれてきた人間は自分だけだ。

だからこそ、差し伸べられた手は当たり前じゃない。関わっているだけで、ラッキーで偶然で奇跡で運命だ。


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