「コラムのようなブログ」と言われることがある。読んでくれてありがたい。コラムと言われるとどうだろう。断っておくが嫌がっているわけではない。

コラムの役割というのは「視点の提供」だ。

「この事柄に対してこういう見方もあるよ」や「こっちから見るとこう見えるんだぜ」という文章がコラムだと思う。

たしかにここLINE BLOGにはそういう側面もあるし、僕個人もたまにコラムの仕事を受けている。


しかしコラムニストというものはひねくれ者だ。

みんなが右と言ったら左と言うし、西と言ったら東と言う。
コラムニストとはそんな面倒なやつなのだ。

その面倒なやつの視点は真っ正面ではないからこそ面白いと思う。そしてコラムはそれゆえに存在意義がある。


七面倒なのが嫌いな方は「いったいてめーは何なんだよ!」と言いたくもなるだろう。
ガチャガチャうるせーのがコラムだ。すまない。

しかしコラムの役目は視点の提供をすることだ。「このやろー」と言ってくるひとへ回答することではない。
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逆に言うと正論や正義を説くコラムは読んでいて、少し味気ないなぁと感じてしまう。
「そうすね」しか感想が残らない文章は読んだ後に読み手に何も与えないのかもしれない。

もちろん悪口を書きまくったりするのは問題外だけど、せっかくコラムを読むなら「そんな見方もあるんやのー」というとこに着地したい。


ここがコラムかコラムじゃないかは分からない。

だけど、LINE BLOGにアクセスしたひとの気が少しでもラクになったらいいなと思っている。自分の考え方ややり口も何かの足しになったら嬉しい。「何の足しにもなんないけど、暇つぶしぐらいにはなった」でも全然いい。

今日もQOOLANDのLINE BLOGに来てくれてありがとう。
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喉、けっこう治っていっている(と思う)。ありがたし。あちこちの方面に助けてもらったおかげだ。

誰かが困っていたら、僕も助けたいなぁと思う。


自分が崩れると改めて「他の力」の大きさを感じる。これはもう何度も味わっているが人間、「他の力」あってこそだ。


「サピエンス全史」にあるように人類の卓越した能力は「協力」だ。「協力」により外敵を打ち破り人類は発展した。

力を合わせられるか合わせられないかで大きくクオリティは変わってくる。
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「協力」は大切だしシンプルな構造をしているが、得るのは容易くない。「力を合わせる」って簡単に見えてそうでもない。

「協力」を得るのに必要なアビリティは「関心を持つこと」らしい。どうやら「信頼」も「好き」も「本心」も絶対必須ではないそうだ。

「他者への興味」なんていう抽象的な非数値的なものが人類最強の能力だと考えると面白い。

でも分かる。「興味を持ってもらえる」って嬉しい。

簡単じゃないけど、本質はシンプルなのだ。

だけど、SNS革命の裏で少しずつ減ってしまったものなのかもしれない。

何でもかんでも新しい文化のせいにしているのは好ましくないが、あれらは簡単に分かった気になれてしまうツールであるのも間違いないかなぁと。


東京は延々と雨粒が降り注いでいて、一向に晴れる気がしない。死神が出たのだろうか。
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初めて歌無しのライブをやったのだけど、昨日も物販でCDが売れた。

「どんな歌が入っているのか分からないけど、サウンドだけはライブで体感している」という経験を経てからCDを聴くってすごい。誰もできない体験。ちょっと羨ましい。

「思っていたよりずっとナイスな声だった」になればよいのだが、果たして。
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僕は風邪で声にトラブルが来たわけではないから痛みは一切無いのだが、風邪の季節だ。気を付けろ?

寒さは尋常じゃないレベルに到達している。
10月とは思えないほどだ。

なんでもこの寒さは「10月のわりには」という枕言葉を使えば60年ぶりらしい。しかしその枕言葉って意味あるのだろうか。「10月のわりには」は誰を救うのだろうか。

しかし皮肉にも昨日は「歌の無いわりには」という心理的ハンデを無視できないライブをした。だけど決して劣ったとも思わなかった。

その場その場でどれだけやれるかでしかない。昨夜という点で見れば最高でしかないのだ。あの時点では歌無しゆえに最高だ。


「普段はこう」という枕言葉はそのときその瞬間に立ち会ったひとにとっては何のマイナスにもならない。

今現在目の前にある現象がすべてだ。
過去や未来を持ち出して目の前のパフォーマンスが下がるのはきっとよろしくない。


「声を失くした」と書くと大仰なのだけど、とにかく声が出なくなってしまった。

酒もタバコもやらずに歌い続けていたのだけど、それでも突然出なくなった。

徐々に出なくなるとか体調の変化などの兆候は無かった。いきなりゼロに到達した。デジタルな発症だった。

一分前には所有していた能力が急に欠ける。もう怪奇現象そのものだ。

「有る」ものが「有った」ものになってしまった喪失感はそこそこ大きくて、そこそこショックだ。

医者曰く、心配することでもないし、元どおりになるらしい。ただ使いすぎただけらしい。

本人としては気が気じゃなかったので、ひとまず良かった。
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声が失くなると不便そのもので、意思疎通すら手間がかかる。

心配おかけしているが心配ゴム用だ。もちろん昨日よりは改善している。小声は出せるようになってきている。


それにしても久々に強烈なロストデイだった。

昨日、心斎橋vijonに来てくれたひとの中には、僕の歌を聴くのが最初で最後のひともいただろう。

医者の話では、どうやら一週間もすれば治るらしい。しかし、昨日vijonにいたひとたちに歌うには間に合わなかった。

後悔という話ではない。無くもないが間に合わなかったものは仕方ない。

これまでも「間に合わなかったこと」なんて山ほどある。だけど、少なからず間に合ったことが有るから僕らは生きている。間に合ったことと共に生きていこう。

無傷なやつなんていない。無傷はラクだけど楽しさや醍醐味はいつだって傷口の隣りにある。

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あなたの毎日に嫌なことも苦しいこともあると思う。だけど、五体が普段通り使えている有り難みを噛みしめるのもいいかもしれない。

大事なことこそすぐそばにあるみたいだ。有るものは永遠でも無いし、無敵でもない。

幸せはすでに有るもののなかにある。「何を与えられるか」ではなくて、「与えられているものをどう使うか」だ。その方がエキサイティングだ。


挨拶するタイミングで「ブログ読んでます」と言われることが多い。嬉しいのでなるべく面白く書きたい。


昨日は奈良にいた。
関西人のくせにちゃんと訪れたことがなかった。社会見学か何かでは行った記憶がある。

村上くんが弁当を鹿に食われて、鹿に蹴りを入れたことで先生に鬼のごとく怒られた。それ以外は何一つ覚えていない。

「かわいい鹿を蹴るなんて!」という理屈だったが、村上くんと鹿のバトルはわりと五分だった。

弱いものイジメなら良くないが、タイマンでも怒られるってどうなのだろうか。動物愛護のバランスも難しいところだ。
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奈良の街は23時を過ぎると軒並み店を閉めるスタンスだった。ふだん歌舞伎町にいると、この感覚を忘れてしまう。そう、人間夜は寝るものなのだ。

「店が開いている」ってつまり「そこで働いてくれているひとがいる」ということだ。

働くのは尊いが、リセットになる時間帯が無い都会にいる僕らは少々生き急いでいるのかなぁなどと思った。


ツアーをすると、いろんな街を歩くことになる。インターネットやらSNSでは分からないことがたくさんある。
比較もできるしコントラストも肌に染み込む。
やはり生身じゃないと味わえない喜びや痛みや感激がある。

傷が無いと楽だけど、生の傷が無いとどうにも面白くはないのかもしれない。それらがバーチャルだと、人生はビールとビールテイスト飲料ぐらい違う。

誰かにキレられたことの無いひとはいない。キレをくらうと自分に非が無くてもダメージを負う。このダメージをなんとか軽減できないだろうかと思ったことがある。


「課題の分離」という考え方がある。

みんな他者が自分をどう思うのか、他者が自分にどういう評価を下すのかが気になってしまう。人間だから。

でもそれらは他者の問題であり、他者がどう思うかは他者自身が向き合うべき課題だ。
そこに自分が介入して、一喜一憂する必要は無いという考え方だ。

ドライっちゃドライに聞こえる考え方だ。

ただ「他者にどう思われるだろうか」という懸念が不自由に繋がっているケースは多い。

10年近く前に習ったアドラーの教えだったが、なんだかんだ僕の人生を支えるバックボーンになってくれている。

他者の心や行動はコントロール不能だと知ると知らないじゃ、対人関係の難易度は大きく違う。

無関心になるということではない。困ってるひとがいれば助ける方が粋だし、疲れてるひとがいれば気合いを入れてやる方がクールだ。

だけどそれで困っているひとが明るくなるかは分からない。疲れてるひとが気合いMAXになるかも分からない。

そこはそのひと自身の課題だ。自分ができることは限りがある。

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「馬を水辺に連れていく」ということわざがある。
馬を水辺に連れていくまではできるけど、そこで馬が水を飲むか飲まないかは馬次第だという意味だ。

この「課題の分離」を用いると、怒る回数も減らせるし、気分の上がり下がりでおかしくなる回数も減らせる。
100%ではないが、僕はこの哲学に決定的な破滅を何度も救われた。


課題を見分けるのも簡単だ。

「その選択によってもたらされる結末を引き受けるのは最終的に誰か」というところだ。

キレ散らかす親や上司は「お前のせいだ」と言ってあなたを罵倒してくるかもしれない。

だけど、その「キレてますよ、僕はね」という感情と、どう折り合いを付けるかはあなたの課題ではない。
その感情を最終的に引き受けるのは、あくまでそのひと自身だからだ。そのひとはそのひとの選択でキレている。


もちろん水辺に連れていくように善処はできる。
だけど、その馬が水を飲むかは分からない。そこまではできないし、連れていったひとが「飲まねー!」と苦しむ話でもない。

もらったキレはあなたのせいではない。

「キレさせたのはお前だ」と相手は言うかもしれないが、「キレる」という行動は選択制だ。不可抗力ではない。包丁を持っていたら刺していたとでも言うのだろうか。そこまで「我を忘れる」なんてよっぽどの段階だ。

「自分のキレに折り合いを付けるのはキレた本人の課題」だ。気にしないでいきたい。


音楽をしながら生きていると「やりたいこと」を軸に進路を決めたと思われている節がある。
「好きなことできて幸せじゃん!」といった言葉を何万回も頂戴してきた。

どちらかと言えば逆だ。

「やりたくないこと」を軸にして生きていたらこうなっていたというのが本当のところだ。

そして、僕は「できること」が他にあまり無かったからだ。


まわりと調子を合わせなきゃいけないタイミングで合わせられなかった。
親や先生の言うことに従うキャパシティが無かった。
自分自身のキャラクターを覆せなかった。
新しい方向に進むストレスに耐えられそうになかった。
今鍛えているものをもっと練り上げた方がいいと思った。



「音楽が好きか?」と言われたら好きだ。

でも逆に聞きたいが「音楽が嫌い」という人間なんて少数派なんじゃないだろうか。7〜8割ぐらいの人間はまぁ音楽好きだろう。

おそらく絵画や小説、落語、相撲なんかに比べたら圧倒的な支持率だ。
Z6wORRY4aG.04.17.png進路を選択するようなときに、「自分のやりたいことをしよう!」は聞こえはいいが、意外と危険だ。
自分の選択肢や可能性を狭めるキッカケになりかねない。


可能性を広げる視点はいろいろある。
「やりたいことをやろう」もいいけど「できることをやろう」から取り掛かる方が段違いにスムーズだろう。スタートがスムーズなら可能性は広がる。

「やりたいことをやろう」が見つからないひとも「絶対やりたくないこと以外をやろう」なら見つかるだろう。そして、その先に「じつはやりたかったこと」が転がっていたりする。


僕は世の中の職業すべてに「キツイところ」があると思っている。「その仕事特有のキツイ部分」だ。


その職を続けられるひとはその「キツイ部分」に耐えられる性質を持っているのだと思う。

「向いている」って特別な才能の有無なんかじゃなくて、耐久力なんじゃないだろうか。そういう意味じゃ6年も続けているのだから凄まじい耐久力だ。


仕事を選ぶとき「耐えられそうかどうか」という観点で選ぶひとなんていないのかもしれない。


だけど「やりたいことをやる」は綺麗なところばかりに目がいかないだろうか。

これも当たり前だけど、何だって良い面だけじゃない。悪い面とどうやって付き合っていくかだ。だけどそこを引っくるめるから「面白い」も「楽しい」も生まれる。

「その仕事特有のキツイ部分」は少し引きで見ると「その仕事特有の面白い部分」だったりする。


 
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無理やり世間に合わせないといけないタイミングがいくつもあった。

偉そうにロックバンドなんてやっているけど、僕だって愛想笑いを使って生きてきたし、土下座を何本も打ったし、本当はぶっとばしたい相手を褒めちぎってきた。

自分を曲げ、世間に合わせ、常識を探して命を繋いだ夜がドッサリある。


進路や情勢や趣味、異性関係。
何を決めるにも「他人」を無視なんてできない。人間は「群れ」の生き物なのだから「社会性」は生存本能だ。

だから「世間の一般常識」に合わせとくと、その瞬間のストレスは吹き飛ぶ。逆に抗うとどうしてもハートに抵抗が生まれる。抵抗はストレスになって負荷になる。少々苦しい。

だけど世間に無理やり合わせた夜は、後々二日酔いみたいにのしかかる。肝臓がブッ壊れて脳が縮んでいくのと同様に魂も削れて減る。僕たち人間は動物じゃないからだ。

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経験上、「世間に合わせる」と後々キツイのだ。結婚の年齢問題、雇用契約、学歴なんかは特にそうだ。合わせて決めると後々キツくなる。

若くして結婚したい。正社員になりたい。大卒じゃないといけない。 

なぜそうしたいのか説明するのに「世間」や「一般的には」や「普通は」以外を使ってできるだろうか。
 

小さい世界にでも「世間」はある。音楽業界にだってたくさんの「一般常識」がある。

「合わせ」でストレスが逃げるのは一瞬だ。モルヒネと一緒だ。
その先、後悔は続く。そして後悔してからが妙に長い。極めつけには後悔しか残らない。


道を選んだり大切なことを決めるときは「世間」や「一般的には」や「普通は」を使わずに説明できないとダメだ。どんどんダメになる。


「大切なこと」ってしばらく続いていくのだ。
蹴り出した瞬間は「一生やる!」と心の底から思っていることって大切なのだ。
もちろんそれが一生続くかは分からないし、ほとんどが死ぬまでは続かない。だけどそれだけ強いことは思い出ぐらいには滑り込んだりする。


僕たちはすべてを覚えてなんていられない。過去から「思い出」に殿堂入りした出来事なんて数えるほどしか無い。

思い出を大事にしすぎるのもアレなんだが「思い出」になり得るようなことはきっと重要なんじゃないだろうか。

身体は食べたものでできている。魂はこれまで選んできたことでできているのかなぁと。
 

今日で6周年だ。

メンバーチェンジ無く、6年もバンドを続けてきた。

結成したときはたくさんのグループがいた。でもあの頃、共演していたひとたちのほとんどがもういない。

解散、休止、脱退していったからだ。




グループに解散は付き物だ。
救いの無い話だけど、解散しないグループは無い。死なない人間がいないのと同じだ。

モー娘。や48グループなんかは続くかもしれないが、ああいった半永久的なスタイルは「解散」というより「倒産」というイメージだ。


ロックバンドの話をすると、「解散しない」はまず無いだろう。

僕たちも例に漏れずだし、Mr.ChildrenもGLAYもサザンオールスターズもいつかは解散するのだ。

昨年、SMAPが「永遠に続く」は無いことを突きつけたばかりだが、本当に諸行無常を感じた。


「とてつもない人気」が解散を防ぐかというとそうではない。ビートルズもポールが他の3人のメンバーを被告として訴えたので法的に解散している。

他にも絶頂期に解散するグループは多いように思う。
 
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今年もたくさんの脱退や解散、休止があった。

アカリファ、asobius、いきものがかり、カラスは真っ白、シャカラビ、つばき、ビレッジ、plenty、WHITE ASH。

2016年の段階では当たり前に存在してたし、カタチを保っていたひとたちばかりだ。

誰かがいなくなるなんて思っていなかったし、休むと思わなかったし、失くなるとも思わなかった。

ニュースが耳に入るたびに締め付けられるような気持ちにもなるし、「おつかれさまでした」という気持ちにもなる。

そして「明日は我が身」というゾクッとした悪寒も走る。

今現在、最新ベースの段階では僕たちには解散も休止も脱退の予定も無い。

だけど、あした菅さんがトラックに轢かれて死ぬかもしれないのだ。

いくらなんでもトラックに轢かれたら流石に死ぬだろう。たぶん内臓とかグチャッとなって血を吐いて死ぬのだ。かわいそうに。
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僕は「今ある状態に対し、足るを知ること」でパフォーマンスの向上が得られると思っている。

そして、それを得るのに「いつか失くなる、でもそれは今日では無い」ほど確実な呪文は無いだろう。

この呪文はグループの活動だけではない。人間関係すべてに当てはまる。

「いつか失くなる、でもそれは今日ではない」も「いつか別れる、でもそれは今日ではない」もたまに唱えると気が引き締まる。そしてストレスを溶かす。

そばにいるひとや目の前にあるもの、涙が流せるもの、熱くなれるもの、好きだと思うもの。

大事にできるときに大事にしておきたい。

油断すると人生はいつもギリギリ間に合わない。だからこそ間に合わせたい。6年目激烈に生きたい。情勢を一気に変えていく。

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人生の大切な瞬間に限って、僕たちに選択肢は無い。
悲しいようにも聞こえるけど、だから生きられるのかなぁとも最近思う。


新宿駅や渋谷のスクランブル交差点。テレビに映る「日本の中心」だ。都内在住の僕はここに日常的に訪れている。

僕はここを読みに来てくれているほとんどのひとが都内に住んでいないんじゃないかと思っている。勘だけど、当たっている気もする。

当たり前だけど、地方人の方が多い。東京にひとが多いのは事実だが全体の一部ではある。そして、田舎育ちのひとはわりとその一部になりたがる。

僕の人生にも「東京」は交差した。この生活は長い人生の一部かもしれないし、大半かもしれない。

全体像を見ないと、つまり終わってみないと死んでみないと割合は分からない。後から「嗚呼、東京にいたのなんてちょっとだったなぁ」なんて思うのかもしれない。

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上京という道を自分で選んだ気もしているが、俯瞰的に改めて考えると「たくさんの道の中から選んだ」とは言い難い。あの時の僕には他に選択肢も無かったのだ。

音楽を始めたのも同様だ。他に手段が無かったからだ。おそらく思春期に何の問題の子どもであれば、楽器なんて触らなかった。

たぶんいろいろなことは「選んだ」けど、選択肢は他に無かったというのが本当のところだ。


さまざまなアレコレを思い返して、人生には選択肢が少なかったと感じた。


後ろには決して戻れないけれど、前だけを向いていたら、忘れてしまったであろう思い出がいくつかある。そしてそれらがイマの自分を作っているのも事実だ。


重要なときに限って、僕たちに選択肢は無い。だけどそれはそんなに不幸な話でもない。
「なるようにしかならない」っていうのは、「なるようにならばなる」ってことだ。

それを不満でいっぱいにしていたら、何も見えなくなる。不満足と照らし合わさないと「向上心」という概念を携えられないわけじゃない。

満足しながら良くなることはできる。むしろ最近は満足していないと良くならないんじゃないかとすら思う。


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