歌詞を書いてきた。中二から書いて書いて書き重ねてきた。


昔から今まで、心がけている手法がある。

それが「特定の誰かを思い浮かべて書く」だ。

具体的にはそのひとなら分かるフレーズや、話を含ませたりする。抽象的には、、、まだちょっと言葉が浮かばない。すまない。


しかし、その「特定の誰かに向けたフレーズ」が別の誰かの魂を震わせもする。だから音楽は面白い。


「何故、誰かを思い浮かべて書くのだろう?」と考えていた。新譜を聴きながら夜の街を歩きつつ、物思いに考えに考えた。


たぶん、誰かを思い浮かべて書くと「贈り物の要素」が加味されるからだ。

この表現が適切かは分からない。もしかしたら「手紙の要素」かもしれないし、「サシで語り合う要素」かもしれない。

でも、この手法は僕の中で「心を込める」という意味合いを、分かりやすく強めている。

歌を作るとどうしてもメロディに依存してしまったり、語呂が先行してしまうときもある。音楽だからだ。不自由だ。仕方ない。


歌詞を書いていって、気がつくと「俺はこう思うねん」の羅列になっているときがある。

もちろん、それも不可欠なのだが、作詞の根底のスピリッツは「伝えたい」という気持ちだ。「歌いたい」なるスピリッツは、「伝えたい」の上に乗っかっているものだと思う。
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1.現実と非現実。
2.まだ「大丈夫」
3.問の先々夜の先
4.今日まで有難う
5.レプリカの限界
6.あしたを面白く

新譜「あしたを面白く」の曲目だ。

全部特定の誰かを思い浮かべて書いた。

「その誰かの曲」というわけではない。

でも、そのひとに対して伝えたいことがあるから、僕は筆の代わりにギターを手に取った。

尊敬しているひとだったり、遠くから見ているひとだったり、身近なひとだったり、最近会えないひとだったり、いなくなってしまったひとだったり、一緒にやっているひとだったり。


面白いケースがある。書いてる途中に対象が変わったりするケースだ。

でも、対象を乗り換えて書き進む。
対象がいなくなることはない。日本人が嫌いそうだが、いなくなったら「代わり」を探すのだ。

代わりすら見つからなくなって、心に誰も見当たらなくなったら、そこでライティングは中止することにしている。

これは届ける誰かが変更されるライティングだ。

不謹慎でも面白くなるときがある。
意外と作品はブレないし、軽薄にならない。二股になるとたぶんブレるのだろうけど、乗り換えはいいらしい。

誰かと競争していたらこんな風にならなかった。僕は相対的な価値が大嫌いだった。
「俺は違う」を押し通してきた。
自分自身を感動させたくてやってきた。
数字も評価もそれに比べれば軽かった。「自分ダサ」ほどの自殺の理由が未だに見当たらない。
まだまだ自分が飛び降りる可能性があると怯えている。



フィジカルと常にベストコンディションを保ちたくてボクシングを始めても結構経つ。

苦しいときは「死にたい」じゃなくて「殺すぞ」だ。自分を押し込める方向に持って行かない心持ちは大事だ。落ち込まなければ、なんとか最悪の事態は避けられる。ひとの悩みを聞いていると、もっと自分を大事にしてもいいと思う。

闘争心って侮れない。元々「勝つまでが戦争」とか危ないことを言っていた人間なのだから、わりとしっくりくる。

訳の分からんやつが、自分や自分のまわりに手を出したとき、守れる軍事力が有ると無いとでは違う。
一方的に振る舞う暴力的な人間がいる。僕は僕の大事なひとたちが踏みにじられるのはもう嫌だった。

そういえば歌詞の話をしたことがあまりなかった。書くからには悩み苦しみ、喜び書いている。
 
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366日目の記事が何事もなくスタート。

下北沢251(トゥーファイブワン)というライブハウスでゲリラライブだった。来てくれてありがとう。

ライブを2018年の5月までに150本以上やりたいなぁと思う。それぐらいやりたい。

たまに「メジャーデビューしたらライブ減るからなぁ」という音楽業界精通系玄人ファンがいるけれど、その通りだ。減る。

そりゃ関わる人が増えたら「やる理由」よりも「やらない理由」が多くなる。メジャーデビューのせいにしないでほしい。普通そうなのだから。でもそれは数のせいだ。

女の子も集団になると友達の彼氏の品評会になるだろう。ひとが増えると、足すエネルギーよりも引くエネルギーが強くなるのだ。当たり前だ。

明治維新にしてもそうだ。地方塾の少数精鋭から始まった。小さな「今に見ておれ」から文明は開花したのだ。
大所帯の特性としてブレーキを踏む回数と、意見をすり合わせる頻度が多くなる。



1月は完全にライブが減っていた。


もちろん理由はメジャーデビューだけではない。でも、結果僕たち自身の意思は減らす方向に向いた。いや、いろいろあんだよ。マジで。でもごめん。

本数減らすとつらいことがいっぱい重なって、大きくなった。

僕は身体も心もダメになった。

「やべぇ」と思ったときには3月になっていた。各地のサーキットも始まっていた。

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凄まじい極論を述べると、やはりやらないとダメだ。カスだ?

万能じゃないかもしれないし、当てはまらないケースもあるかもしれない。でもまぁ、いっぱいやらないとダメだ。

親戚のジジイの言う「メシ食わないとダメだ!」ぐらいに思っておいてほしい。あなたがやる側でしかも、「やりゃいいってもんじゃねぇよ」と思ってるサイドの方なら、聞き流してほしい。


でも「質より量」は基本中の基本だ。何事もだ。


僕は凡才よろしく、調子を上げるためにやりまくるしかなかった。
4月の後半からスイッチがブッ壊れたようにやりはじめた。5月は12本の公演だった。


しかし冬のあいだ本数が減ったせいで、誘いづらくなったらしい。いつのまにかオファーが減っていた。一気に不景気だ。


「頼むから出して」と言ってキノトに頼み込んだ。「出してくれ」を聞いてくれた店長が、ムロフェスに来てくれていた。「修行の成果」について語り合ってちょっと泣きそうだった。


空きの日にちを掲示してもらうシフト制だ。イカレてる。

とにかく全部OKして、制作中もレコーディングの最中もライブを重ねた。ステージで腐ったスピリッツを練り直した。

6月は録音と平行して8本だった。
6月29日からは6日連続でライブだった。何かを取り返そうとして、いつのまにかライブの連続記録を更新していた。


本数を重ねまくっていたら誘いが増えた。

気付くとカレンダーが埋まりすぎて、出たいイベントにも出れなくなっていたりする。最悪だ。出たかった。

でももっと誘いが欲しい。空いてたら出るから誘ってほしい(qooland.staff@gmail.comまで)

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数えたら7,8月も合わせて25本あった。楽しみだ。

夏フェスシーズンなのにアホほどハコにいる。アホそのものだ。

でも、気が付いたら心も身体も楽になっていった。まわりの声も嬉しいものになっていた。


「今のQOOLANDを見てみるといい」が飛び交いつつある。


結局僕は2016年のおしまいから何が苦しかったのだろうか。よく思い出せない。

人間関係とか内政の変化とか理由を探していたけれど、理由を探して難くせ付けていただけなのかなぁと思う。


原因は細分化できるだろう。
でもコアはひとつだ。コアが砕かれなければ人間なんとかなる。

バチクソに本気のライブを鬼のように日々やっていれば、僕たちは生きていける。

僕たちのコアは生演奏にあるし、そうやって生存してきた。


僕たちの初ライブは友達主催のイベントだった。渋谷だった。

あの日、渋谷にいたバンドで、イマもやれているバンドはほとんどいない

あの日渋谷にいたircleとcinema staffとムロフェスで会えたのはほんのり奇跡だったりする。

彼らも同じだ。

「生で演奏して歌って心をブチ抜いて何か与えて残す。そしてあしたは今日を超える」

それを繰り返すことに理由なんて無い。でも価値と意義は山ほどある。

ほとんどの「効率的」が「効果的」じゃない。

QOOLANDを分かってもらう方法はそんなに多くない。でもそれはもういいなぁと思う。だって分かってくれるひともいるのだから。
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2016年の7月23日に一本のブログ記事を更新した。

この日以降、僕は毎日ブログを書き出した。1日も休まず更新し続けた。そして本日2017年7月23日の本記事が365本目になる。

達成感は意外とある。もっと無いと思っていた。

自分は思っていた以上に「やる」と決めたことをやり抜ける性質だという一つの証になった。
それは嬉しい。


文章をこれだけ日常的に書くようになると、思考内圧は標準で高くなる。

「考え、それを書く」というフローは「人に何かを説く」ということを有利にしたと思う。
考えの整理における効果は絶大だ。


一年前よりも心も身体も音も喉も頭も強くなっている。「伸びている」って凄く嬉しい。

それは数字や金銭の伸びでは得られない嬉しさだ。というより、結果の進捗とはまるで異質な感動なのだろう。


淡々とここに、毎日何かを書いてきた。特別な才能の覚醒や裏技も何もなく、淡々と重ねた。
ライブや制作と違い、全くスタンディングオベーションの鳴らない活動だった。

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じつは毎日けっこうな人が来ている。たまに感想をコメントに書いてくれるひともいる。

もしかしたら、ここに僕が淡々と何かを書かなかったら始まらなかったこともあるのかなぁと思った。

でも僕のやってきたことを、外から見るとどう映るのかは分からない。僕は内からの目線しか持っていない。

それでも、誰かが何かを考えたり、行動するキッカケになったら嬉しかった。もちろんそれを知る術はないが、「なってるかもな」ぐらいには思ってみたい。



ブログというツールはSNSとは違う。ソーシャルじゃない。書きっぱなし、投げっぱなしの落書きだ。
SNSがキャッチボールならブログはドッジボールだ。しかも相手は投げてもこない。


やりたいようにやってきた。書きたいように書いてきた。


これからもそうだと思う。
僕はやりたいようにやっていく。全然楽じゃないのだけど、その方が面白い。面白くないと生きていけない。きっとどこかでツケが来る。


今日がどんなにひどくても、昨日が目を背けるほどクソでも、「あしたを面白く」と願っていればひとは生きていける。

確証のない未来は、イマが最悪の人間にとっての希望だ。
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ムロフェスだった。終わった後死んでいいぐらいのつもりで演った。
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バックヤードで健康の話がちょろちょろ出た。出ざるを得ないぐらいは暑かった。

それにしても健康を使った恐怖心のコントロールが出まわりだしたのって、いつぐらいからなのだろうか。

「500mlのコーラには角砂糖16個分の砂糖が含まれている」みたいなやつだ。僕が小さい頃はああいうの、そんなに無かった気がする。


発がん性物質とか保存料とか、何でもかんでも悪者にされる傾向があるけれど、実際のところどうなのだろう。

もちろん食事は自分の身体と心を作る重要なファクターのひとつだ。
実力の拮抗したアスリートの勝敗は食事で決まるときもあるそうだ。


でも「健康に気を配る」を無理してやるのも違う気もする。反面、無理してやる価値のあるぐらい大切なものという言い草も分かる。


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僕もまぁそこそこ、いろいろやってきた。

今もたんぱく質は最低80gは毎日摂るし、マルチビタミンも定期的に飲む。

カロリーのカットに気は使ってないけれど、栄養素の摂取量には気を使っている。標準よりは少し上ぐらいの健康オタクだと思う。

だけど、それは舞台で歌うのに必要最低限ぐらいだと感じている。それらを面白がってやっているし、ストレスでもない。

でもなんだかんだ言って、最強の健康法は二つだけだと感じている。あくまで僕の場合だから万能じゃないと思うけど、二つだ。


それが筋トレと禁酒だ。


保存料やら糖分やら塩分やら合成着色料やら様々な悪者がいるけれど、「それらが比にならないぐらいアルコールのダメージってヤバイんじゃない?」がとりあえずここまでの僕の持論だ。

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僕は浴びるぐらい飲んでいた時期と、一ミリも飲まない時期を生きた経験がある。

今思い返すと、爆飲みした次の日の体調の悪さは異常だった。二日酔いの持つあの心まで苦しくなるような痛みは何なのだろう。

アルコールの致死量も他の飲食物に比べると全然少ない。やはり薬よりも毒に近いんじゃないだろうかと思う。

ずいぶん経つのにずいぶん飲みたい。改めてアルコールの持つ依存性にビビっている。

でも身体や心に悪いものほど美味いし、魂にも悪くないから困る。

筋トレはもうやったもん勝ちだ。男も女も関係なくやった方が早い。解説は省く。

今日でついに364日連続更新。このLINE BLOG。
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zircoでゲリラだった。会えた人たちありがとう。




ようやくできた。「ライブの迫力を収めたもの」がようやくだ。前々から挑戦していたが、難しかった。
でも、当たり前だ。「生演奏じゃないのに、その迫力を収める」ってすごい難度だ。

「音源としての良さ」と「生の迫力」を表現したかった。この二つのは完全に矛盾しているし、対立した要求だ。
「一発録りでやる」程度の工夫じゃ足りない。

でもようやく納得いった。曲もたくさん書いた。たくさん書いた中の6曲が収録になった。

その中でも「もっともっと強いやつになりたい」と思って作った曲が残った。

一刻も早く届いてほしい。でも9月までかかる。時の流れは一定なので、お待ちあれ。
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『あしたを面白く』
1.現実と非現実。
2.まだ「大丈夫」
3.問の先々夜の先
4.今日まで有難う
5.レプリカの限界
6.あしたを面白く



今年は春から月に10本以上のライブをやってきた。鬼のように本質的なライブを追い求めている。今日もやっていたし、あしたもやる。

強いライブを収めたかった。衝動とポテンシャルを収めたいと思った。

ライブをやりまくりながら、レコーディングのスケジュールを敢行した。

「何目指してんの?」と色んなひとに言われてきた。

分からないけれど、とにかくあしたを面白くしようと思っているだけだ。死ぬまでそうありたい。

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あしたの18時に告知やります。
Twitterで。


「自らが味わったことのある話」はやはり面白い。反対に「聞きかじっただけの話」はどうにも面白くない。

説得力と臨場感とエンターテイメント性に相当な差がついてくる。


全部が全部そうというわけにもいかないけれど、なるべく「自分の浸かったことのある湯の話」を書いていたいなぁと思う。


「他人の成功話」や「本に書いていた話」をするにしても、自分というフィルターを通さないと知らず知らずのうちに上から目線になる。オマケにつまらないし、血の通った話にはどうにも勝てない。



この「自らが味わったことのある話」と「聞きかじっただけの話」には明確な差がある。聞いていても肌で感じ取れる。わりと分かりやすい。


その話がマジなのか、そうじゃないのかってずいぶん正確に伝わるらしい。見栄やプライドがおかしい位置に配置されると、必要以上に自分が小さくなるみたいだ。


自分が浴びたら嫌なことはひとに浴びせたくない。そのあたりの潔癖っぷりがわりと強くなっている。

むかしからそんな節がある。


どうやら曲を書くのもライブをするのも文章を書くのも同じみたいだ。

マジじゃなきゃ面白くない。


 
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すげー質問だなと思う。回答というか文章を書いてみた。


ここんとこ、論理性の弱い意見に惹かれてしまうことが多い。

話自体にそこまで説得力は無いのだけれど、「やつが言うならそうなのかもなぁ」と聞き入ってしまうケースだ。YAZAWAみたいなものだ。

そういう話をするひとは、客観性に欠けていて、奔放で小利口じゃなくて、こざかしくない性質を持っている。

ロジックやデータで理論武装しても、腑に落ちない話ってある。論破されたときに襲ってくるあの感情の発信源だ。

きっと「理屈じゃない」ということも、理屈になぞらえようと思えばなぞらえられる。
「美しい」を数的に説明しようとすれば可能だ。そのために黄金比や白銀比という言葉もある。

でも「理屈で納得できないと動けない」というのも腰が重すぎると感じる。ちょっとフットワーク悪すぎる。

「理屈や物質的に納得も理解もできないけれど、なんとなくテンション上がるから進む」で足が前に出る方が強いのかなぁと思う。

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非言語化レベルで自分の行動が決められるひとと、言語化レベルに上昇させないと動けないひとがいる。

どちらが良いか悪いかではもないが、僕は前者でいたい。新皮質よりも辺縁系の衝動で、暮らしを満たしていたいと思う。そっちの方が「カッコいい」と踏んでいるからだ。

もちろん正しいかどうかも分からないし、ディベートの戦闘力も低い。論破されまくる。

でも否定されても、僕が自分のつま先の方向を変える必要もない。肯定されても反対されても結局、進む方向は変わらないのだ。ならどちらでもいい。

そこで「違う意見のひともいるのね。それぞれの夜の先でまた会おうぜ」の方が生きてて面白いと思う。


「本音で生きる」という話に回答できるほど綺麗に生きてきてもいない。でも、そもそも人間誰でも泥を食って生きているものだ。

反面、質問者さんの「あるがまま生きたい」というも願いも、同じぐらい人間らしい。



「人間らしくってなんですか?」という質問が来たので、書いたのが上の文章だ。

「大脳辺縁系と実際の行動の距離のことです」と書いても誰も救わないので、ある程度書いてみた。

1/4の音源が2/4の来場者特典です。
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渋谷キノトだった。ゲリラだ。来てくれたひとたちありがとう。


ライブっていうのを日常的に繰り広げているけれど、改めて深いなぁと思う。
この僕の言葉自体が浅くて仕方ないんだけれど、それでも深いと言わせてもらえたい。



そして「深い」以上に「早い」と思う。一撃で、一発で判明する。その早さが好きだ。

なんていうかその他諸々、「目の前で演奏する」以上のものがある。


そこまでの過ごし方や考え方や暮らし方や音楽性なんかの、すべての総合の平均値が出るのだ。

しかも不思議なことにフロアにはそれが飛んで行ってちゃんと伝わる。これはCDやm4a、MVなんかの収録物には見られない現象だ。


自分が日々にかけている負荷がそれなりにあったり、面白く過ごせているとき、ライブをするのがとても楽しい。「今の俺こんな感じだけど、どうよ?」と勝負出来る場所なんて、そういくつも無い。

厳しいコンテンツでもあるけれど、嘘偽りのないコンテンツがライブなのだろう。

CDと同じような、またはそれ以上の価格帯の表現なのに、何回も観に来てくれるひとがいる。
それは、やはり真実の持つ説得力があるからだと思う。バチクソにやりたい。


1/4の音源5,6曲が2/4の来場者特典です。
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新宿MARZでライブだった。あしたはキノト。


ライブの誘いがずいぶん増えた。

演りまくってるからかな。ありがとうです。もっと誘い来て欲しい。qooland.staff@gmail.comまでどうぞ。


オファーはイマほとんどOKしている。
予定が空いていたら基本GOしているんじゃないだろうか。あらゆるところに行って、勝負したい。
「対バン」という呼称があるなら、「勝負」は的外れな表現でもないだろう。

でも共演の方々もそのつもりのはずだ。
「俺らのこれが一番カッコいい」をやっているのだと思う。相対的にか絶対的にかは置いといてだ。

そこは僕も同じだ。でも、だからこそ面白い。それはきっと「勝負」なのだ。
フロアのみんなが見たいのも、手抜きなんかじゃなくて、本気のステージだろう。
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凄まじく脳筋な話をすると、ライブは格闘技だと思っている。

自分のやってきたこと、過ごしてきたこと、それらをフロアに向かってぶつける。そして自分に負けたら何かを失う。


そう、ちゃんと「失う」のだ。
自分自身に負けたぬるいライブを続けると、グループは緩やかに死ぬ。

自分自身の心もそうだし、グループとしての活力、味方の幻滅。あらゆるものが総動員して死と破滅へと向かう。

解散の理由で「音楽性の違い」というワードがよく出てくる。あなたも聞いたことがあるだろう。

「音楽性」と聞くと作りたいものや、表現したいジャンルの話と思いがちだ。


しかし本当にそうだろうか。
オリジナルの歌を作ってきたくせに、今さらジャンルについて述べるだろうか。

だから解散理由の真実は不仲だったり、金銭のトラブルだったりというケースが多い。

そしてそれをさらにほじくり返すと、何気に多いのが「クソみたいなライブしか出来なくなかったから」という理由だ。
仲が悪かったり、気持ちのコンディションがおかしいと、ステージからゴミ溜めの匂いがする。


意外かもしれないが、クソ同然のライブをしているだけで、バンドなんてあっさり解散する。

「ライブ」というだけあって、文字通り自分自身を叩きつける。本音も生き様も習慣も非言語化レベルで伝わる。

だからこそいいライブは自分を生かすし、本気の拍手なんて貰えた日には、生命力そのものを頂いている感覚だ。

反対にクソみたいなライブをしていると、どんどん自分が死ぬ。
訳もわからずうつになるし、デパスが欠かせない暮らしになる。やればやるほど死にたくなる。

そしてなぜか悪いライブは連鎖する。一旦ドツボにハマると中々抜け出せない。怖い。

ぶったるんだステージを見せられるのは、フロアのみんなも不愉快だろうが、演っている方もつらい。静かに自爆している感覚は恐怖という言葉なんかじゃ到底足りない。

そんな危険物に2日連続だの6日連続だので手を突っ込んでいる。気軽に本数をやりまくっているように見えて、じつは一本一本が命がけなのだ。

大袈裟でもなく、「ライブをたくさん演る」というスケジューリングは、ヘタすると解散に近づく選択でもある。

バンドたちの「一本一本一生懸命やってます!」なんて言い草は社交辞令ではない。

わりとマジなのだ。自分らが死ぬからだ。


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格闘技と違うのは、即死かゆるやかに死ぬかの違いぐらいだ。

「自分自身に負けたら終わりに向かう」は「命がけ」という共通項はだ。ここは僕の中で揺るがない。

他人のせいにしてもその他人は責任を取ってくれないし、その他者依存は確実に自らを蝕む。

あしたもいいライブをしていたい。僕たちが生きるために。良くするためだったらなんだってやる。

「This is QOOLAND1/4」のライブ音源5,6曲が2/4の来場者特典です。
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「運命」とか「一生涯の関係」とかをすぐ口にするひとが苦手だった。物事や日常の価値を劇的して、ブーストしないと気が済まない気質なのだろう。

僕が冷たいのかもしれない。
でもそんな酔っ払った関係よりも、ダサくてもつまらなくても、僕らを支えるのは頑丈な毎日の積み重ねだったりする。

イマ一緒に音楽を作っている人間たちと出会った何でもないあの一日は運命だったのだろうし、イマは会えない友達と最後に会ったあの日も運命の分かれ道だった。

だけど、それは全部後から分かる。
後になって、「アレって運命だったね!」と整合する。

整合する前から運命を口にするとどうにも大切なものがボヤける気がする。丁寧さに欠けてしまい、問題から目を背けているように感じる。

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ラッパーがグリグリ押し付けてくる感動では感動できないのは昔からだった。なんだかそれが苛烈している。

僕も前よりは、何かが良くなるようにひとつでも凄くなるように、日々を使うようになった。そうしてなんとなく分かって来た気がしている。

今日もあしたも、じっくり丁寧に繰り広げていきたい。後からやっぱ言いたいは言いたいのだ。「嗚呼、アレは運命だった」と。

1/4の音源が2/4の特典です。
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