月別アーカイブ / 2005年08月

今、NYCに移り住んで約2ヶ月が過ぎようとしているところに差し掛かった。それと同時に俺にとっては始めて親のスネから離れて一人で暮らしていくという本当の意味での戦いが始まって約2ヶ月になる。

21歳でやっと親からの仕送りをもらわなくなるなんて自分が甘い生き方をさせてもらってきたこと、分かっている。 15や16の時から働き出して何年もその体から出る脂汗に意地と根性をねじ込んで働いてきたやつらから見れば俺なんて・・・。

俺の手の皮はまるで女のように薄く、筋肉のない細長い体、今までペンを握ってきて育った、そんなか弱い自分が今でもまだここにいる。

ここ約3週間、一日の休みもとらず、アパートへ帰っては眠ってまた仕事に出かけていくというそんな暮らしをしている。こうしている今も本当は眠って明日の朝また油まみれのレストランのキッチンへ行く明日の予定がある。 最低限の自分の暮らしを支えていくだけでも毎日が精一杯で、そんな毎日にまみれて自分がなぜここにいるかを見失いそうになることがある。

夢を枯らしていくプロセス、自分を殺していく地下への階段のなかに俺自身が確かに立っている事を感じている。 けれどカネがいるんだ、ただ生きていくためだけに。

まさかこんな事を俺がこの口から言うなんて親父の説教を上の空で聞いていた頃の俺には想像もできなかったことだった。 けれど俺は近頃毎日のように感じている、自分を殺しながらでも最低限の金を稼ぐ為に犠牲にしなきゃいけないものがある事を・・・。

俺は今、大きな決断を迫られている気がする。 2つに一つだ。

夢を少しねじって、金を稼ぐことだけにこの人生をもう少し費やしていくのか

それとも 金がなくても夢の形を何一つ変えずに、夢だけを信じて生きていくのか

もちろん後者をとりたい自分がいる。そして生活に苦しむ俺がここにいる。

働いても働いても遊ぶ金も時間もないのに残る銭なんかありゃしない。 なんでなんだ。 金に振り回される俺達・。 きつい暮らしを今すぐ救い出してあげたい、自分自身で、自分のために。

俺がテキサスで学生をやっていた頃、日本人のいない学校だったので、ある先生は俺を見つけて、昨日は家族ですごい映画を見たよ、大変すばらしかったって怪しげに楽しげに笑顔で話しかけてきて、何の映画?って聞いたら、パールハーバーやって。 そんなスパイスの効いたジョークを食らわされてしまったりしたこともあった。
アメリカ人の感覚では Hiroshima Nagasaki よりも 真珠湾攻撃の話が戦争を語るときに真っ先に出てくる。
原爆の被害に目を向けていないアメリカ人たちはおおいね。 
俺が思うのはどの国にもどんな個人も主観から見ることばかりが客観から見ることよりもいくらばかりか多すぎるように思う。日本人は真珠湾の攻撃の事を原爆以上に重要視しない傾向があるし アメリカはその逆。 日本がアジアの国に与えてきた傷は政府の人間達の訪問と金と友好の握手で揉み消されて、日本では教科書にまで改変が加えられてきている。結局のところ誰もが自分達が受けた傷をイタイイタイと泣きわめき、与えた傷を正当化して丸め込んでいる。 世界をどう変えていくかとか、評論家や教育者に平和を語らせるより前に奴等を夜の街中に一人歩かせて誰かに思いっきり殴らせればいい。 いきなり殴られた机上の平和主義者がそのあとどうするか。何を感じるか。そのなかに戦争の全てがあるように思う。  この世界にはいくらでも野蛮な事をするだけの怒りはそこらじゅうに渦巻いている。 それを止めようなんて無理だ。 やせこけたスーツ姿ではそれに立ち向かえないから戦うやつらははちきれるほどの筋肉を求めてジムへ通う、他の奴等は武器を持つ。 もっと噛み砕いていえば、俺達の日常生活でもタフな世界でその子が将来、生きれるようにと親は子供を教育し知恵と経験を授ける。 親はこの世界には競争と勝ち負けがある事を充分に知っているから子供をこの世界で生き残れる存在、つまり勝ちの人間にしてあげたいと願うから。 誰もが持つ心に生まれるライバル心は自分の中の見えない相手との戦争だし、向上心は上にある目標から生まれ、他と比較することにその原因がある。もしも俺達が全ての文明を捨てて森の中、木の実を食べるような生活をしたとしても俺たちは一つのリンゴの実を取り合うだろうしそれは戦争。 妥協はどこまでもすることはできるしバランスをとることもできるけれど、俺達にできることはそれだけで答えははじめから決まっているように思う。 生き残ろうとする本能が俺たち人間にはあるし、誰かとナイフで切りつけあったら手に持ったナイフで切り付けたそのひと裂きよりも、切り裂かれたひと裂きの傷が痛いに決まっている。 誰もが第一に自分を大事にする、そのエゴイスティックな本能を当然のこととして受け入れた上で、傷付けられたら思いっきり泣き叫べばいい。 どれだけ叫んでも相手が同じ傷を体で受けない限り完全な理解はありえないけれど、傷付けられた個人にできることはただその痛みをありきたりの力で叫び狂うことでしか戦いの痛みを他に伝えることはできない。 俺はそう思う。

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