季節が温かくなりはじめて空気の匂いが変わり始めている。

暖かいってそれだけでワクワクする。単純に嬉しい。古今東西万国共通の価値観じゃないだろうか。

だが僕はニガテだった。この春直前の特有の空気が嫌いだった。というより弱点でしかなかった。

「新生活」はいつも絶望を連想させたからだ。

むかしのトラウマみたいなものが束になって襲いかかってくる気がした。弱い自分では新しい暮らしに耐え切れると思えなかった。

進学にも上京にも心が踊らないまま幾度も春は僕をさらいに来た。そのたびに不安は心を陣取った。それがピークになる春は本当にツラかった。

春は本来ターニングポイントのシンボルだ。何でもかんでも春からが基本だ。

そして僕の春は毎回ギリギリだった。ギリギリの転換期を全力疾走していた。

暮らしも心もすべてがギリギリだった。息が切れそうだった。実家を出てからはすっかりギリギリの国の住人だった。貧しさと卑しさと危なさしか無かった。


時間は矢のように過ぎて、2018年まで来た。世の中は変わりに変わった。世と同じく僕だって変わった。


新宿を行く人々は数週間前よりも明るい。

それを見ている僕も明るくなれている。なんだか一緒になって明るくなれているのだ。

変わったのだと思う。苦しかった春が苦しくなくなっている。

だけど街の様相を見ているとむかしを思い出す。

暗かった自分のこと。そして一緒にギリギリの国に住んでいた友達のこと。

10年ぐらい前の話だ。
 
彼とはよくよく変なやり取りをしていた。

道行くひとを品定めして、ギリギリの国の住人かどうかを見定めるのだ。春になるといつもだった。


「あいつらはギリギリの国から亡命してるなぁ」

「俺らとは国が違うんか」

「デンマークとソ連ぐらい違う」

「俺らは?」

「ソ連」

「亡命したいな」

「撃たれるやろ」

「誰に?」

「ギリギリ国王」

「国王が許さんならしゃあないか」

「しかたないんだ」

「しかたないんだよ」
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あの頃、僕の友達は彼しかいなかった。

ギリギリの国の国籍を持っているのが彼だけだったからだろうか。

苦しさはわりと共通語になるらしい。
健全とは言えないけど、身を寄せ合うのもまた本能だ。そしてその本能は僕の命を救った。

次第に彼とは別れてしまったが、ずっと僕は出国できなかった。


だけど今日、「春が嬉しい」と思う自分が自然といることに気付いた。

誰もが手にしている感情である「春が嬉しい」だが、僕の人生からするとほんのり奇跡だ。

もしかすると僕も出国したのだろうか。亡命できたのだろうか。

もちろんギリギリの国にいないと目に映らない人々がいることも知っている。
何かが見えるようになった代わりに何かは見えなくなっている。

春が来た。嬉しい。だけど少し寂しい。

物欲が本当に無い人間なのだが、
これが珍しく欲しい。テイラーという海外のブランド。

中古楽器屋を巡っているが中々無い。純粋なアコースティックギターを一本も持っていないのでそろそろほしい。アコースティックで音楽を作りまくっている。

長年世話になったテレキャスターは人に譲ってしまった。わらしべ長者の企画をやっているひとにだ。

ヘタに売りさばくよりも記憶に残ってほしかった。何かしらになればなぁと思う。
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春以降、エレクトリックギターを人前で弾く機会はもう二度とないかもしれない。
僕の中のひとつのあり方みたいなものが終わる。

寂しくもあるがロックバンドももうやるつもりは無い。

こういう未来の「つもり」の話をするとよく「先々のことは分からないじゃないか」という話をされる。主に年寄りに。

たぶん、そういうひとは仕事ができたのだろう。勉強もできたのかもしれない。きっとガッチリ友達も多い。そしてセンスが無い。

話の力点は「現在、僕は二度と弾くつもりは無いと思っている」というところなのだが、言葉を言葉としか受け取れない人間がいる。気が合わない。

彼らは世の中に一定数いる。主に年寄り中心だ。後は気の狂った女だ。

今週は水曜に新宿、木曜に名古屋。

エレクトリックギターが轟音をあげて、速いビートが鳴る。

僕にとっては当たり前も当たり前の日常。もう少しでこれらは一気に非現実になる。いよいよ大詰め。グッドバイだ。

ネガティブなつもりはない。

「ネガティブ野郎」は嫌いだし、そう思われたくもない。それなのにたまにネガティブな人間だと勘違いされるときがある。どうしたものか。

ネガティブなひとは複雑なのが好きだ。
うまくいかないことがあると、何でもかんでも複雑にしたがる。いちいち深刻にする。

彼らはとにかく世の中が不条理であってほしいし、卑怯であってほしいと願っている。
本当は「挨拶をするだけ」とか「機嫌よく過ごすだけ」とかで解決するシンプルさをごちゃごちゃにしている。

そうなりたくないのだ。見てるのも触れるのも好きじゃない。僕はなるべくシンプルでいたい。

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これまでもうまくいったときとうまくいかないときがあった。

うまくいかないときは極めて複雑に物事をとらえている。うまくいっているときはもちろん逆だ。

シンプルにやる方がいい。説明もいらないぐらいシンプルなものは話が早い。

でも一度複雑になると戻すのは難しい。

複雑に積んでしまった積み木細工は崩した方がいい。その方が早い。

音楽も人生も少しでも遠くに行きたいなら、足取りは軽い方がいいし、荷物は少ないに限る。

ポジティブ野郎ってのはシンプル野郎のことみたいだ。

いろいろとまいってしまう話が多かったけど、ようやく浮き上がりつつある。「ピンチの中にチャンスあり」でしかない。人生はほとんどその仕組みでできている。

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絶望とか哀しさとかに、小さじ一杯だけの希望を入れると引き立つらしい。夢と希望しかない!なんて状況よりもはるかに引き立つ。何がだろう。味というか、すべてというか。

たぶん「全部このためだったのか!」と自分すら騙せるようなオチが定期的にあれば人生は飽きない。

ここんとこ「オチはいつ来るのだろうか」というぐらいあちこちに話が飛んでいたのだけど、連結がようやく見られた。

もしあなたが絶望の淵にいるならば辛いだろう。それはそれはキツイだろう。だけど絶望の隣りに希望がいるのもまた真理だ。

絶望中をどう過ごすかだ。
出口が見えないような苦しさの中でどう苦しむかだけだ。

ヤケになると長引く。
長引かせないようにしておけば回復後もラクに過ごせる。

就活生が街にちらほら出てきた。2019年度から社会人になるひとたちだろうか。

春になると一気に増えるけど、この時期からやり始めているひともいる。


僕は就職したことがないし、雇用目掛けて走った経験がない。だから「就活をする」という行為自体がやけに大人っぽく見えるし、リクルーターが好きだ。

このブログも仕事にまつわる記事が多い。

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引き寄せてるのかちょくちょく就活相談が来る。実際に会いに来るひとまでいる。うれしい。

僕自身は「就職した経験のないやつに聞いても分かることなど」と思うのだが、やはり話を聞くのは面白い。


それにしてもこれからの就職活動戦線はどうなるのだろう。

今は仕事が多いけど、オリンピック以後は景気が落ち込むし、求人も減る(歴史的に見ても)。
AIの台頭で事務処理系の仕事は減っていく。それらと合わせて、全体的に求人量は下降線を辿るだろう。


反対に増えているのが観光関係だ。

新宿に来ると分かるが、もう街の2割3割近くが大陸系の人々で埋め尽くされている。

海外旅行を楽しめるほどの収入があるアジアの中間層が数億人規模で増えているからだ。とにかくバキバキに増殖している。

QOOLANDが始まった頃、ここまで新宿にアジア人はいなかった。

外国人が日本で使ってくれるお金は、かつて加工貿易国家だった頃に、輸出で稼いだ外貨と同じ意味を持つ。もちろんいいことだ。


後、プログラミングもこれまでのように増えまくるはずだ。

プログラマーの数が必要になってくるのはもうすでに近隣で起き始めている問題だ。知り合いの会社がうめいている。

もはや「プログラミングができるかどうか」は、かつての「英語ができるかどうか」に近い意味を持つ。

僕も興味はあるし、かっこいいとも思う。

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これから若者は減り、高齢者が増えていく。

必然的に社会保障がどんどん無くなって消費税なんかもバカみたいに上がっていくはずだ。15%ぐらいまでは行くと思っている。

キツイけどキツイ国でキツイ顔して生きていかないといけない。もう自分の力でガッチリとやらないとやっていけない。

僕たちゆとり世代は色々と弱い。頭も身体も心も貧弱だ。

でも教育のせいにしても仕方ない。受けた以上、その歴史は消せない。

そもそも教育なんてナンセンスだ。

「次のうち正解はABCDのうちどれか」なんて生きていく上で考えるならばトチ狂っているのだ。

これまで生きてきて、ほとんど「正解」なんて無かった。

就活で言えば正解な会社なんて無いし、バンドに加入しても正解なバンドなんて無いし、どんなメンバーとやるにしても正解なメンバーなんて無い。ていうか活動に「正解」なんて無かった。

デパートに商品が完成品として並んでるみたいに、「正解が必ずある」という思い込みで生きていくと死ぬ。

「正解な道」なんてものを考えて活動していたら、僕たちは3ヶ月で解散していた。

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「A社.B社.C社のうちどこが正解か、自分を生かしてくれるベストな場所はどこかしら?」なんて思考はある意味危険だ。

会社も変化するし、僕たちも変化する。

「調子良さそう」に見えるものがいきなり死亡する。その屍で世の中はできている。

入社した会社が自分にとっての正解なんて思うから、半年もしないまま居心地が悪くなり「こりゃ、正解でも何でもないやんけ」となってしまんじゃないだろうか。

3年以内に3割が辞める風潮は正解主義も関係していると思っている。

自分で仮説を生み出して、自分で動けて、自分でやれるやつになっておく必要がある。

「どこに入ってもやれるけど、せっかくやるならここがいい」のテンションがわりと自分を救う。

不思議なことにバンド活動もそうだった。

本質はいつも同じらしい。ぬるいやつはぬるいし熱いやつは熱い。

瞬間で伝えあったことの輪郭を夢よりも不確かになぞりあうために僕たちは、目や、手や、言葉を持っている。今日もそれらを使って会うし、話すし、分かち合う。

人生はいろいろ面倒だし歯がゆい。

だけど「素敵視点」を持てば毎日はわりと美しいのも事実だ。そんな「素敵視点」はすでに存在しているものの中にあるらしい。というかその中にしか無い。

上を向いたら星は灯るし、下を向けば虫が死んでいる。何を観測するかで、日々は素敵にもゴミにもなる。そして思うより時間は無い。

ひとは「もう分かっているはずのことを『実感』するため」だけに日々生きている。まだまだ分からないがそうとしか思えない。

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「こうすると嬉しい」も「あれを見ると胸踊る」も僕たちは分かっている。知っている。見たことも聞いたこともある。

何かを食べれば満たされることは知っているし、誰かを喜ばせたら嬉しいことなんてもう学んでいる。

「分かっていることを自らの力で実現して感じる」というプロセス自体に生きる意味があるらしい。結果を目指す上でのプロセスにこそ本質がある。

「考えていたことを現実にする」ということの尊さは凄まじい。すべての人々がそこに命をかけている。
もはや「会いたいひとと会う」というだけでもほんのり夢だ。

「一緒に何かを食べて飲んで、観て、笑い合いたいから」予定を合わせて僕らは誰かと会う。


気が付いたら遠くに来ていたような気がする。

実感したかったことをたくさんしてきたことで歩んできたのかもしれない。元いた場所から離れたのかもしれない。

その結果、幸か不幸か道は途絶えた。

そしてロックバンドがこの世から絶滅したんじゃないの?と勘違いするほど僕の毎日は静かになった。

「ひとが観測していないとき月は消滅している」という説がある。学会でも極めて科学的に検証が進んでいる。


久我山駅のホームでこの文章を書いている。このまま吉祥寺へ向かう。

向かいの電車の行き先には"渋谷"と書いてある。
本当にギュウギュウと音がしそうなぐらいの量の人間が護送されている。

僕がいる位置は今とにかく静かだ。

ミーティングとかで偉いひとが偉そうなことを言っているときがある。

そのひとの幼少期を考えたりしてストレスを逃がしていたのだが、「嫌な子どもだったのだろうなぁ」と思うとうまくいかなかったりする。ストレスは逃げないし気持ちは暗くなる。

やはりイマはイマでむかしはむかしなのだろう。
すべては満遍なく変わるらしい。

かつて面白くなかったことが面白い。嫌いだったことが好き。愛していなかったことを愛しているの連続だ。

「このまま」なんてない。

僕は僕のままだけど、「イマのまんま」で走れるようにはできていない。みんな切り替わる。世界も暮らしも。

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新宿も変わる。住んでいるひとも訪れるひとも。

変化に怯えず本質を変わらず捉えていきたい。「変わること」はじつは変わらないらしい。

東京から大阪に向かわなければいけない人間は飛行機が運行休止になっても、新幹線が走らなくても、車が壊れてもどうにかして向かう。

経路や手段が変わっても向かうべきところに向かう。起こるべきことは結局起こるべくして起こる。

二月も気が付けば半ばに差し掛かってきた。二月という月間は毎年記憶が無い。去年の二月の出来事も当然頭から抜け落ちている。

サイフのファスナーが壊れたので直したい。ファンの方から貰ったのでなるべく使っていたい。

修理屋がちらほらある。カバンや靴の修理屋がこんなにあるなんて気が付かなかった。

僕たちは見たいものしか見ることができないし、「見た」と「正確に情報を受け取った」にはやたらと距離がある。

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忙しくもないのに修理屋に入れない。いつか入れるのだろうか。
もちろん本当に直したければいつの日か必ず直るだろう。直るべくして直るはずだ。

僕はロックバンドをやめてしまうけど、言葉もメロディも新しいものを用意している。「欲しい」と思ってくれたひとには確実に届く。

経路や手段が変わっても向かうべきところに向かう。起こるべきことは結局起こるべくして起こる。


人間をそれなりに長くやってきて「なるようになる」という話の質感が少し分かってきた。「どうしようもない」という材質ではないみたいだし、「努力しても無駄」という素材も使われてはいないようだ。

「東京と大阪の距離を決めるのはkmじゃなく、どれほど行きたいか」に近いものでできているらしい。

「転がる石のように」と歌った歌がロック史上最も偉大な歌らしい。偉いひとたちが話し合って決めたオールタイムベストワンだそうだ。

勝ち組、負け組という言葉がある。それらの言葉が浸透してからもうずいぶん経つ。

どうなのだろう、と思う。


そのときに勝っているひとがいつまでも勝つとは限らないのが人生だ。

それらが続くとは僕には思えない。

大体のひとが浮いたり沈んだりを繰り返していくからだ。

だから「お前は負け組だ」ともし言われても、いつかは勝ち組になれるかもしれない。
そう思うと仮にそんなことを言われたとしても、落ち込む必要もない。

「嗚呼俺はイマは負けてんのね」ぐらいの軽い気持ちでいた方がいい。

人生はトーナメントじゃなくてリーグ戦だ。一時期の込んだ負けがすべてじゃない。

勝ち負けなんてものは、そのときだけのものだ。

だから勝っているとか負けているとかに焦点を当てて右往左往してもしかたない。不安を大きくしてもどうしようもない。

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でもそれらが気になるひともいるみたいだ。分かる。なんとかしてきた。なんとかだ。

なにかしら小さな基軸の勝ちを作るといいかもしれない。

「暮らしていけて、自由がちゃんとあるなら勝ち」でもなんでも構わない。

刑務所で自由を制限されているわけでもない。それだけで勝ちかと。

贅沢の基準を他人の感覚に合わせて勝ち負けを持ち込むとおかしくなる。

それは自分に負けたということだ。自分の信じた価値観を満せないなんて不幸だ。

「勝たないといけない」という意識が自分を奮い立たすときはたしかにある。だけどそれらは「相手を負かす」と同義ではない。
「自分の弱さに負けない」という使い方をしないとうまく機能しない。


大切なのは転がる石のように、吹き抜く風のように。その場その場の流れの中で本気で生きていくことだ。それができたら「勝ち」だ。

「そのとき」が来るまで心を整えておくと言ってもいい。

目の前のことを毎日丁寧にやるだけだ。勝ってても負けててもしっかりとやる。それでどこにだって行ける。



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