郡山。バンドをやるまでは読めなかったぐらいには教養が無い。

東北三つ終わってあしたは下北沢。都内に戻っていく。鮭のように戻っていく。


街から街へと移動していると「街の質」みたいなものに敏感になる。そこで生きている人間の色だったり、建物の高さだったり、空間の量だったり様々なファクターが絡み「街」は形成されているらしい。
その性質はもちろん街によって違う。だが体系化はできる。なんとなく似ている街はあるものだ。

いろんな街を見て気づいたのだが、「東京は異質」だ。全国北南西東問わず似ている街があるが、東京に似ている街は無い。
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東京は「街」というくくりではないのかもしれない。もはや「現象」に近い。

そういや「渋谷で生まれて渋谷で育った」というひとを知らない。中にはいるのだろうけど、渋谷で生まれたわけでも育ったわけでもないひとたちが渋谷という場所の大半を占めている。
果たして渋谷にいるひとの何割が純粋な渋谷人なのだろうか。


街という場所はその地で生まれ育ったひとたちが大量にいるからこそ、その色が浮き上がるのだろう。東京は唯一そうではない場所なのかもしれない。

浅草や神田の方は「江戸っ子」というひとたちが街を作っているらしい。「城下町」、「下町」という言葉の名残りがちゃんとあると聞く。

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ツアー東北編二発目は仙台。東北って性に合っているというかしっくり来る。自分の先祖は東北出身だったのかもしれない。少なくとも生まれではない気がする。

こうして細かく回っていると自分が好きだったSHACHIやG4Nや10-FEETのようなバンドマンと同じ道を歩んでいるんだなぁと思う。

「人生をコピーする」と言うと大げさだが、憧れている人間になるには、そのライフスタイルをコピるのは手っ取り早い。先輩らに近づいているのか果たして。


「真似は最高の教師」という言葉があるが、真似から学ぶところは多い。僕もいろんなひとの真似を経て音楽を作っているし、歌っている。

スポーツでも芸ごとでもここらへんは同じ感覚だろう。プロのアスリートは真似が上手いらしい。
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上達において真似は切っても切れない関係にある。「上手い人の真似をしろ」は古今東西言われ続けてきた指導法だ。

ただ、真似るときに気をつけたいことがある。

やりがちなのが「やっていること」だけを真似てしまっている状態だ。真似は「やっていないこと」も真似ないとコピーが成立しない。

意外と「やっていないこと」の破壊力は凄まじい。

「余計なこと」や「余分なこと」がじつは大きな損失になっているときがある。

「やらなきゃよかった」や「言わなきゃよかった」は後々、後悔になりがちだ。
10年前に言った「言わなきゃよかった」にいまだ呪われていたりする。


ソニー生命のアンケートを目にした。中学生に対するアンケートだ。

「大人ってどういうイメージ?」というアンケートの回答が下記だ。

1位「疲れている」(88.5%)
2位「大変そう」(87.5%)
3位「楽しくなさそう」(66.5%)


悲惨な結果だ。高校生になるとこの数値がさらにキツくなる。いろいろとヤヴァイ。

大人がつまんなさそうに見えているのもヤヴァイけど、「俺もいずれはつまんなさそうな生き物になるのかぁ」と思っているのもヤヴァイ。ゆるやかな絶望だ。
うーむ。でも自分も中高生のときには思ってたしなぁ。解ってしまう。

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一時期の「サラリーマン」という言葉は少しずつなくなり、現在は「社畜」という表現が使われているようだ。

「仕事はしんどい。大人はキツイ」というのがバッチリ定説になっている。

たしかに人生の先輩たちは苦労話が好きだ。

苦労話や経験談に価値が無いわけではないが、もう夢もほしい。価値だけじゃ希望も期待も膨れない。

まとめると「ちょいと大人たちよ。苦労話の連打で、10代から見たらつまんなそうらしいぞ」というところだろうか。

年下と会話するときは多少は起承転結かまして、話すのもいい。脚色も盛りも罪じゃない。事実を事実とだけ伝えても何も生まないし、バッドエンドだから客観性が宿るわけでもない。


僕は「おめーらのほとんどにはロクな人生待ってないぞ」と本当に言われて育った。

インターネットも整備が甘かったし、学校裏サイトなんてものも無かった。モンスターペアレントもいなかったので、先生は放し飼いの鬼畜だった。人格否定はザラだった。彼ら自身、平成不況のあおりを食った就活氷河期の被害者だったのかもしれない。

そして「ロクなもんじゃない」と僕は僕の人生にあまり期待しなかった。
そのおかげでシュークリームを並べ続けたり、ピンクチラシを入れ続けていたときも何一つ疑問を持たなかった。
「マジでロクなもんじゃなかった。先生の言う通りだった」と再認識しながら生きただけだった。
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でも微動だにしない日々もある日動いた。ズズズッと音を立てて、そこから少しずつ情勢を変えた。

「あなたの音楽で人生が変わった。生きる勇気が生まれた」

「辞めたかった仕事を辞めて新しいことに挑戦している。踏み出す力をもらえた」

「もうダメだと思ってたけど元気が出た。来てくれて本当にありがとう」

なんてこのツアー中に言ってもらえたりした。音を立てた毎日はガチャッとここまで連結している。

自分の書いたり吹き込んだ言葉が、遠くにいる人間にパワーをブチ込んだりできている。

もちろん情勢を変えたのはそのひとの力だ。

だけど「俺の人生はこんなにもくだらなくない」と自分で自分に思うには充分すぎる。そんな一言がこのツアーでたくさん届いている。

疲れもするし大変でもある。それでも楽しい。
10代はいつか終わる。だけど絶対に10代よりもその先の方が楽しい。

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台風が去ったので空が高い。神様が贈ってくれたとしか思えないような青空だった。

朝から大量の税金を勢いで納付した。

正直強奪としか思えない金額だったが、国家転覆を狙うほどの戦闘力もないし泣くしかない。生まれてからけっこう経つが、年々理不尽と共存できるようになってきている。

税金はキツイ。無いと国がやっていけないのは知っているがまぁキツイ。それにしてもそんないるのか?諦めるが、ちゃんと気合い入れて使ってくれと祈るしかない。叶わぬと分かっていても祈るしかない。


正社員の方々は給与からガッチリ天引かれて心が痛むだろうが、くくり的には自営業である自分は引かれる税と引かれない税がある。
引かれていないものに関しては、自らの意志を持って支払わないといけないわけだ。これはこれで心が痛む。

罰に例えるなら、なすすべなく処されるのではなく、自分で自分の爪を剥がせと指示されているようなものだ。

ツライが、とにかく払わないと存在を数えてすら貰えない。国家とは規模がデカイだけのギャングだ。
今日は金持ちになりたいと無意識に10回ぐらい唱えた。


たまに新宿の駅前でレジスタンスが演説をしているが、革命が起きる様子はまだ無さそうに見える。革命が起きたとて、僕が金持ちになりはだろうから関係ないのだが。

余談だが楽曲使用料やらは源泉が引かれている。さらに余談だがRO69JACKの賞金は源泉別で100万円だった。ちなみにクソ真面目に賞金も申告した。
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「来世は年貢を集める側に生まれたい」とこぼしながら街に出た。殿になるしかない。

外は大量の年貢を納めてもかまわないと思わせるほどの天気だったけど、数分後には毎度のことながら胃痛に襲われた。完全に納付のせいだ。内閣よ、国民は苦しんでいるぞ。


躁をドライブさせる天気のせいだろうか。今朝は6時に起きたんだった。
年貢を納めるために朝練の野球部のような時刻での起床。もはや暴挙だしマゾだ。

だけどたまに朝早く起きると生きててよかったと思う。抜けるような空と日光と少しの涼しさは魂にいい。

「いけないことにたまに救われる」と昨日書いたばかりだが、自分を救うものが「いけないもの」じゃなければ、なおいいとは思っている。

酒やタバコやクスリに喧嘩なんかの身体に悪いことは魂にいいとされている。事実そうだ。
だけど身体にも心にも良くて魂にもいいこともこの世にはいくつかある。

心身へのダメージという代償を払わなくてもいい吐け口があるひとになれたら強いなぁと思う。たくさん兼ね備えているひとが羨ましい。
まだ僕は少ししか見つけていないけど、たまにある今日のような天気に遭遇すると、実在するんだと気付く。

亡命するならこんな天気の日に限る。亡命したらニューデリーで割れたスマホを直す仕事をやりたいと思っている。
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一日中protoolsで曲を作ったり編んだりしているのだけど宅内も寒い。

今日は「50分やって10分休むのが最も効果的」と聞いたので試してみた。わりといい気もする。

もしよかったらみんなも勉強やらなんやらするときに試してみて。
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もう10月が終わるんだなぁと思う。いよいよ本気出して寒くなるのかなぁ。地球に負けないように鍛え上げないといけない。

寒くなると心が荒れやすくなる。

死にたくなったり逃げたくなったりしたら寒さのせいにするのもアリだ。風邪ひいたふりして一日休んでみると、翌日には考えが変わっていたりする。

この季節はつらいひとにはつらい。
心が折れそうなときはグニャっと曲がっちゃうのもいい。いけないことに救われるときもある。

正しいだけじゃ間違えてしまうし、綺麗なだけじゃ汚れるし、真面目なだけじゃ笑われてしまうし、丈夫なだけじゃ壊れてしまう。

5年も前に自分が書いた歌に気付かされたりもする。こわいこわい。

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僕がよく禅を組みに行っていたときに聞いた話だ。

なんでも「不思議なこと」にお金を出しちゃいけないのだという。
仏の使いである和尚が「神とか占いとか風水とかに払っちゃいけないよ」と言うのはなんだか笑えた。
「いや、おまえ法力とかエナジーパワーみたいな商売してるやんけ」は飲み込んだ。


和尚曰く、「神さまは正当な努力をするひとの味方」らしい。

中国の皇帝も徳川幕府も神頼みや風水をやりまくったのだと。「俺たち未来永劫繁栄しろ!」と祈り尽くしたのだと。

古来の王朝がこぞって鬼門封じや風水や八卦なんかをやって、栄華にすがったことは知っていた。

そしてそれが無理だったのはみんなご存知のとおりだ。皇帝は戦争に負けたし、幕府は薩長の弾ひとつ避けられなかった。都や王はすべて滅亡する運命にある。

つまり結局儲かったのは風水師だけだった。

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和尚は続けた。

「前世がお姫様だとか貴族だったとかいう言葉にお金を出すのもいけません。それらに喜んでお金を出しちゃダメなのです。前世が悪党でも今世をまじめに生きていればそれでいいのです」


不思議なことにお金をとられちゃうとキリが無いみたいだ。カルトにハマった友人を思い返すと分からなくもない。


僕は「簡単な占いぐらいなら良くないすか?1000円ぐらいの手相占いとか別にいいじゃないすか」とへらず口を叩いた。
 

「いいんだけどね。ハマっちゃいけないの。神さまは正当な努力をするひとに味方するの。不思議に頼りきっちゃうと味方してくれなくなっちゃうの」とまるで大長編のドラえもんばりのカリスマ性だった。「の」が熱かった。


和尚が言うには「ひとはみんな太陽」だそうだ。
『我が太陽。我行くところに光輝く』とかなんとか言っていた。

だからあっちの方がいいとか、こっちの方がいいとか無いらしい。自分がいるところが光輝くところなのだそう。

「どんなに暗いひとがいても嫌なやつがいても関係ない。陽が当たれば闇は消え去る」とのことだ。

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喉を心配してくれる声が相次いだ。ありがとうございます。皆さんのおかげでだいぶ良い感じです。



しかし気を使えるところは使っていかないとなぁと思う。ケアを全然してなかったわけでもないが、もう少し意識を強くしていく。

「歌える」って本当に有り難い。
「有る」があたりまえじゃなくなった瞬間のせいで、有り難みを心から感じる。


この一週間ぐらい様々な物事に対して「もう二度と無いのかぁ」が脳内をよぎる。アンニュイすぎるわけでもメランコリーすぎるわけでもないと思う。大事にしたい。


ライブが続いている。なんと10,11月で29本だ。
QOOLAND史上最高頻度のスケジュールになっている。

たくさんあるが、もう二度と無い。「いっぱいある」と思っていたらすぐに無くなってしまう。みんなのおこづかいとかもそうだろう。


一度失いかけると、いろいろな唯一無二に目がいってしまうものらしい。

ツアー自体は前々から決まっていたのに、今週から急に「このスケジュール、この頻度で演りまくること」に目がいくようになった。
「この頻度、この密度でライブを行うのは、もう二度と無いかもしれない」に目が奪われた。


唯一無二や一期一会を踏まえるとすべてが希少に感じる。

でも、リアルに「この状態の僕たち」はもう二度と無いのだ。「2017年10月から11月にかけてのQOOLAND」というバンドはもう決して起こり得ない。
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秋は続いているものの儚さを教えてくれる。僕はむかしから、何かを始めるとき秋が多かった。

「あしたを面白く」の曲を手がけだしたのも昨年の秋からだった。

八王子のライブの後に「遠くの街へ」という曲を書いた。一年前だからそんな前の話でもないが、あのスタートした感覚はちゃんと覚えている(曲はクラウドファンディングのリターンにしている)。

QOOLANDというバンドも秋から始まった2010年の10月だった。大きな地震が起きる少し前のことだ。


何かを始めるときはいつも少しネガティブな寂しさがつきまとう。
何かを失ったり、誰かと別れたり、やっていたバンドが解散したりだった。

でもそれらはそれらで良かったのだと思う。というより良いも悪いもない。何だってどうしたって訪れる。そして、アレらがなきゃイマあるすべては始まらなかった。

もちろんネガティブだけじゃ続かないし、ポジティブだけじゃ始まらない。嬉しいも哀しいも寂しいも苦しいもある。すべてがイマのすべてを作っている。

生きてるだけで順位は下される。もう自分の感情ぐらいは順位を付けなくてもいいんじゃないかなぁと。

大阪淀川区は十三へ久しぶりに帰還。1/31ぶり、独りQOOLANDをやったときに寄った以来だ。


この街で暮らした頃の記憶がイマの自分を作っている。

「生みの親より育ての親」という言葉があるが、その雰囲気がある。地元よりも僕は三ノ宮と十三と梅田で育まれた。

ボロボロの生活をしているときしか、目に映らない種類の人間がいる。

僕はあの頃、そんなひとたちと「奇跡降らねーかなぁ」なんてボヤキながら、朝まで飲み続けてばかりいた。
駅の西口にサラリーマンがぞろぞろ集まるのを、僕らはパチンコ屋の隣りに座りこんで見ていた。

「働くのすげーなぁ」
「朝から働ける根性兼ね備えてるのも奇跡かなぁ」
「奇跡やろ」
「いいなぁ奇跡」

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「社会」というサイズの合わない服を着こなせなかった。

あれから袖をまくったりして、ある程度は合わせられるようになった。

だけどあの頃の仲間にはもう会う術もない。彼らはイマどこで何をしているのだろうか。

ただどこかで生きているのだろう。同じように僕だって生きているのだから。

「会えないけど気配は感じてる」ぐらいの関係もそんなに悪くない。クソみたいな生活水準の先でしか手に入らない醍醐味だ。

「いつか良くなる、だがイマはもう少しこうしていたい」が永遠に続きそうな時間だった。

やっぱり十三にはたまに来ていたいなぁ。

This is QOOLAND 3/4が終わった。あと一本。

1ある事無い事
2あしたを面白く
3隣人
4熊とフナムシ
5ブギーサウンド
6フェニックス
7白夜行
8トリッキーズ
9良い子と良い事
10孤高の人
11ブルーアルバム
12Week
13ドグラマグラ
14ウルトラエイトビート
15LET IT DIE
16片道4,100円
17映画と週末
18代官山のテーマ
19ラストセンサー
20今日まで有難う
21現実と非現実
22凜として平気
23勝つまでが戦争
EC
1Shining Sherry


喉のトラブルのせいで一週間まったく歌唱をしていなかった。おかげで回復はした。
だが「本番中声にトラブルが起きたらどうしよう」という恐怖がずっとあった。

ライブが壊れる恐怖と、シンガー生命が終わる恐怖だった。

だけど力をセーブするのはやめようと思った。
ここで壊れたら「それまでだったのだな」と受けとめるしかない。


この喉のトラブルで気付いた、というかしっかり理解したことがある。

「来てくれたひとに歌えるのは、その日がもう最後になるかもしれない」ということだ。

もちろんその回数は分からない。後5回かもしれない。後3回かもしれない。神のみぞ知る。

ただ少なくとも、引き算なのだなぁと実感した。未来から数えると決して足し算ではない。貴重な一回だ。

僕は、改めて「ライブ」の貴重性を考えた。
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「グループはいつか解散する。だからいずれ見れなくなるよん」という類いの貴重性ではない。
この理屈は僕たちに主導権がある考え方だ。逆の考えを深めた。

「今日は観てくれているけど、今日のライブが最後になるひとがいる」という話だ。もちろんその未来を本人だって知る由もない。

これは「じつは回数の寿命は決まっている」という考え方だ。運命論みたいだが。

でもこう考えると、セーブなんてしていられない。

深刻のちょい手前な話だけど、「次回なんて無い」というひとと、「あと何回だけ観られる」というひとのみでフロアは構成されていることになる。

だからセーブすると、後悔すると思った。

特攻して無意味に犬死にする必要は感じていないが、全力は尽くしていたい。

もちろんコンディションは、今までよりもシビアにケアしようと考えている。破滅したいとかではない。

でも、その理由は常に最強のパフォーマンスを出したいからだ。

なぜなら、僕はあなたにもあなたにもあなたにも、無限に歌えるわけではない。有限だからこそベストでいたい。「食べ放題、飲み放題」ではないのだから。




春前はよく禅寺で禅を組んでいた。足を組んで「喝!」とぶっ叩かれるアレだ(実際は発声しない。打たれるのも挙手制)。

あの時期はいろいろ苦痛が多くて悟りたかったし、雑念を振り払いたかったし、健康になりたかったし、強くなりたかったし、いいバンドになりたかったからだ。何か変われとワラをも掴む気持ちだった。

だけど「現実と非現実。」の歌詞を書けたのはこの寺での影響が大きい。


禅は毎回ワンセット40分ほど組む。

じつは座ってるだけって結構キツイ。
足も痛いし、退屈だし、雑念も浮かびまくる。なんかそんなときに限って、エロいこととかも考える。


40分経つとボキョ〜ンと鐘っぽい音が鳴る。

そして和尚が「はい、お前らおわりー」みたいな合図をする。するとZAZEN BOYSたちはワラワラと禅を解く。


「うわー!」と言いながら痺れた足を延ばす新入や、「別にこんなん平気やしな」といらないイキりをかますベテランのおっさん。

様々なメンバーがいるが、基本全員雑念&煩悩だらけだった。

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その後、メンバーは捕虜のように別室に移動させられる。

じつは終わった後にもう一仕事あるのだ。「お茶会」と呼ばれるならわしだ。


そして僕はこれを「魔のお茶会」と勝手に呼んでいた。



内容的には「カントリーマアムを食べながら先輩たちの話を聞くだけ」という猟奇的なものだ。

何故「魔のお茶会」かと言うと、この先輩たちの話が絶望的につまらないのだ。

別に「笑い」という概念じゃなくていいのだが、とにかく面白くない。オチもヤマも無い話しかない。
それが延々と続く。


その日はZAZEN歴の長い三人の先輩が一人一本話すスリーマン形式だった。

「このあいだ上野に行った。電車に乗った」
「最近は足が痛くない」
「本日晴れ」

の三本立てだった。一本15分ぐらいある。


延々とクレイジーなメンバーによるMCが続く。


信じられないかもしれないが、本当に「晴れている」という情報だけを15分かけて話す。
もう、仏教なのにバキバキのカルト洗脳風景みたいだった。


繰り返される宇宙レベルのつまらなさ、沙羅双樹の花の色に目がチカチカして意識が飛びそうになるのだが、ラストの四本目を務めるのは和尚だ。


この和尚だけが救いだった。かなり面白いのだ。和尚の話は。

今日はあの日和尚が話した「どうしようもないこと」の話を紹介したい。
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和尚は小さいがよく通る声を宙空にぶつけた。



「全力をつくして、精一杯力を振り絞る」

これは素晴らしい心構えです。そして、とても大切な心得です。

しかし私たちは知っておかないといけないことがあります。

それは世の中には「どうしようもないこと」があるという真理です。


全力で生きていると、困難に挑み、「何としてでもどうにかしたい!しなければならない!」と考えがちになりませんか?

ですが、「どうしようもないこと」はどうにもなりません。


世の中には全力を尽くしても、命を捧げてもひっくり返らないことがあります。


私たちの命ひとつとっても、どうにもならないことだらけでしょう。

自分の心臓の鼓動を自分で止められますか?
心臓は勝手に動いていて、自分の意思ではどうすることもできません。

つまり命そのものでさえ、自分の手が及ばないもの、どうにもならない力で成り立っているのです。
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自らの命という原点でさえ、どうにもできないことに気がついたなら、「どうにもならないこと」が世に溢れているのも不思議ではありません。

すると、「それをどうにかする必要などない」という話はスッと腑に落ちませんか?

自分ではどうにもならないことは、そのまま、あるがままに受け取っておけばいいのです。


いくら健康に気を付けていても、病気になることはあります。

悔やんだところで病気になったという事実は覆りません。

それどころか悔やめば悔やむほど、気持ちは沈み、症状は悪化するでしょう。病気とは「気を病む」と書きます。心の在り方は強い影響を及ぼします。


重たい怪我にみまわれときに「もう前のように自由に身体を動かせないんだ・・・・・・」と嘆いても身体の機能は蘇らないのです。

どちらにしても、どうしようもありません。受け入れる以外の方策は無いのですから。


じたばたしようが、しまいがそれしか無いのです。ならばあっさり受け入れませんか?

自分ではどうにもならないことを受け入れたら、その状態と共存できます。

そのままの自分が受け入れられたなら「いまできること」に向き合えるようになります。

大切なのは過去よりも未来よりも「いま、ここ」です。

「どうにもならないこと」にとらわれなくなれば、「どうにかなること」に前向きな心で取り組めるようになるのです。


心を向けるべくは「どうにかなること」の方です。

と和尚は締めくくり、数秒の静寂が流れた。

ひとつパチッと火花のような音が鳴る。またひとつ鳴る。音の感覚が狭くなり、すぐに爆裂音は連結した。

スタンディングオベーションだ。

感激したZAZENたちによる、アカデミー賞ばりのスタンディングオベーションが境内に降り注いだ。季節外れの花火が変な寺の変なひとたちにより打ち上げられた。カルトだ。


子どももおっさんもひたすら手を叩いていた。僕も負けじと叩いた。ZAZEN先輩らもぶっ叩いていた。
「和尚の弟子なのに、こいつらなんで何も学んでねーんだ!」とも思った。手よりも先輩たちの頭を叩きたかった。

大聖堂の残響のようにスタンディングオベーションは鳴り止まない。みんなサルのように手を叩いた。カルトまっしぐらだった。

もう誰にも止められない、先輩たちの話も止められない。もうどうしようもないことばかりだった。どうしようもないことはどうしようもない。僕たちが出来ることはそう多くない。だけどその少ないそれらを必死に抱きしめて生きるのだ。そういう歌を書こうと思った。

僕はしばらくその寺を「どうしようもない禅寺」と呼んでいた。


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