西武新宿駅のホームに立っていた。太陽がガラス越しに突き刺さるせいで、気温以上に暑く感じる。

この西武新宿線は普段乗らない電鉄なのだけど、最近とても好き。
レコーディングスタジオが武蔵関駅というところなので、この夏は数回乗るようになった。

車窓に田舎めいた風景が何度も映し出される。
このフィーリングは小田急線にも京王線にも感じるが、西武新宿線はそのスピードがじつに早い。
ものの数分で新宿とはかけ離れた別次元に連れて行ってくれる。

武蔵関という駅に着くと、空がこれでもかというぐらい青かった。そんなに離れていないのに新宿とは透明度が違うように思えた。

_var_mobile_Media_DCIM_100APPLE_IMG_0685.JPG知らないのに降りたくなる駅がたくさんあった。
行きたい場所には行っとける人間でいたい。やりたいことも会いたいひとも全部そうだ。

自分の中の欲求が減ってくると要注意だ。何かしら状態が良くないのだろう。

どんどん暑くなるけど、熱いものを作った。お楽しみに。


1/4の音源が2/4の特典です。
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難しいところや相反するプロジェクトを簡単に諦めないひとがいる。凄いと思う。難しい負荷を積み重ねると、成長の速度も凄まじい。

ユニクロの「安いけど高機能」やアップルの「シンプルなのに唯一無二」も同様だろう。

こういう部分って、ふつう諦めてしまう。対立的な要求に対して、アクセルを踏めるひとは少数派だ。
困難な試みに直面すると、効率的なやり口を探してしまうのは人情だろう。

対立的な要求は「高品質にしたいならそれなりのコストがかかるよ」や「シンプルにすると原始的になって、差別化は難しいよ」などと諦めの論理も探しやすい。

聞き分けがいいのも大事だけれど、「そりゃごもっともですけど、でも俺は足掻いてみるわ」を貫くのも大事らしい。
身体をねじりながら矛盾する要求をアクロバティックにクリアしていくのだ。


音源の制作中、僕たちにもそんなシーンが訪れた。
音のイメージや要求を文章で伝えないといけない場面があった。

少しやりとりするも、序盤でボキッと折れた。

「抽象的なものを文章で伝えるのは難しい」
「いろいろ言っても難しい」
「直接やりとりした方がいい」

やらが飛び交った。僕もそう思った。「そらそうじゃ。ムズすぎるやん」となった。

「離れている場所で、制作を進めるのは困難を極める」というのは間違いない。

でも離れているところで少しでも進めていけば、スタジオに行ったとき、目指せる標高がずいぶん違うのも分かっている。出来なかった。

でも菅さんが実際にやりとりして、一定のクオリティまでたどり着いた。
奇想天外なやり方ではなく、ひとつずつ丁寧に「伝えよう」と「受け取ろう」がキャッチボールされただけだった。

論理で抽象的なことを取り扱えるひとの特徴って、言葉が上手いとか文章が上手いとかそういう次元ではなかったりする。スピリッツとかハートとか気合いみたいなものに感じる。

「凄いひとはやっぱ凄いなぁ」とIQを2ぐらいにしたくなる現象だった。自分自身も、もうちょいマシになればなぁとも思う。

常識とか「普通はこう」とかを取っ払うのがイノベーションのキッカケと言うけれど、些細な部分を諦めないことからなのかなぁと骨身に沁みた一件だった。

1/4の音源が2/4の来場者特典です。
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渋谷でゲリラライブだった。ライブが久しぶりに感じる。会えたひとたちありがとう。


「ひとの話を聞かないやつはだめだ」と昔先生に言われた。
当時はすげーこと言うなこいつと思ったが、あれから何回も同じフレーズを聞いた。果たして本当なのだろうか。

僕も人間を何年かやって来た。
そして今のとこの見解は少し違う。

「ひとの話をよく聞くこと」が大切なのだけれど、大切な枕詞が要る。

それが「あなたの知っている」だ。
僕たちは「知っているひとの話」を聞かないといけない。

「知らないひとの批判」なんて聞くと頭がアレになる。聞いてはいけない。

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「よく知らないひとの批判を自分の心に入れないこと」 ってすごく大切だ。

ネット社会が反映してから、よく知らないひとの批判が入ってきやすくなった。

現実社会でも知らないひとが家にいきなり入ってこようとしたら嫌だろう。というかヤバイだろう。それと同じだ。戸締まりしよう。

簡単に言うと「よく知らんやつにケチ付けられても耳を塞ごう」ということだ。

「お前誰だ。消え失せろ」というスピリッツがいる。


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この手の話をすると「批判意見から学ぶこともあるんじゃない?」というカウンターが飛んでくる。
確かに有るは有るが、そんなもの100に一つぐらいだ。

そんな玉石混合の場所で、良いものだけに触れるなんて人間ワザではない。

むしろやっていることに迷いが生まれたり、鋭さが失われてつまらなくなるリスクの方が高い。

ひとの脳は情報を見るだけで、無意識下にインプットされてしまう。当然、パフォーマンスや思考力は落ちる。


知らないやつがいきなりあなたの家に入ってきて、何かしらメリットもあるだろうか。
100に一つぐらいならあるかもしれない。でもどう考えても危険なことの方が多いだろう。それと同じだ。よく知らんやつは家にあげない。心にもあげないだ。


そんな危険を犯すぐらいなら「あなたのよく知っているひとの話を聞く」の方が何倍もいい。

あなたが信頼できるひとの話は、わけのわからんやつの話とはクオリティが違う。
「心のこもった話」って、そういう簡単なレベルで到達する。


「選択肢を増やす」「たくさんの情報に触れる」「広い視野を持つ」が薬となる場面は多い。

でも薬だって用法、容量を間違えると毒になる。


正論に押しつぶされないように夏をくぐり抜けたい。あなたも夏とかつまんねーやつに負けないでほしい。


1/4の音源が2/4の来場者特典です。
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「先日ドラえもんのひみつ道具でほしいなら何?」の議題を設けた。(もしもボックスはNG)


この話は1時間以上は話せるし、どんどん発展していく。友達と試してみてほしい。僕は日本国民全員がそれなりにドラえもんに詳しいと思っている。


しかし「なぜこの話は盛り上がるのだろうか」と考えていた。
そのひとの求めているものが分かるからだろうか。たしかに、ひとは欲しいものを教え合うと仲良くなれるケースがある。


そして「タイムマシン」と答えるひとが意外と少ない。
もしかしたら僕たちは、未来にも過去にも意外と興味が無いのかもしれない。

反面、どこでもドアは意外にも人気がある。
タイムマシンは「今の暮らしを良くする」ではないけれど、どこでもドアは「今の暮らしを良くする」に繋がるからだろうか。

だけど、どこでもドアについて考えるといつも少し寂しくなる。


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どこでもドアが発明されたら、世界中の流通システムや交通システムが洗いざらい無くなるだろう。
車も電車も飛行機も無くなる。国境という概念も必要なくなる。宇宙船地球号の真の誕生と言える。


だが、失うものがある。

「時間」という大きなものの代償はなんだろう。たぶん、「情緒」とか「趣き」みたいなものだ。

宇多田ヒカルのtravelingは歌えなくなるし、電車男のようなロマンも見られない。
時刻表トリックも使えなくなるし、あらゆる脱出系パニックフィクションもこの世から消える。


携帯電話の誕生はそれかもしれない。

命がけの待ち合わせが無くなった。「ごめん、今日行くの無理になったわ」が不可能だった世界を僕たちは生きていない。80年代って、遅刻がとてつもない大罪だったんじゃないだろうか。想像を絶する。
でも、その中で生まれたロマンがきっとあったのだ。

「きっと君は来ない。一人きりのクリスマスイブ」という歌詞を今の時代書けるひとはもういない。
 
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「足りないからこそ起きる面白さ」がこの世には存在する。

江戸時代に比べて、炊事洗濯掃除などの家事が楽になった。でもそのせいで基礎体力や筋力が落ちてしまい、結果体温が下がって病気を招いているというケースもあるようだ。


「足りない足りない」と言っているかもしれないけれど、じつはそれ故に手に入っているものもある。そんなことばかりだ。足りすぎていると満腹中毒になる。

困ったら静かな海とか見にいくといい。あそこにはタイムラインも悩みも数字も無い。何もない。欠落が有る。


8/21は「This is QOOLAND 1/4」の音源数曲が来場者特典。お楽しみに。
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置きたら身体が痛い。


筋肉痛かと思ったけれど、一昨日合法的に殴られすぎたせいだった。馬鹿な頭がもっと馬鹿になると思った。だけど、なんだかんだ低気圧も感じた。



人間をそれなりに長くやっていると、テンションを守るのが難しい日がある。 

あなたにもテンションを守るためのワザがあるのではないだろうか。



コンビニスイーツなのか、恋人との密会なのか、酒なのか分からないが、有ると無いでは有った方がいい。というより、自分なりに自分のテンションを守る術を持ってないと、真っ逆さまになる。 


世の中にはやりきれない日が沢山挟まっている。

そのローな日をどういなして進むかだ。 


023


昨日は友達といたのだけれど、遊ぶような友達がそんなにいない。

僕には「友達と遊んでリフレッシュ」という手札が無い。



「友達」という手札を心のよりどころにしているひとからしたら想像を絶する状態だろう。

もちろん、僕にはなんてことない。その手札を頼りにしてきたことなんて一度も無いからだ。



なんだか寂しいひとみたいだけれど、そんなに寂しくはない。


ひとにはそれぞれ自分の身と心を温めるものがある。それでいいんじゃないかと思う。僕には僕で依存しているものがあるし、それを失うとキツイなぁと思う。ひとによって違う。それでいい。


みんな今日もここに来てくれてありがとう。



This is QOOLAND2/4に来てくれたら、1/4のライブ音源を数曲プレゼント。前回来れなかったひとも来れたひとも思い出してほしい。1/4があったから2/4が出来る。

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大阪市淀川区にある町十三(じゅうそう)。19歳から22歳まで僕はこの町で暮らすことになった。

十三駅は大阪最大のターミナル梅田駅の隣りということもあって、立地や交通の便はとても良い。
だが飲み屋を中心とした歓楽街であり、治安は決して良くなかった。そのせいで不人気なのかわりと家賃は安かった。

僕は無知と怠慢からそのあたりの情報をまったく調べず、この十三に家を決めた。

大人たちは不良が発生しない環境を必死に作ろうとしていた。夜の11時に町唯一のコンビニは閉まり、常に父兄や警察の巡回があった。もはや治安を良くするためなら、いかなる文化も施設も断絶しそうな勢いだった。自動販売機一つ設置するのに、PTAやら自治会やらの会議がいくつも必要だった。TSUTAYAができたのは僕が18のときだった。

そんな保護に保護を重ねた、無菌室のような環境で僕は育った。
それがいきなり歓楽街での一人暮らしだ。温室からアフリカのサバンナに放り出された気がした。とてもつらかった。

だが十三で暮らした最初の1カ月、18歳の4月のことは今でも忘れられない。

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暖かくなりはじめ、町には新生活に胸を躍らす学生や新社会人があふれていた。

地元の駅から市営地下鉄で三ノ宮駅まで30分。そこから阪急電鉄に乗り換え、28分で十三に到着する。三宮から十三に行くまで、いくつかの河川を通る。

車窓から覗く草木の緑と空の色がすごく綺麗だった。


十三に着くと、駅に何人もの酔っ払いが寝転んでいた。遠くでおおよそ聞き取れない怒鳴り声が鳴っていた。


パチンコ屋の騒音が外に漏れまくっていて、耳が割れそうだった。
ゴミと吐瀉物が散らばる地面の先にはおびただしい数の自転車が並んでいた。

家を決めに来たときはこんなに汚い町に見えなかった。不動産屋に車で連れてきてもらったからだろうか。


さっきまでの青く見えた空が灰色がかって見えた。
気がつくと実際にグレーがかっていた。次第に大粒の雨が降り注いだ。


僕は駅の売店で傘を買い、近くのラーメン屋に入った。朝から何も食べていなかった。このとき食べたラーメンの味をまるで覚えていない。数分後に起きる事件のインパクトが強すぎた。


店を出ると傘立てに置いていた傘を盗まれていた。衝撃だった。僕の育ってきた温室環境からすると「傘を盗まれる」ということは大事件だった。


傘一本が惜しい惜しくないという話ではなく、「誰かの物だけど、俺が雨に打たれるのは嫌だ。コイツが困ってもいいから盗もう」という絶対的な悪意がすぐそばにあったという事実。そして、それが自分自身に切っ先を向けたことに、僕は恐怖した。


傘一本で血の気が引いたのは、人生後にも先にもあの一度きりだ。今、財布を盗まれても、あの一本の傘が無くなった心的ダメージには及ばないだろう。それぐらい衝撃的だった。

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おそらく傘を盗んだ人物は僕が泣こうがわめこうが、心を痛めない。目の前で僕が死にそうになっていても、助けないのではないかとさえ思う。その事実が怖かった。
僕の身を案じない人も、この世には存在するということがたしかに具現化した。


大人たちはいつも僕を心配した。

保護し、危険にあわないように守ってきてくれた。そんな僕が初めて世間の荒波に触れたのがこの「十三傘盗難事件」だった。


その後、僕はその町で暮らし、人生史上最悪レベルの貧乏生活に突入する。

アルバイトもなかなか受からず、受かっても適合できずに苦しんだ。ピンクチラシを配布するアルバイトすら、まともにやれなかった。
社会悪のような仕事すら人並みにできない自分を呪った。


一日の食費を800円までとした。限りある食費を野菜には使わなかった。空腹を満たせないからだ。
コストパフォーマンスの概念は腹持ちしか無く、野菜が不足した生活を送った。ビタミンが不足して、うつになっていた。


しばらく、路上ライブとメイドカフェでギターを弾いて歌う活動のみで生活する日々が続いた。

メイドカフェの仕事は路上ライブをしていたときに見つけた。
オーナーからそこで歌ってくれと頼まれやっていた。一回5000円貰えたのは貴重な収入源だった。


路上で歌う活動は日常化していた
ゴミの散らばる道ばたにあぐらをかいて歌うのは楽しかった。小綺麗な地元に住んでいた頃の僕が見たら、腰を抜かしそうな絵面だったと思う。

だが、妙にしっくり来たのだ。
それまで嫌いだった汚く野蛮な町と、そこに住む人々の魅力は一度座り込まないと気付かなかった。

自転車のサドルよりも低い位置から目を凝らさないと、見えない星がたくさん瞬いていた。


っ払いは1000円と1万円を間違えて僕のギターケースに放り込んだ。

ニューハーフにギターを貸したら、僕よりもはるかに上手かった。

貧しい祖国の話をしてくれるアジア人が何人もいた。路上で知り合った女のひとはみんな泣いていた。


それぞれの人生があり、必ずしも汚れたものではなかった。むしろ、僕の地元では聞けないようなドラマが人の数だけ存在した。


彼らの歌もいくつか書いた。書かざるを得ないような歌がいくつもあった。
今思うと、あの人たちの経験をあのとき聞かせてもらったのは、お金に換えられない価値があったんじゃないだろうか。


十三では苦しいこと、理不尽なこともたくさんあった。それでもあの町で暮らしてよかったと思う。

素直に感謝している。僕がずっと地元で暮らしていたら、おそらく音楽を続けていられなかっただろうから。


いろいろな種類の「正しさ」が混ざり合ったあの町で、僕は僕にとっての「正しさ」を探し続けた。

あのときに味わった「町に問われ、それに答える」という経験は僕の人格の核となる部分を形成してくれた。

先月、久しぶりに寄ってみたが、以前よりも綺麗になっていた。あの頃より空の色も青く見えた。

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また公共の場所に注意喚起が増えた気がする。
駅や公園、食品やライブハウスの楽屋。何から何まで過保護に注意書きが書かれていて、
もはや適度という域を完全に超えている。
「気をつけろ」も与えすぎると変に甘えた人が量産される。自己責任で生きていきたい。


どこにいても「気をつけろ」が多い。

個人差があるかもしれないけど多いと思う。
「アブナイ!もっと増やせ!」と思っている人もいるかもしれない。
 
でもホントに注意書き、多くないかな。どうだろう。


駅には歩きスマホ禁止。と書いているし、
公園にはボール遊び禁止、大声禁止、自転車乗り入れ禁止。
楽屋にも貴重品の管理の注意。 


僕らが危ない目に合わないように注意してくれてるのは分かる。

それにしてもちょっと注意多すぎじゃないかとも思う。

公園の画像を貼り付けよう。




僕がもしこの公園で遊ぶ子どもだったら
「もう、むしろやっていいことだけ書いてくんない?」と思う。


これだけの量の「気をつけろ」を浴びると、無意識に責任感がおかしなバランスにならないだろうか。
自己責任感を育む大切さよりも、浴びる注意の質と量に論点がいきそうだ。

「もっと分かりやすく注意しろ!」とか「もっといっぱい注意しろ!」ばかりで、
「自分で気をつけよう」が鍛えられる気がしない。


子どもの時、やって良いことと悪いことを色んな場所で学んできた。
あれらを学ぶにはある程度、自問自答し、思考するあたまのスキマが必要だったんじゃないかな。


僕の場合は「これやったらおもろない!?でもやってええかな?アカンかな?」と自問自答してきた。
そしてあれはたぶん必要なカリキュラムだったんだと思う。


自分で考えてるうちにルールや安全の中で、何かを創ったり、倫理観を整えられるようになった。
それを守ったり破ったりして、時に失敗して学んできた。


だけどこれだけの量の「やんなよ!」があれば、もはや自問自答などする必要がない。
完全にこれら注意書きに依存してしまえばいい。

失敗したら「この注意書きに書いてなかったから」と言えばいい。
この看板にはそれぐらいの全知全能感がある。


しかしこれが続くと他のことでも、失敗した時に
「だって誰も注意してくれなかったんだもん!」というロジックを持つ大人にならないものだろうか。

もっといえば、人生の勝負を仕掛けるタイミングで、
責任感の無い斬れ味の鈍った人間にならないだろうか。



子どもと同じく、大人にも生活の中でやって良いことと悪いことがある。
大人の場合、「法やルールを破らなければOK!」というわけじゃない。
もっとシビアだ。逆に安全を犠牲にしてでも進まなきゃいけないケースもある。




たとえば会社の飲み会の帰り道。
同僚の女の子が飲み過ぎでブッ倒れそうだ。
どうやら昨日彼氏にひどいフラれ方をしたらしい。
凄い飲み方してたもんな。完全にヤケ酒だ。
ちょっとかわいそうだ、うわ酒くせ。



しかしどうやらあなただけが
帰り道が一緒らしい。

送ってやるか、どっかで寝かせるか・・・と思ったらうわこいつ泣きだした!吐きそうとか言ってる。
嫌だなぁ。
 
どうしよ、帰り道一緒ならタクシー呼んで送って帰るか、朝までグチに付き合ってやるか。
あぁでも会社の同僚の面倒をそんな時間まで見てるなんて、彼女に誤解されるかも。
誤解されたら嫌だなぁ。

というシーンがあったとする。


その時に「僕は彼女いるんでおつかれさん!グッナイ!」

と酔っ払って泣く同僚を路上に見捨てて帰るのは、やはり違うと思う。


もちろんこの同僚女子がシラフでしっかりしてれば全然帰っていいだろう。
しかし、ほとんど急アル候補生だ。危ない。一応かわいそうな事情もある。


もちろんあなたはその同僚の面倒を見る義務も無いし、法も違反していない。

このやらなくても罰せられないけど、自分の倫理観に基づいて、やること。
これが「自主的な責任感」ってものだと思う。

やはりこういう時は、面倒見る人でいたい。彼女には後で説明すればいい。
あなたの彼女が素敵な人ならそれをとがめたりはしない(たぶん)。



僕の場合でたとえてみる。
QOOLANDもバンド活動の中で色んな勝負の仕掛け方をしてきた。

ステージや制作、すべてにわたって、自分たちらしいやり方であなたの心を動かしたいと思っている。

でも何かしら新しいことを仕掛けるときは不安もある。
それでも出来ると信じて勝負をかけている。 もちろん結果、失敗もある(結構多い)。

それでも「失敗したらコワイから何もしない」というのはイヤだ。
行きたい方向に進むには、勇気がいるときもある。
 
なるべく僕は「勝負をしている」という血の通った活動をしていたい。
誰に指示されるでもなく、自分個人でそう思っている。 


こう書くと妙に立派に聞こえるかもしれないが、そんなことはない。
逆に考えてみてほしい。


「ステージや制作、すべてにわたって、適当にノロノロやる。
賛否あることにはなるべく手を出さない。曲もまわりと似せとこう。怒られたくないし。
新しいことを思いついても失敗するリスクがあるから別にやらないヨ。たぶん無理だし。
目付けられたくないし。とりあえず無難にやりすごしていこう」


そして「なんで何もやらないの?」と聞かれたときに 


「だって誰もやれって言わなかったんだもん!」

という伝家の宝刀を持ち出すのだ。結構ヤバい。ダサイ。

やはりダサくはなりたくない。


もちろん良い活動をやらなくても法に裁かれることはない。捕まることもない。
これも自主的な責任感に当てはまると思う。


自分のために自分らしくいたい。
公園の注意書きに場合「ダサくなるな」とは決して書かれていない。

国や役所や学校も「ダサくなるな」という注意通達はしてこない。
誰かに決めてもらうことよりも、自分で決めたことの方が大事なこともあるなぁとつくづく思う。


「そんなこと言って公園で事故が起きたらどうすんのよー!」と言われたらグウの音も出ないのだが、
そう言われても、注意書きを増やして事故を防ぐってやり方が、やはりしっくり来ない。
 
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「注意過多」にしっくり来ない理由が二つある。

一つは前述の

「だって誰もやれって言わなかったんだもん!」

という考え方を量産していきそうで、イヤだ。
 
人から主体性が無くなり、当事者意識が
低くなって、良いことは何も無いと思っている。



もう一つが文化の香りが落ちることだ。


テレビをつまらなくしたのは苦情だし、マンガが不自由になったのも苦情によるものはでかい。

寄せられる苦情は作品を不自由にしたが、何を手に入れたんだろう。


もしもこの先グランドキャニオンが手すりだらけになったら
安全の代償に大自然の景観を損なうだろうし、
もしもすべてのライブハウスが全席指定のシートベルトで固定される日が来たら
消滅する音楽があるし、
もしも太宰や三島の小説に※危険ですので絶対に真似しないで下さいと書かれていたら、
流れたはずの涙は流れなかった。


注意書きや規制が優先されて、文化の香りが落ちるのは悲しい。

不要なわけじゃないけど、過度なクレーム対策や心配性は文化にとって、時にきゅうくつになる。

あまりに対策が目に入ると「人のためよりも、苦情やクレーム対策の意味合いが強いんじゃ」と感じる時もある。



話題沸騰の歩きスマホゲームポケモンGO。
まさしく近代技術の結晶を宿した新たな文化だ。
果たしてこれから、この注意大国をどう泳いでいくんだろう。
関係無いけど関心は凄くある。

「僕の場合これで上手くいった」を呟いてるけど
「僕の場合」というだけで万能じゃない。
歌のお悩みが来た。
「僕の場合」が有る。
「僕の場合」が誰かの役に立ったら嬉しい。せっかくだ。公開したい。
でも、したら「僕の場合」はTL全員に処方される。webを服用するかしないかは自己責任で怖い。



とてもまどろっこしい言い方で140文字の限界を感じる。



僕らは望む望まないに関わらずインターネットというツールを使って生きている。 

その中にSNSという自分の考えを発信できるプラットフォームが誕生した。

以前はそんなことはできなかった。
テレビ雑誌などのマスメディアの力を借りなければ、
多くの人に個人の考えを伝えるという行動は起こせなかった。

それが可能になったし、ひいては個人の創造力で大きな力に立ち向かうことまでできるようになった。  

フリーランスのデザイナーや、ノマドワーカー、ユーチューバーのような生き方を選ぶ人が出てきた。

自己責任の旗のもとに自由を手にする人々は彼らの大地を耕しだした。



僕もせっかく自分のプラットフォームがあるのだから、
「僕の場合はこうやったよ」というやり方や考え方を書くことが誰かのために、
なるんじゃないかと思って始めた。

自分が誰かにとって影響を与えられるのはやはり嬉しい。



オマケにこれが思っていたよりも、僕自身にとって良いものだった。

自分が本や旅や音楽や出会いや仕事や経験や指導やらから得たスピリッツがいくつもある。

そしてその中でも良い結果が出た事柄を、噛み砕いて、人に伝えようとすると僕自身もより深く、 改めてそれらを理解できることに気付いた。


しかし伝えようとすればするほど、難しい。
 
『自分が人に伝えられること』は自分なりに体得したものだけになるなぁと思った。

逆に言えば人に伝えられないことは、インプットはしたけど、 まだアウトプットは出来ないレベルの技術とも言える。

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カタカナで書くと「インプットしたものを自分というインターフェイスを通してアウトプットする」 

という行為。なんかうっとおしい。

漢字で書くと「得たものを自分の中で消化し、人に伝える」という行為だ。


誤解をできるだけ軽減して、自分の言葉で人に伝わるように伝えることは
とてもクリエイティブだし、ドーパミンがやたらと出る。 瞳孔とかも開く。


そして僕の道程に、良い成果をもたらしたやり口がいくつかある。

ただ注意したいのは「僕の場合は」というだけで、全世界のあらゆる人々、シーンに 通じる考え方や、やり口ではないということ。

ていうかよっぽどじゃない限り万能な手法なんて無い。 

誰かにとって素晴らしい手法が、誰かにとっては害悪となるケースも沢山ある。


そんなことを思っている時に一件のDMが来た。

詳細は省くが
「カラオケで歌を歌うと数曲で喉が枯れてしまう。長く楽しく歌える方法はアリマセンカ?」
このような内容だった。
 

僕は一日に沢山歌を歌うし、ステージでも日によっては20曲以上歌を歌うことがある。 

これは生まれつき強靭な体力を持ち合わせているとかではなくて、
「僕の場合」のやり方がいくつもあるから可能になる。


この歌における「僕の場合」がDMをくれた人だけではなく、もっと多くの人にも役立つんじゃないかなと思った。


そこで僕自身が「枯れやすい」という同じような悩みを抱えていたときに、解決に向かった「僕の場合」を公開した。


だが、この歌に関する「僕の場合」も前述のとおり万能じゃない。


人によって声帯の状態や体調、歌における症状は違う。
人によっては枯れない解消法が、悪い方向に向かう恐れもある。

僕のアドバイスは歌の「支え」という技術がゼロの人に向けて書いた。
この「支え」が無いと枯れやすくなる。 

基本的に歌を歌うという運動は筋肉のバランスによって決まる。 

つまり「支え過ぎ」の症状が出てる人にとっては僕のツイートは悪になる。

「カラオケで声がすぐに枯れる」という症状を引き起こしている原因はいくつかある。 

そこから推測して、僕が思っている原因の患者さんなら改善するであろうやり方をツイートした。


そうは言ってもインターネットの大海原に処方すると、多くの人がその処方箋に触れることになる。 

「支え過ぎ」の人も読んでしまう可能性はある。こういうのは少し怖いなぁと思う。


「体調悪い人はコレ効くで!」という情報だけに触れて、「俺体調悪い!」と思っている腰痛の人が、抗がん剤を服用してもまったく良くならない。ていうかマズイ。
 

適切な処方が欲しいなら病院に行って、ちゃんと自分のために診断してもらって、
自分のために処方された薬を飲むことだ。


歌の症状でとても困っている人なら、専属のボイストレーナーに教わるのが一番良い。


ということを踏まえても、やはり「僕の場合はこうやった」を発信していくことはやっていたい。 

もしどこかで「僕の場合」が「誰かの場合」になって活躍したら、とても嬉しいからだ。


「誰かの迷惑になるんじゃないかな」で黙っているよりも
「誰かのためになるんじゃないかな」が上回って、
色んなことが、くるくる回っていくといいなぁと思う。

昼はスタジオに入って練習をしていた。
今日から8月4日まで、毎日四人で交代でツイキャスをする。
ツイキャスだからこそできることも沢山ある。ぜひお楽しみに。



行きたい場所やありたい形の話だった。やりたいことが見つからない人はいる。

でも「こんな風にありたいな」は結構あると思う。
『ありたい形、やりたいこと』と実際の行動がかけ離れてると不幸だ。
「本当はこんな事したくないけど仕方ないから」を積み上げすぎると崩せなくなる。
人生は短くて忙しい。

今日は三日前のツイートを使って書いてみる。



僕たちの中には大なり小なり「理想の自分」と「現実の自分」がいる。
ていうか、「いるよな!」って話をしていた。
ここで書いた「理想の自分」は憧れや、その人の目指しているあり方と言い換えてもいい。


「スポーツがうまくなりたい」「明るい人気者になりたい」「学年テストでトップ10に入りたい」
そんな「こんな風にありたいな」をみんなが抱えて生きている。

夢や目標!といった大きな話じゃなくても、みんなの心の中にある
ちょっとした「こんな風にありたいな」でも同じだ。

「笑顔で悩み無く、過ごしたい」「みんなと仲良くしたい」といったあり方も
「理想の自分」と言えると思う。


ここでの「理想」は、「いつまでも寝ていたい」「好きな物を好きなだけ飲み食いしたい」
「100おくまんえん欲しい」といった種類のものとは違う。端的な欲望や、お金とかではないということ。


たまに就活の面接とかでも聞かれる「尊敬する人物」というものがある。

イチローさん、ボス(YAZAWA)、椎名林檎さん、ミスターアインシュタイン、
坂本龍馬先輩、ご両親...etc。

現代のヒーローから歴史上の偉人や、身近な先輩などが挙がる。

そんな心の師匠たちはたしかにお金持ちだったり、
端的な欲望を叶えようと思ったらできるケースが多い。

だけど僕らがその人たちを尊敬しているのはそういう理由ではない。
その人の生き方が魅力的だと思っているからだし、自分もそんな風にありたいからだ。

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僕はQOOLANDというロックバンドをやっている。

これがどういうことかと言うと、「僕はQOOLANDという集団にいて、
そこに人生の貴重な時間を使っている」と言い換えられる。

大仰に聞こえるかもしれないが、まぁそういうことだ。


QOOLANDという集団で、行きたい場所やありたい姿がある。
僕なりの「理想の姿」がある。

この「理想の姿」と現実の行動があまりにかけ離れていると、不幸だし苦しい。
だから少しでも自分のありたい姿に近づくために、色んなことをやっている。

人によっては「努力」と呼ぶ人もいるかもしれない。
たしかに表面だけ見ると「やりたくないなぁ」と思うことが無いわけでもない。


何もせず、家で寝ているだけの方がカロリーも使わないし、ストレスも無い。楽に決まっている。
楽ではあるけど、理想とはほど遠い自分の姿に、きっと僕は吐き気がする。


僕も色んなことを怠けてしまうこと、サボってしまうこと、逃げてしまうことが沢山ある。
でも僕の中の「理想の自分」はずいぶんと立派なやつで、楽ばかりしていなかったりする。

だから現実の行動が「理想の自分」に重なった時はテンションがブチ上がる。


人間、出来ることしか出来ないんだけど、
理想の自分はやっちゃってるなら、たぶん出来ることなんだと思う。


「ホンマはこんなことやりたないねんけど、しゃあないからやってんねん。
ホンマの俺はこんなやつちゃうねん」が何日も続くようだったら、
ちょっとだけ気合いを入れて、自分を変えるタイミングなのかもしれない。 
 

【理想と現実】って世の中のことのイメージあるけど、魂の話でもあるなぁと思った。

TRY TRY NIICHEの建てたい家があって、スペシャのスタッフの人達が高速で柱を立てまくってた。
一丸で何かを作ってる場所を見れて、少しでも関われて良かった。
一生懸命やってる裏方の人は見てるだけで元気が貰える。好き。


このツイートについての問い合わせを頂いた。
「この話を書いてほしいのヨ」という方だからTRY TRY NIICHEのファンの方なのかもしれない。


TRT TRY NICHEはスペースシャワーTVの主催オーディションに優勝したバンドだ。
8月5日の彼らのLIVEイベントに僕らも出演する。
先日、その関係で僕と菅さんは配信番組にゲスト出演した。 


配信場所はスペースシャワーTVの本社だった。
初めて行ったが、本当に色々やっている会社だと思う。

テレビ局か番組制作会社なのかと思いきや、
フェスやレーベル、アーティストマネジメントまでやっている。

コンピュータ会社なのに音楽プレイヤーや携帯電話まで作っているApple社のような懐の深さがある。


僕らが出る配信番組を作ってくれたスペースシャワーTVのスタッフの人たちが、
普段どういう職務をされているのかは知らない。
 
だが、とにかく凄い熱量で配信番組を制作していた。それはそれは熱かった。


番組の内容にはテレビ電話での出演、ゲーム配信などがあった。

それらの企画はTRY TRY NIICHEが考えたことだと思う。
配信を見た人が喜んでくれるような内容だった。

生配信リアルタイムぶっつけ本番の中、
トラブルも無く無事に済んだのはスタッフの人たちのおかげだった。
 
不確実な要素が多い企画を完璧に実現するためにスタッフの人たちは本気を出していた。 


バンドのやりたい企画を実現させていく作業は家を建てるのと似ている。

バンドだけでは絶対に建築はできない。
色々な能力を持つ人が手伝ってくれて、初めて建てたい家が建つ。

スペースシャワーTVのスタッフの人たちは物凄い速度で柱を建て、壁を塗り、家を完成させていた。
見る見るうちに家が建った。

そして僕らはその家の中で、できる限りのことを、とても気分良くやらせてもらった。
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僕らロックバンドはステージに立ち、曲を歌い、自分たちが信じていることを発信している。

それらを力強く発信できるかできないかは裏方の人たちに掛かっている部分が大きい。

僕たちが立っている板の下には、お客さんからは見えないが、板を支える人が何人もいる。

板を両手で担いでもらっているから、僕たちは遠くの人にも手が振れる。

今回は一日だけ、TRY TRY NIICHEの乗る板の上に乗せてもらった感覚だった。
とても良い乗り心地だった。


8月5日僕たちは、僕たち専用の板の上で演奏して、歌を歌う。

僕たちの乗っている板は相当強い。

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