いかに傷付かないように生きるかに命をかけている人々がいる。

自分が傷付かないために誰かを傷付けるし、自分が傷付かないためなら何だってやりだすひとまでいる。
ここまでは重症だが、その節があるか無いか確認してみるとどうだろう。

「俺、傷付かないようにしてないだろうか」と自分自身に問いかけてみるのだ。

たとえばネットですべてに対して先回りしていないだろうか。

店に入るのも就活するのも恋愛するのも、予習してからじゃないと気がすまなくなってなっていないだろうか。

大した問題にはならない。でも「検索」ってゆるやかに心的ダメージを逃がす行為なのではないだろうか。

たまにはざっくり決めて、どっしり構えてみるのもいいかもしれない。その結果泣いたとしてもだ。

生きていると感覚で走らないといけないところが出てくる。論理的すぎると達することのできない階層がある。

歌を書くにしてもそうだ。

理屈をもとに作った音楽には限界があるのだ。ロジックが破綻することに臆病になると創作はできない。

マイナーコードだけど眩しい。

テンポが速いけど、ゆるい。

死にたいと歌っているのに強さがある。

こんな音楽がいっぱいある。
_var_mobile_Media_DCIM_101APPLE_IMG_1563.JPG
「いかに傷付かないか」というところに力点を置くと面白さが減りがちだ。

たぶん「傷付く」と「生きていく」は殆んど同義なんじゃないだろうか。そう考えると「傷付く」は決してネガティブなものでもない。

ダメージを負うなんてもちろんキツイ。険しい。

でも食らったなら回復すればいい。

それに「食らわないようにしよう」に重きをおくと、どこにも行けない。険しさを同居させて生きていかないと何も手にできない。

街を出て、旅に出た方が面白い。

その行く手には困難が待ち受けている。もちろん傷付くし苦しむ。だけど、面白いはずだ。

静かな夜が好きだけど、静かな夜はいつだって誰かを泣かせている。

曲を生み出す。という話がある。

僕個人の話になるけど、「生み出す」という感覚は無い。何かを生んでいるような意識じゃないのだ。

なんとか言葉にすると、それを「読む」し、それを「見る」し、それを「聴く」に近い。

痛いことも苦しいことも嫌なこともいっぱいある。いちいち敏感に反応する性質のおかげでたくさん傷付く。

それを読む。見る。聴く。「読む」とはひいては「読ませる」だし、「見る」とは「見せる」だし、「聴く」とは「聴かせる」なのだろう。

感じた信号を言語という共通記号に当て込む。感じた信号にできるだけ近くするよう努める。

記号は解読されないといけないから、伝わるように並べる。伝達手段として成立させる。

なるべく「盛らない」ようにする。伝えすぎないように余白を残す。

「盛り」に走ると引き返せなくなる。足しまくると引くのが怖くなる。

iPhoneの美しさはデコり倒したケータイの真逆にある。でもこれは一度足してみないと分からない。
_var_mobile_Media_DCIM_100APPLE_IMG_0888.JPG
基本的には引き算だ。

一度足してみて引いていく。
そして物足りなくなるギリギリ手前で止めるのがコツだったりする。

創作物はフックがありすぎてもツライ。香辛料が炸裂しすぎてもしんどい。

アコースティックギターでたくさん曲を書いている。

「目の前にあるもので世界一シンプルな曲を弾くだけ」の心持ちで作りだして、早めに完了。

わりに聴いたことのない日本語がいっぱい並ぶ。

やはり自分から「生まれた」ではなく、感じたものを「読んだ」ように思う。

誰かに届いて誰かを楽しませる日が来るといいなぁと思う。
_var_mobile_Media_DCIM_101APPLE_IMG_1578.JPG

世の中はいつしか「増やそう病」だ。

金を増やして友達を増やしてアクセス数を増やしてフォロワーを増やしてlet's goだ。

幼き頃から「ヒトやモノを増やせば幸せになれるよ」と刷り込まれてきた。仕方ないのか。

大人によるものか、国によるものか、テレビによるものか、ネットによるものか分からないが、とにかく叩き込まれてきた。

反面、その哲学は「増やせなかったら駄目」というグロさも生み出した。そのグロさにあたると、犯罪になったり自殺になったりする。

やたらめったら増やすと、箱がいっぱいいっぱいにならないだろうか。

でも自分の箱のスペースはじつは限られている。


大人になっていいことがある。

自分が子供の頃に大人から叩き込まれた理念を、一人の大人として見つめ直せるようになることだ。
_var_mobile_Media_DCIM_101APPLE_IMG_1581.JPG
足りなければ、増やすといい。でも増えすぎたなら削る方がいい。

足りているのに食いまくると体調も崩れる。食い過ぎると思考も鈍る。

「適量」というものがある。自分が自分のまま生きていくための「適量」には個人差がある。

チビもいればゴリラもいる。みんな違ったサイズの箱を持っているし、みんな違ったカラーだし、デザインだって機能だって違う。

もしあなたが「とりあえず増やす」に走っているなら、それで苦しいならば、少し足を止めてみるのもいいかもしれない。

増やすべきか減らすべきか保つべきかを見直すだけだ。

自分へ問いかける時間が増えると、ほんのり水が美味く感じたりする。味が無けりゃ味わえないなんて味気ない。


不幸は数えやすい。足りないものも数えやすい。
それなのに幸せには気付かない。満ち足りているものにも気付かない。「当然」を敷いて目の前の恩恵には不感になる。

自分の短所はミリ単位で正解するし、長所は素っ頓狂な方向に外す。


年末年始は自らの検証ばかりしていた。

有るものと無いもの、使える武器とそれを振れるフィールドかどうかばかりだった。ここまで追い込まれて、ようやく自分をまっさらに見れるようになった。

盛りも卑屈も無くなるっていい。大した話でもないが、いい。盛らず削らず無理が減る。だ。
_var_mobile_Media_DCIM_101APPLE_IMG_1564.JPG
できること、やれること、得意なことに絞るとラクだ。

「できなきゃいけないこと」が遠ざかる。mustを遠ざけられるなら遠ざけたい。怠けたい。

「できないことから逃げる」だと聞こえが悪いが、「できることを丁寧にやること」だとクールだ。

目線をひっくり返すとネガティブすらもポジる。

ほら、「女子高生が売春してる」から腹が立つんであって、「売春婦が勉学に勤しんでる」だと思えば感心できるじゃないか。

「やりたくないこと」が暮らしにまとわりついていないだろうか。

ひっくり返しもたまに効くぞ。ピシッと。おまえ、いや、俺。


まじめに誤解を恐れずに書いておくと自殺するならイマだなぁと思う。

自殺が美しく見えるタイミングと見えないタイミングがある。

年齢だったり体型だったり理由だったり。
このナルシズムがこびりついているのは切腹のDNAが紡がれている日本男子だからだろうか。

だけど何故一歩踏み出さないのだろうか。

これまでとイマもそうだ。

「死んでもいい」といえるタイミングは山ほどあった。むしろ「死ねない」というタイミングよりも多かったはずだ。

そこで飛ばないのはまったく救いの無い絶望があるからじゃないだろうか。
でもその絶望に命を救われているからだ。


良いことも悪いことも続かない。

欲しいものを追いかけると離れていく。

持ちものはすべてちゃんと失くなる。

「あのひとみたいなひとはもう現れない」なんてことはない。ひとの代わりはいる。
もちろん現れなくても大丈夫。そのひとがいてもいなくても、僕たちの毎日は変わらず流れ続ける。


これらはまったく救いの無い話だ。でも救われている。まったく救いは無いが。
CYfi6g76Pk.jpg
金を執拗に追うと離れていくし、人間を必死に求めれば避けられる。

世に出ようとがっつけば笑われるし、護ろうと過度に怯えれば狙われる。

大事なのは無理に大きなことをしないことだ。ひいては執着で人を傷つけないこと。


どんなに明るいひとでも心の底を叩くと哀しい音がする。

それを静かにドリップする。すると身の丈で手に入る言葉が飛び交う。メロディをくっつけて丁寧に淹れる。

飲んでみて美味しいと思う。淹れたての湯気を眺めながら。

丁寧に淹れたものがいっそう美味しく感じる。そう思うと寒い日も悪くない。

まったく救いは無い。それでいい。

ハロウィンや年末年始になるとタクシーから渋谷を眺めるクセがある。

「これだけの数の人間が遊ぶと国の機能が停止するんじゃないの?」というぐらいみんな遊んでいる。狂騒的にアルコールを入れて、男は殴り合い女は泣く。

怪物の格好をした人間が群れをなして突き進んでいる。怪物が通った後はゴミだらけになる。
人間とゴミが溢れている。どっちがどっちか分からなくなる。そのぐしゃぐしゃをかき分けてタクシーは走り出す。
_var_mobile_Media_DCIM_101APPLE_IMG_1232.JPG
運転手に「世界中で働いてるの俺らだけみたいですね」と話しかける。無視される。運転手はロボットらしい。

外枠から何かを眺めるのは好きだ。

校舎から体育祭の練習を眺めたり、クリスマスイブに一人でイルミネーションの通りを歩いたり、ライブサーキットの様子を4階の喫茶店から眺めたり。

祭りの真ん中よりも少し離れたところにいると心地いい。

僕は心が猫舌らしく、熱狂の渦の中心にいると焼死しそうになる。遠めからその熱に触れるのがちょうどいい。

熱中する世界の片隅で、ひっそりと暖をとる行為に惚れている。「逃げる」に近いが惚れている。
_var_mobile_Media_DCIM_101APPLE_IMG_1560.JPG
最近、「これが痛い。これがキツイ」みたいなことを他人に話すようになっている。これまた自分の中ではわりと逃げだ。

「痛みを理解してくれ」と言わんばかりに他人に弱さを吐き出すというのは立ち向かっていないし、被害者意識丸出しだ。

でもこうすると、少し当事者を休める。
間違いなく当事者意識は和らぐ。和らいでしまう。

でも逃げの本質と恩恵とはそれだろう。
この恩恵はある意味投資だ。逃げて得るものと失うものがある。どちらが後々多くのリターンを手にするかだ。


ドラクエで学んだはずだった。

HPが減っているときや毒にかかっているとき、戦力が足りないときは『逃げる』を選んできた。「経験値が得られない」という代償を払ってでも僕らは逃げてきた。

「逃げる」は誰しもに備わっているコマンドだ。
じつは選べる。選べないで死ぬぐらいなら選ぶ方がいい。やくそう食って宿屋で寝て、またこんぼうを振り回せばいい。きっとそのカウンターは当たる。

「終末の過ごし方」が頭から離れない。 

「素晴らしき解散」などという抽象的なものを目指しているわけではない。やるしかないのだし、たどり着いた先の風景はまだ分からない。

瞬間最大風速はいいはずだ。でもどこまでいけるかは自分次第だ。そしてそれを考えるのはまだ先のはずだ。

それよりも「過ごし方」という終末の日常化した部分を無視できない。

「終末」にはプロセスがある。

ゴールの位置は分かるが、そこに行くのも中々に険しい。

怠けも無いし、衰えているわけでもない。

熱を注いで、楽曲と楽隊に華々しい最期を用意したいし、できる限りのことをしている。

だけど、そこに未来は無いのだ。

こういう体験は初めてだ。

「未来が無いものを磨く」というのは過酷だ。一緒にいるのに未来の話もできない。未来が無いから当然だ。

どうやら人間は意外と「未来」が大好物らしい。

解散発表をしたグループの解散までの道のりは、文字通りデスロードだと言える。

余命を告げられると狂ってしまったり、無気力になるひとがいると聞くが少し気持ちも分かる。

未来や希望といったものの持つ力は本当に素晴らしい。実感している。失った環境にいて痛感している。

もしかしたら、あなたはイマつらいかもしれない。苦しいかもしれない。

でもそこに未来があるなら、もう一度「未来」にフォーカスしてみるといい。あるんじゃないだろうか、未来。ならば、実はすごく有難いところにいるのだ。
_var_mobile_Media_DCIM_101APPLE_IMG_1559.JPG
僕は僕で新しい未来への準備もしている。

死にゆく古い命を悼みながら、新しいものを日々創っている。不思議な感覚で情緒が変だ。

ここまで生んだものに愛着もある。捧げてきたことに誇りもある。だからこそしっかり殺してやりたい。

苦しくともこの「終末の過ごし方」が何かを決めていくような気がしてならない。新しく生まれるものと無関係にはならないように思う。

毎日毎日がドキュメンタリーだ。あしたはあしたの風が吹くのだろうか。転がる石のように。

"今日がもしも人生最後の日だとしたら今日の過ごし方はベストだったか"

と聞かれたらどうだろうか。

正直Noの日がずいぶん続いている。

「すべてが白か黒かだけ!」というわけではないし、すべてが負ではない。でもNoが続いている。負け越している。誤魔化さなくとも自分ではわかる。

苦しいし独りも感じる。

だけどこれを繰り返してきた。YesもNoも口に含んで生きてきた。そもそもいつもYesなやつなんて、全部Yesなやつなんていない。

自分という人間をしばらくやっているせいで覚えてきたことがある。

僕はYesとNoを一定のサイクルで繰り返す傾向があるということだ。
69wyLdDxHN.jpg
そしてそれよりも重要なキャリアがある。

しばらくNoが続いた後、大きなYesを得ることが多かったという事実だ。

"これじゃない"という毎日から得るものはあるのだ。
霧中の自分には分からないが、これまでもあったのだから、またあるはずだ。

禅問答みたいだけど、得ることは失うことでもある。

何が嫌いというわけでもない。何が気に食わないわけでもない。

だけどすべてがつまらなくなる前にYesの手掛かりを見つけないといけない。

というより見つかっているのならば登らないといけない。自尊心の耐久性はそんなに高くない。

立ち上がらないとなぁとは思う。

「険しいことを冒す」と書いて冒険だそうだ。

外に出て色々なことを経験し、傷付いて倒れて立ち上がって、そして何かを手にする。

自分の人生の主人公は自分なのだから、みんな主人公になって冒険する。
他人の人生の中では脇役に過ぎない僕もあなたも、自分の人生に関しては険しさを冒す必要がある。

だから多少の危険は仕方ない。

壊れても崩れても失くしてもまた拳を握って、冒険の旅に出かける。

だけど自分にできることはいくつも無い。

その中でできることがいくつかだけある。それを手繰って険しさに飛び込んでいく。

まだうまく言えないけど、そういうものな気がしている。険しさの果てに死ぬのかもしれないけど、たぶんそうだ。
_var_mobile_Media_DCIM_101APPLE_IMG_1552.JPG
ラクな方向に流されてしまいそうにもなる。流れに向かって泳いでいけないときもある。

自分の心を鈍らせて易々と流されてしまうラクさには中毒性がある。流されてしまうぐらいには僕は弱い。怖くなる。

怖いのはその結果何が待っているか、骨身にしみているからだ。

rt8ivTEOg9.jpg
あなたの手のひらに収まっているスマートフォンの小窓を通し、こうして言葉を届けている。


この世には自分の心を押し込めているひとがいる。他人の思惑のためにポタポタ生活を続けているひとがいる。その苦しさぐらいなら分かる。


でも選択肢は思うより無い。僕らにはそんなにも選ぶ道がない。

虫ケラのように負けまくっても、腹は減る。
愛するひとが死んでも眠くなる。
壊れないよう積み重ねたのに崩れさる。

いくら死にたくても生きていかないといけない。

「道徳が一変すれば」と祈ったりもするが、その日は来ない。待てども待てども訪れない。

何かを手にしたい。でも選択肢は多くないらしい。

僕たちは険しさを冒さないと生きられないように出来ている。だから多少の危険は仕方ない。


無理をするとやはりキツイ。

無理して手に入れたものがニセモノだったときの失望はエグイ。飛び降りたくなる。

そして少しの無茶すらやれない環境こそ「無理」だったりする。

どんな仕事もどんな人間関係にもあてはまると思うが、無理は続かない。なんとか息継ぎする箇所を探さないと窒息する。

ひとと付き合っているとき、無理がたたっていないかを小まめにチェックするといい。少し生きやすくなる。

誤解されたくはないので念のため書いておくが、突っぱねろということではない。合わないひととの折り合いのつけ方が見えてくるということだ。
79yJyDRASr.jpg
無理して「最高に楽しい!」と呪文を唱えるのも一時的ならいい。麻酔になる。だが麻酔はいつか切れる。どこかで身体と心は痛みを自覚し、破壊される。


でも思うのだ。最高の恋人とか最低の人生とかそんな極端な意識はいらないんじゃないかと。

恵まれし誰かの良い部分と自分の悪い部分を比べても仕方ない。

「比較の大量投下」というプロセスのバグはいつだって悲壮感を引き起こす。

そんなものより「今現在無理がキてるかキてないか」という主観的バロメーターの方がよっぽど正確だ。


「無理」に無頓着なひとほど「誰でもいいから飲みたいなぁ」みたいな孤独の誤魔化し方をする。そしてその手札を切りまくるとわりと詰んじゃうのだ。

さらに何かが目減りする。自分の中に植えた幹のようなものが削れて減る。

_var_mobile_Media_DCIM_101APPLE_IMG_1364.JPG

そのむかし、家で寝ている彼女を横目に朝早く出かけたことがある。

夕方、帰宅すると彼女は同じ格好のまま寝ていた。
部屋の時間だけ止まっているみたいで、なんだかとても安心した。
世界が滅びたとしても、彼女だけはそこにいてくれるような気がして涙がこぼれた。

「無理」が続くと、あの感受性みたいなものが目減りしてしまうと思う。

そんなものを失くしてまで、生きている必要なんか無い。無茶は良くとも無理はいけない。

↑このページのトップへ