なにかできないことができるようになりたいときのやり方は、みんな同じだろうか。


『情報を得て、自分のサイズに会うようにそれを加工して、噛み砕く。情報が不足しているなら、想像で補い、計算する。場合によっては試行錯誤をしてみる』


だいたい僕はこんなふうに進めている。
最初に情報を得て、噛み砕いている。

「何事も経験に勝るものは無い」と、むかしえらい人が言っていたけど、「何事も」は言いすぎだと思っていた。
勝らないからと言って、予備知識が不要かと言うとそうでないだろう。

だから、よくよく情報を入れて、噛み砕く。

だけど、その情報の入れ方に、あまり「人に聞く」を使わないなぁと思った。


人になんとかしてもらえるような問題はたかが知れていると、思っている節があるからだろうか。
聞いて分かることは、たぶん聞かなくても、ネットで検索すれば、載っているようなことだろう。


だけど本当に大事なことって、人に聞いても分からないことばかりだ。


ふつうに考えたら当たり前かもしれない。

誰も分からないことなのだから、挑む価値がある。自分が初めて経験する道だから、有利さも生まれる。

そういう問題は、人に聞いても分からない。


聞くのが悪いわけではない。

ただ、「分からないことは聞くこと!」という正論には落とし穴がある。

バイトのオペレーションとか、聞いて答えがあることなら聞けばいいと思う。その方が話が早い。


ただ、自分にとって、すごく大切なことをバイトのオペレーション同様に考えるとおかしくなる。

あなたの中に、あなたを悩ませ、苦しませることがあるなら、それはバイトのように簡単には解けない。ネットにも載っていない。


人に聞くなら、人が言ったことは、あくまでヒントのひとつとして、割り切っておきたい。答えを出すのは自分でしかない。

少なくとも「分からないことを聞く理由」を一度、自分の中で揉んでおくとおかないでは、受け止めて自分の頭に入ってきたときのクオリティが変わる。 


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まぁでも、なんだかんだ学ぶというのは面白い。道を探して迷っているときは楽しい。


うまくいけばもちろんいいけど、失敗してもその楽しさが消滅するわけではない。そこまでは楽しめたのだから、無から有を得た気分になる。


切羽詰まっても、大したことは見えてこない。どっちを向いているにせよ、自分が向いている方向へ進みさえすれば、それは前進と呼んでいい。

「人に聞いても、調べても、分からない問題に取り組んでいる」

そんな時間を楽しんでいきたい。
そうしないと、解けるものも解けない気がする。

 
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「QOOLANDでなんかものすごくよかった歌詞があるんだけど、思い出せません。なんだと思いますか?」



というご質問が届いた。

申し訳ないが、正直、トチ狂ったご質問だと思った。

ノーヒントすぎる。これを僕が分かるわけがない。



だけど、少し時間をおくと、とてもいいなぁと思ったお話を書こうと思う。



どうやら僕は何かのフレーズを作ったらしい。

そして、この人に「なんかものすごくよかった」という印象だけを覚えてもらっているのだ。 


すなわち抽象だ。



歌詞やらメロディやら具体的な記号的な何かが抜け落ちて、抽象的な印象だけが頭に残っている状態である。



普通の人は具体的なものばかり覚えて、本質が抜け落ちることがある。

具体的なことや名言ばかり覚えて、その部分をコピーして伝えようとする。



でも、一番大切なことは''その歌詞やメロディ、フレーズ、文章を浴びて自分がどう感じたか''だ。


記号的な部分よりも、そこから頭のなかに生みだしたイメージの方が、ずっと大切なはずだ。

それが大切だから、この質問をくれた人はその部分だけは、抜け落ちなかった。


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具体的な部分に目を奪われすぎると、抽象的な本質を見失うことがある。感覚が鈍ることがある。

装飾的なものだけに囚われて、本質が抜け落ちることがよくよくある。


僕たち作り手や、ちょっとフリークじみてきた小煩いユーザーにありがちだ。



知識や技術はあくまで、記号でしかない。

大切なことは、記号から何を読み取るかだ。 


そう思うと「QOOLANDだったと思うけど、なんかものすごくよかったフレーズがあるんだけど、思い出せない。なんだと思いますか?」という質問が、鋭く見えてくる。




忘れることで抽象化されるのは、人の頭脳というシステムの優れたところだ。

コンピュータは忘れると、失くなる。


まだまだ人間にしかできないことはたくさんある。


 
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僕はゴミ捨て場の前に立ち尽くしていた。

普段なら何てことはない、道すがらの風景でしかないゴミ捨て場だ。だけど、その日は少し違っていた。おかしな物が捨ててあるのだ。


エレキギターだ。

「楽器がゴミ捨て場に捨ててある」という状況が珍しいか、珍しくないかは人によるだろうが、この機種が捨ててあるのは初めて見た。


ジョンレノンが弾いていたリッケンバッカー325という機種だった。

いや、正確にはそれを似せて作ったまがい物かもしれない。なぜなら本来、ヘッドのブランド名が刻まれている箇所には、大きな傷があり、本物の『Rickenbacker』かどうかは確認出来なかったからだ。

手に取ってみると思っているよりも軽い。弦を鳴らす。チューニングがされていて驚いた。


ふと、風が滑るように吹いた。

汗をかいた身体に気持ちがよかった。


僕はギターを持って帰ることにした。

気まぐれではあったし、軽く自嘲気味でもあった。
 

「自分にはゴミ捨て場のギターがお似合いだ」とまでは言わないが、リサイクルに勤しむ主婦のような、少し慈善的な気持ちでそれを持って帰る自分がいた。

それに手入れをすればまだ使えると思った。

偽物でもジョンのモデルのギターを弾けば、すり減った気持ちも、幾分マシになるという気もした。

 

自宅に着いた。

築30年以上の木造住宅だ。
 

ドアのポストによく分からないチラシがいくつか入っていた。

ジーンズのポケットから鍵を取り出して、鍵穴に入れて回す。


「あれ?」思わず声が出ていた。

と言うのも鍵の開いた感触がない。
 

閉まった鍵を右に回し、ガチャリと開けるあの独特の感触が無い。

素振りをしているみたいだった。どうやら鍵が開いているようだった。
 

(出るとき閉め忘れたかな……)そう思ったが、家に入ると、部屋中のすべての電気がついていた。

 

今度は出るとき消し忘れたかな、とは思わなかった。

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「完全にキツかったときが二回ある」と先日、父親に言われた。


先日、友達にも『キツかったときの話』をしてもらった。僕も僕のキツかったときの話をした。


好きな人たちはけっこう『キツかったときの話』を持っている。



あなたも今現在キツイかもしれない。
そんなときは『誰だって、キツイときがある』ということを思い出すといい。


そして、もう一つ覚えていて欲しいのは、キツくなったときは、そこが勝負なんだということ。それとそのキツくなったところが人に話すと、じつは一番面白いところだったりするということだ。


友人たちの『キツかった話』はまぁ、じつに面白い。興味深いことばかりだ。

みんな、そのハードルをもう越えているので、笑いながら話せる。犯した過ちも「へぇー!」となる話ばかりだ。


彼らに共通することは、キツかったときに前線から逃げ出さなかったことだ。
だから面白いのだ。そのマニュアル外の処世術、サバイバル列伝はドキュメンタリーとして、聞く者を魅了する。


とりあえずやる気を無くしてもいい。
誤魔化してもいい。
休んでもいい。
諦めてもいい。

投げ出さなければいいのだ。

みんな誰のせいにもせず、ちゃんと自分の中で苦しんできた。


QOOLAND他の三人もそうだ。2016年の最初はずいぶんとキツかった、

大事なのは『キツイときに誤魔化しながらでも、前線に身体を残すこと』だ。

身体が残ってさえいれば、態勢を整えて持ち直すことができる。

だから、いっときの感情で投げ出して、大切なものを見失うのは危険だ。取り返しがつかないことにだってなる。身体が残っていなければ、態勢を整えることはできない。
自ら捨てたものは二度と返ってこない。

大好きな人たちは、みんな態勢を残す強さを持っていた。
身体を残して残して、もうダメだ、諦める!となったときも、そのギリギリまで残していた片手で、逆転した話もある。

僕の人間好みアンテナは、わりかしそこに張られている。

その強さを持っている人は面白い。

前線に残る『強さ』というのは、適当に誤魔化す『弱さ』でもある。
生き残る『強さ』というのは、結論を急がない『弱さ』でもある。

だけど、一見、弱く見えても『大切なものを失わない』という最大のミッションを貫徹するのは、やはり『強い』人なのだと思う。

大切なものがちゃんと、大切にされているブレなさを感じる。

そういう強さを持つ人が好きだし、憧れているし、なりたいとも思う。

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考えても仕方ないし、考えすぎると首を吊ってしまうのでやめておくが、2017年も「キツイこと」が来るかもしれない。


「さすがにどうしようもないし、たぶんコレはもうむりかもしんないわ。誰が悪いわけじゃないけどさ」

というド級のキツイことがもし来たら・・・。

考えただけでドアノブとロープが恋しくなる。


でも、もし訪れても、僕はギリギリまで身体を残そうと思う。

いろんなことから逃げ回ってでも、身体さえ残していれば、カウンターが決まるときがある。そのカウンターが、大切なものを護る決め手になったりする。

逃げるは恥だが役に立つ、らしい。


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丸くなったとか優しくなったとか、年齢を重ねると言われることがあるらしい。 


それらは「思いやりが生まれた」ということだろう。基本的には、成長の表現で使われる。

経験が重なることで、人として、より精錬され
て熟達した結果、他者への配慮が目に見て取れるようになったやんけ、お前。という意味合いなのだろう。


これはある日、ある年齢に到達した瞬間に手に入るよ、というものでもない。


基本的には19歳と20歳では、20歳の方が「優しくて丸い」し、25歳と30歳では30歳の方がより良くなっている。もっと言えば11歳と12歳なら、12歳の方が優しくて丸いだろう。



他者への気配りや社会性みたいなものは、あくまで、少しずつ、ゆるやかに研磨されていく。川の流れが岩を削るように、ゆっくりとかたちを変える。



僕だってそうだ。
15や19のときと比べたら丸くなっていると思う。去年より今年の方が優しくなっているはずだ(たぶん)。


少しもなっていないのであれば、「反省」というやつが足りないのだ。


『反省』という意味もむかしはちゃんと分かっていなかった。
反省とは「なんかミスって、それを悔いている感じをかもしだして、落ち込んでるっぽい雰囲気をまわりにアピールする」だと思っていた。

これには「反省しろー!」「反省の色がみえない!」という人々の言葉をシャットアウトするという効果がある。

でも、それでは現状の情勢はまったく変わらない。



反省というのは、『自分の行動を分析し、失敗の理由を考えて、それを繰り返さない対策を練る』ということだ。

そして、なぜその間違った理由が正しく見えてしまったのかを考察するところまでだ。

だいたいが自分の思い込みであり、「願望」によるレンズのひずみに起因している。
ようするに「その道を選んだのにも、明らかな理由がある」と、でっち上げたのは、他ならぬ馬鹿な自分だということだ。



思い込みというより、感情に流された結果、思考停止して、イタイ目を食っただけだ。こういうときは、負けるべくして負けている。


『反省』をしっかり使えば、けっこうな確率で前と同じ失敗を繰り返さない。

おそらくトライアンドエラーは、僕たちを優しく、丸くすることに一役買っている。自分の感情による過失に直面するからだ。
人は感情的になると、他者を責め、裁こうとする。

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『思いやり』というやつは『むかしは無かったけど、成長して得られること』の代表的なもののように思える。
『落ち着き』『優しさ』『丸さ』なんかもそうだろう。

みんなが手に入れていくし、僕も少なからずその節はある(気がする)。

だけど、まわりがどんどん手にするのに、いっさい変わらないものもある。


『安心、安全、不安定』だ。


いまだに危ないことをしとかないとダメなのだ。
心理的にも身体的にも安心していたり、安全だったりすると、気持ち悪くて仕方ない。壊したくなるし、壊れるような要素を携えていたい。


何かしら「いつか全部終了する」みたいな導火線が無いと、生きている感覚がしないし、そもそも面白くもなんとも思えないのだ。


「そういう考えは少しずつ変わってくる」と言われたことがあったけど、変わらない。
他は変わった自覚があるけど、このデンジャラスジャンキーの性質だけは変わる様子が無い。


しかし、人それぞれ好きな感覚は違うはずだ。それの中毒者だって、いてもいいと思う。

ボクシングなんかは一度ハマると、なかなか抜けられないそうだ。
人前で殴り合うことに代わる刺激なんて、日常生活にはまず無いから、ドーパミンが足りなくなると聞いた。
マイクタイソンも「殴り合っているとき以外、死んでいるのと同じだ」と言っていた。


辰吉もいまだに現役だ。
だけどもう脳も身体もボロボロで、正直、プロテストにも受からないような状態だそうだ。だけど、死ぬまで戦い続けるのだろう。

少し分かる気もする。


逆に安心や安全、安定を好む人を見ると、「それそんなにいいか?」と思ってしまう。

もちろん人の自由だし、そんなこと言う筋合いも無い。角を立てたくないし、言う必要も無い。
それぞれが好きなものを追い求めて、やりたいことをすればいい。 

僕から見ると、人は理解できないし、人から見ると僕に理解できないところがあって当然だ。だからこそ付き合うのが面白い。


ただ、自分がやりたいこと、好むものがみんなもやりたいことだと、勝手に決めないでほしい。

人間にはいろんなタイプがいる。

変わらない状態や、身元や肩書きの保証、式と名のつくものが大好きな人だっている。それらが嫌いな人だっている。

だけど、常識というものが、広くすべての人間に浸透していて、そうでない人間を否定するという考え方は危険だ。



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最後になるであろう『独りQOOLAND』が今月15日と29日にある。


そう、いよいよラストダンスだ。
終わらせようと思った。

『独り』をやりたくなくなったわけでもないし、嫌になったわけでもない。

むしろ弾き語りというスタイルは、曲の本質があらわになるから、大好きだ。

ではなぜラストなのか。


本体の『4人QOOLAND』のスタイルが変わってきたためだ。いやいや、人のせいにしているわけではない。というより4人のうち、1/4は自分だ。


要因は先ほど書いた『曲の本質』というものにある。

そもそも『独り』は曲の本質に別の光を当てたいから始めたことだ。



4人QOOLANDはこの『曲の本質』をさらに深く掘り返すようになった。

この穴はとても深くて、まだまだ至らない。
だけど、そこに至ったときの風景は、なんとなくイメージができるようになった。  至るまでに落盤して死ぬかもしれないけど。

イメージしている風景と比べると『独り』で見せられる風景は、ずいぶんリアリティに欠けるものになりそうなのだ。

今すぐにではないけど、将来まったく太刀打ちできなくなる。独りの風景と4人の風景の深度に、ものすごい差が生まれてくる。

今までは「独りと4人では、そもそも違うものだから」という話だったが、質が比べ物にならなくなってきたら、その言い草は通らなくなる。あくまで、自分の中で通らなくなる。



なんだかライブというものや、歌詞というもの、音楽というもの全般がデジタルだ、と思うときがある。
音楽好き、小説好きな人たちがハイパーデジタル人間に思えもする。


記憶やイメージ、考えること、歌の世界の雰囲気。これらはすべてアナログで考える。「なんかそんな感じ」だ。

それらを、歌詞やメロディ、演奏、照明、ステージングというデジタル記号に変換している。

頭の中にあるアナログデータのほんの一部だけが、外へ出てステージから伝達される。

みんながそのデジタルデータを、頭の中でアナログデータに変換すして、頭に保存される。


『独り』というインターフェースと『4人』というインターフェースでは、記号化の仕方が違う。すると、見える風景が少し変わったりする。


ただ4人というインターフェースが、かなり細かいところまで、記号化できるようになっていきそうだ。ビット数が大きくなったのか、サンプリングレートが上がったのか。


ファミコンは8ビット、スーファミは16ビット、Nintendo64は64ビット。


この差がそこまで開いてなければ、ファミコンなりの面白さもあるのだけど、限度もある。いよいよ限度が訪れそうだ、という話。

そして、これはおめでたい話だとも思っている。ハードが次世代になれば、もっともっと面白いソフトが生まれてくる。
ファミコンではスマブラは再現できなかったし、マリオカートも表現できなかった。
バイオハザードや、FFシリーズ二桁以降の規模感もファミコンには無理だ。


ラストダンス。
ふさわしく舞おう思います。
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知らない分野の話なのに、「あ、それなんか分かるかも」と思える話がある。

その回数がむかしより増えた。

なんでだろう。
もしかしたら自分が好きな分野を、もっと深く好きになったからかなぁと思った。


人間、知らないフィールドの話でも、自分の知っていることを手がかりにして、想像することができる。
好きなことを深めることは、他の分野への想像を深めることになる。

逆に広く浅くしか知らないと、想像が浅くなる。広まって拡散してばかりいると、深く楽しむ面白さを忘れてしまいそうになる。


ネット、テレビ、新聞でなにかを知るよりも、僕は本で知る方が好きだ。
なぜだろうかと考えてたのだけど、たぶん書かれている深度が違うからだ。

掘り下げるレベルに関しては、やはり一冊の本の方が勝る。

むかし「新聞を読まないと時代についていけなくなる」と言っている人がいた。
でも「あの程度の時代なら、ついていけなくてもいいんじゃない?」とも最近思う。

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しかし、得意なことを深めていることが、知らないことを深める想像力になるならば、こんなに良いことは無い。


専門外の分野、知らない仕事の話を聞ける機会が楽しみになる。自分の深めている道が、思いもよらないところで活躍するのは面白い。


そうなってくると、あらゆる話に「どうせ分からないから」と拒否する必要もない。

「自分は前にも分かろうとしたけど、ダメだった」も同様だ。

できるようになっているかもしれないし、分かるようになっているかもしれないのだから。

以前より、あなたの好きなことや得意なことが進んだのなら、嫌いなことや苦手なことへの想像力も膨らんでいる可能性がある。
 
身体能力に関することは限界があるけど、「なにかを分かろうとする」ことに限界なんて無いと思う。

世間には「分かりやすい」や「読みやすい」「聴きやすい」が増えている。

だけど、もちろんそれ以外の面白いものだって、たくさんある。

知らないことを想像して、たどり着く面白さは「読みやすい」ものや「聴きやすい」ものの中には少ないように思える。

 
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一昨日、年内最後のライブがあった。

全国にいる多くの演者たちは、2016年に撒いた伏線、その回収に本気だったことだろう。『終わり良ければすべて良し』だ。


そんな年の瀬の空気をまったく読めていなくて、大変恐縮なのだが、僕には『締めくくり』や『総決算』というつもりが無かった。
僕たちの2016年を引っ張ってきてくれた曲も演らなかった。

自分たちの暦と、グレグリオ暦365日がズレてしまったなぁ、と思っていた。

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では僕たちの年内の総決算、締めくくりはドコだったのかなぁと考えていた。


ふりかえると、10月15日のクレストだったと思う。

あれは、2016年1月からの着地点だった。

もちろん10月の時点では、そんなこと考えていなかった。
ただ「こちら2ヶ月後、未来の平井時間軸から見たら」、ひとつのゴールだった。


あの10月以降僕たちは、自らを変えていった。


合宿やまわりの声、自分たちの声をキッカケにサナギになった。

そして、少しずつ変態していこうした。


秋を経て、インディーズを終わらせた日に、サナギの様相も変わり始めた。


一昨日のライブは、それから始めての都内だった。


サナギには「今年をまとめよう」などという気持ちは微塵も無かった。
サナギはサナギなりに、一刻も早く羽化したいだけだ。サナギになった以上、デッドオアアライブだからだ。

蝉や蝶のほとんどは、サナギになっても羽化できずに死ぬ。
その中で化けられるやつ、飛べるやつは一握りだ

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誤解されそうだけど、『先ばかり見ている』とかいう話じゃない。むしろ逆だよ、と書いておく。


もしも昨日のライブでQOOLANDが解散すると決まっていたとしても、それでも昨日の僕たちは、2017年を引っ張っていってくれる曲を演っていたと思う。
自分たちに2017年が存在しなくても、きっとそうする。

僕たちに今のところ解散の予定は無いけど、いつ終わるかなんて分からない。


明日、タカギが毒を盛られて死ぬかもしれない。純くんが渋谷で通り魔に刺されるかもしれない。菅さんだってトラックに、じっくりと轢かれたら、流石に死ぬ。たぶん内臓とか破裂して死ぬ。


終わりが近くても遠くても、焦点を変えたくない。

終わりが近いか遠いか、死ぬのが見えるか見えないかで、行動や選択が変わるのは悲しい。


急遽、悲報があり、おしまいが訪れたとしよう。

そのとき、心をセーブしていたライブがラストの1本になったら、馬鹿らしい。

「ベストを尽くす」とか書くと手垢のついた言葉になるが、常に気がすむように生きていたい。


「今、俺は一番これが凄いと思っている」というものを結晶化させて、ステージに持ち込みたい。

「ええっちゃええけどさ」ぐらいのレベルのものは手放したくなった。持ち込みたくないし、化け損ねたくない。

僕たちは化けないと気がすまなくなってきた。それなら、気がすむまで化けるために、もがいていたい。

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僕は年末に、終了予定を立てていた。
設定上のラストライブだった。

終了が決まると人間、思い出作りなんかしなくなるなぁと思った。今より0.1mmでも進化したいなぁ、というだけになるみたいだ。

「滅びる直前まで、進みたい」って生物学的に考えると、とても自然なことに感じる。
僕たちいう種の繁栄は、少しでも自らの音楽を前に進めて、凄くしたいだけだった。



しかし、ついに来ると思っていなかった年末にたどり着いてしまった。感慨深いというよりは、現実感が無くてつかみどころが無かった。

楽しいのだけど、あまり長く人がたくさん居るところに居れなかった。

1時に家に着いていた。

いつも朝まで飲んでいるのに、こんな年越しは初めてだった。

大きな声で話すようなことじゃない話ばかりしたくなった。



大晦日の渋谷のストリートは、お互いの生還をねぎらい、みんながみんな楽しくやっていた。

「また365日後も無事に会おうぜ」がアルコールや笑い声に混ざって、あちこちに散らばっていた。

その空気を読みとれないわけじゃないけど、空気の読めない僕は、これからどこに吐き出されればいいのか分からなかった。

 
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変わった年明けだった。


僕はこのタイミングには居なくなっているはずだったのに、普通に話していたし、両の足で立ってもいた。
頭はクッキリしていたし、消滅するどころか、明日からのことばかり考えていた。


念のため書くと、冷めているわけでもないし、僕は僕なりに12月31日を楽しんでいた。


まわりもみんな楽しそうだった。
渋谷の駅にいた人たちも、みんな笑っていた。


護送車や警察車両が立ち並び、それに負けじと、あらゆる場所で乾杯が行われていた。
その姿は、365日という距離を泳ぎきった祝福の宴に見えた。
途中で溺死した人たちの分まで、乾杯が重なっていた。


「ここにいる全員が2016年の1月1日に存在していたんだよなぁ。無事に365日生き残ったんだなぁ。そう考えるとなんか泣けるなぁ」とか考えていた。


その反面、2016年の12月31日にたどり着けなかった人もたくさんいる。生物学的にか、社会的にか、泳ぎきれなかった人もいるはずだった。

そう思うと、渋谷の宴が、12月31日までなんとか泳ぎきった人たちの祭典に見えた。

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いつも思う。
『大晦日』という行事は、楽しいけれど、少し儚い。明るいけれど、少しまばゆい。

それは次の約束が無いから、儚いのではないだろうか。

次の大晦日まで、無事にたどり着ける保証なんて、ドコにも無いのだ。
じっさい、今回だって、たどり着けなかった人はいるのだから。「今年も無事でなにより」という日なのだ。



それにしても、行事という大枠を外から見るのが好きだ。


クリスマスイブに独りでイルミネーションを歩いたり、文化祭の日、屋上に登るような真似ばかりしてきた。
年明けに、総決算とは違う意味合いのライブを演って、静かに過ごすのは同じ手ざわりだった。

行事という大枠の外にいると、中に入れないさびしさを少しと、温かいものを見ている多幸感をたくさん味わえる。その感じが好きなのだ。

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そして瞬く間に元旦だった。

生き残った僕たちは、次は2018年の対岸目がけて泳がないといけない。
大晦日まで来れた人は、次の【2017面・元旦ステージ】に強制ダイブさせられる。

泳ぎきるには、対岸ばかり見ていてもダメらしい。対岸しか見ていないプレイヤーは次々と溺死していった。


今年も、一番近くの足の着くトコロを探していきたいなぁと思う。大変なことはあるだろうけど、泳ぎつないで、結果笑えたらいいなぁ。

爆笑じゃなくても、笑えたらいいなぁ。


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⚫︎「弱さ」のほうが「強さ」より深くて、「欠如」のほうが「充足」より推進力があるということ。


⚫︎作りたい歌の主人公の環境の中には、必ず何らかの『欠落』があるということ。
主人公はその埋め合わせをするために、行動を開始せざるを得ないということ。
曲中の『貫通行動』は欠落環境に対する主人公の「補償行為」にあたり、これが無いと、曲に生命力が宿らないということ。


⚫︎主人公にとって残酷な環境の方が、歌詞は面白くなるということ。


⚫︎動詞の使い方に関心を持つと字数がカットできるケースがあるということ。
動詞には単なる動詞でなく、形容の要素を含んでいるものが多いということ。
たとえば「撫でる」は「表面をてのひらでやさしくさする」の意味であり、「優しく撫でる」と書く必要が無いということ。もちろん、別に書いてもいいということ。


⚫︎「何から手をつけたら良いのかわからない状態」とは「なんでも良いから手をつけた方が良い状態」ということ。始めるには「力」が必要だけど、始めたものを走らせるには「技」が必要だということ。


⚫︎「演劇のアイデアで『そりゃあできたら凄いけど、本当にそんなこと可能なのだろうか』ということが出てきたら、ほぼ可能なことなのです。できる方法を徹底的に考えて、苦労して作って、必死に練習して、涼しい顔で上演するんです」と賢太郎さんが言っていたことは、どうやらマジらしいこと。


⚫︎『書きたいもの』と『書きたいこと』は全然違うということ。『書きたいもの』としてだけで書くと、つまらないものにしかならないこと。


⚫︎『他との違い』とは『やり方が違う』ということではなくて『感動の種類』が他に無いものであるということ。
既存の何かとやり方が重複していることを悔いるのは違うということ。
やり方を重複させても違う地点に着地させられること。


⚫︎ドレミファソラシドと順番に弾いてもメロディにはならないのと同じで、歌詞も順序良く繋いでいくだけでは輝かないということ。


⚫︎簡潔さを求めると曖昧になり、洗練さを心がけると、力強さと気迫が失われるということ。そして、荘重さを表に掲げると、誇張におちいるということ。
技術を欠いているときは、あやまちを避けようとするということ。あやまちを意識すると、かえって過失につながるということ。

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⚫︎曲名やタイトルは最後のフレーズの次に、小声で歌われるようなものであること。


⚫︎受け手が能動的になる余白を残しているものが好きであること。
「わかりやすい」という形容詞は、決して全部説明していたり、内容が浅いことでは無いということ。


⚫︎まだ悩む段階、タイミングではないのに悩むとミスが多くなり、スピードも落ちるということ。


⚫︎「決断」というのは自分の目の前にまっさらな未来が開けているということではなくて、むしろ、過去のクソ同然の自分のふるまいを精算に向かわせるということ。


⚫︎努力、情熱、届けようとする気持ち、などの量について「それらが足りないからダメ」という批判は、大抵違うものが批判されているということ。
『ひたむきさ』や『一生懸命さ』が欠けているという批判や指摘のやり方は手を出しやすいということ。
実際はもっと具体的なところに問題があることばかりだということ。


⚫︎愛情が無いことは悪いことでもなんでもないということ。
ただ、そのコンテンツにおいて、その人が適任じゃないというだけであること。別の愛情が注げることをやればいいだけのこと。愛情が芽生えたときに、また取り掛かればいいこと。


⚫︎『共感」よりも『脅威』を目指して進まないとうまくいかないということ。
『共感』や『親しみやすさ』は背景や内装の一部に自然発生するだけで、あえて目指すものでもないということ。
 
 
⚫︎『ドラマ』と『ストーリー』の違いは葛藤の有無、占有率だということ。
ドラマを歌って、ドラマチックに包んで、ドラマチックに届けると、ソースをかけまくったコロッケのように、ソースの味しかしなくなるということ。バランスがいるということ。


⚫︎「こっちへ進めたい」という、曲自身が持っているエネルギーに導かれないとつまらないということ。
作家の思いどおりに進めている部分が見えすいた仕上りは、ウザくて気色悪いということ。


⚫︎人を殴ったり傷つけたりしてはいけないということ。仮に自分がどれだけ正しくても、攻撃してはいけないということ。

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⚫︎独りぼっちの夜を奮い立たすのは自分自身しかいないということ。


⚫︎今続けていることの理由が「辞められないから」だとマズイということ。
「いつでも辞めれる。いつでも別れられる。でも続ける、一緒にいる。好きだから」の方がいいということ。


⚫︎「白紙に戻ってほしい」と感じるものは消した方がいいということ。
以前からの習慣や、なんとなく続いているもの、一度滑り出した慣性に流されてしまっているものを止めるのは勇気もいるけど、引き下がれないことなんて無いということ。


⚫︎常識や前例、先入観がいろんなことを不可能にしているということ。 


⚫︎「ブランディング」は「実際の姿よりも大きく見せる」のではなくて「実際の姿をちゃんと正しく見せる」ものだということ。


⚫︎人間関係の問題の9割は話さないことだということ。
話してからムダかムダじゃないか決めればいいということ。
話す前から「たぶん聞いてくれないからムダ」で決める人がわりと多いということ。


⚫︎自分を正当化してるときは良くない状態だということ。
人に対して敵対的で、愛情はゼロになりかけているということ。
立場は正しくても、心のあり方は正しくないということ。
「俺は悪くない」を捨てると身体まで軽くなるということ。


⚫︎爆笑したり、良かったことを思い出したり、糖分を摂ったりして、直前に幸福感を感じると人間はハイパフォーマンスを出せるということ。
幸福感を直前に感じた人間と、感じなかった人間を競争させると、前者は2倍のスピードで意思決定でき、判断ミスは半分以下になったというデータは真実だということ。


⚫︎夜寝る時の心理状態は朝起きた時の心理状態と同じだということ。
気分良く寝ると気分良く起きれて、次の日気分良く過ごせるらしいから気分良く寝ると良いということ。


⚫︎「自信を持つ」は「自分を舐めないで」と言い換えられるということ。
自分が信じられなくても、舐めたりバカにしちゃいけないんだということ。
ダイエットや禁酒、禁煙は自分を舐めたときに崩れ落ちるのかもしれないが、そう考えると、僕は意外と自分を舐めていないということ。
 
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⚫︎何が好きかは大切だけど「何で好きか」を知ることは、もっと大切だということ。
「何が好きか」だけを揃えても、それの偽物しか作れないということ。
逆に「何で好きか」は自分の中に答えがあることなので、そこにオリジナルを生むためのヒントがあるということ。


⚫︎数字はモチベーションになり得ても、目的にはならないということ。


⚫︎自分のやりたいようにやると、仲良くなれそうだった人がもっと仲良くなるということ。
反面、ごまかして繋いでいた人と、繋がれなくなってくるということ。


⚫︎恥を捨てるって勇気がいるけど、本人的にはドキドキだったり気にしまくってることが、誰かからすると、「それ待ってました!」ということだったりするということ。
『今年気づいたこと』なんて書くのは正直恥ずかしいし、種明かしになる。でも、この記事を楽しんでいる人もいるのだろうということ。


⚫︎「自分だけにしかできない事!」で仕事を探すと難しいということ。
「他の人は耐えられないだろうけど自分なら苦じゃないなぁ」とかで充分。「向いてる仕事」なんてそんなもんでいいということ。
「自分特有の長所」は他にやっている人が大勢いても長所だということ。


⚫︎新しいことを始める時は不安と批判と中止する理由が殺到するということ。
だから 「とてつもないことが始まろうとしている」と思って新しいことを始めないといけないということ。


⚫︎「良いバンド」の定義が定まったこと。
曲が良い、歌や演奏が上手い、仲が良い。色々あるけど、「こうありたい、こうやりたいと考えてる事と実際のあり方、やっていることの誤差が少ないバンド」が一番だということ。


⚫︎目標が高いほど努力と結果にはタイムラグがあるということ。


⚫︎強い人は優しいということ。
そういう人に支えられているということ。
困ったことを打ち明けられる人がいるといないじゃ、復活までのスピードが全然違うということ。


⚫︎「活かせる情報」と「活かせない情報」があるけど、「活かせない情報」の方が多いということ。
吸収する努力とおなじぐらい、余計な情報が入ってこないようにする努力がいるということ。
インターネットを生活に取り入れる難しさの真髄は「削り」にあるということ。


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⚫︎自分と原因はいくらでも変えられるけど、他人と結果は変えられないということ。
変えられないことで頭を抱えている時間はムダだということ。


⚫︎問題なんて自分が跳ねのけようとした時点で、半分ぐらいは跳ねのけたに近いということ。


⚫︎やりたいことをやるために、やらなきゃいけないやりたくないことで駆けずりまわる日もあるということ。
やりたいことをやるのは代償がいるということ。
人生使って仕掛ければ傷ついたり笑われたり痛めたりするということ。
でも無事でいることに価値なんて何も無いということ。


⚫︎進路に迷ったら一番勇気のいる道が進むべき道だということ。
二度と現状に戻れない方を選んでいかないといけないということ。


⚫︎差し迫ると、人生も勇気のいる道に突撃するか、棒に振るかのどちらかしか無いということ。


⚫︎自らの思考を口にして外気に触れさせて、他者の耳に通すと、意味合いが変わるということ。


⚫︎終末トランスは年末に更新しないといけないということ。
次のおしまいに向かって走らないといけないということ。
おしまいについて書くのは、おしまい直前と決めているから誰にも言えないということ。


⚫︎古きを訪ねて新しきを知るということ。
以前から知っている人でも、様々な新しい、知らない魅力があるということ。
その人がレベルアップして、新たな魅力を携えたのはもちろんだが、その魅力を受け取れるかどうかも自分の力量次第だということ。
ヘタクソが1億円のヴァイオリンを弾いても、良さが分からないということ。
弾き手の力量あっての楽器であるのと同様、すべての事柄は受け手で決まるということ。
「毎日つまんない!」と言っているのは、その人がつまらない人間だということ。


⚫︎嫌いな人も嫌いな人なりに、大変だし苦労しているということ、好きな人はとてつもなく凄いということ。


⚫︎今年気付いたことは、反映されるのが来年であるということ。




LINE LIVEで決まった企画「今年気づいたことを報告する」でした。

いかがでしたでしょうか。 

気づきの連発の一年だったなぁと思います。

後2時間で2016年もおしまいですが、今年はここLINE BLOGにたくさん来てくれてありがとうございました。

 

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