月別アーカイブ / 2005年04月

Nobody cares about you like you do.
The more you want to be cared about you the more you will feel lonely.
You gatta love yourself.
Don't expect too much to others.
You've got eyes to see foot to walk heart to decide.
Yes you've got everything you need.

Now all you need is to decide to stand alone.

俺の中にはいくつもの数え切れないほどの偏見や、早とちった考えが渦巻いていてその目でこの世を見て生き続けている。俺だけじゃないだろう。誰もが必ず特定のものの対してそれぞれのイメージというものを持っている。 それは例えば「日本」と聞いて思い浮かべる風景だったり文化だったり、「長渕剛」と聞いて思いつく彼のイメージ、人柄だったり。 多かれ少なかれ俺たちは全てのものに対して何かのイメージを持っている。
そこでそのイメージ、偏見が実際のものと当てはまるかといったらそれはまた全く別の話だとおもう。その実物や本人の全ては知らないけれど、自分の中にはそういうイメージがあるというだけの話でそれはそのとおりかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
人間は偏見で生きている。自分の持っている他の者たちに対するイメージ、偏見が正しいかどうかなんて確かめられもしないでそんな思いをいつもかかえている。
自分を疑いながら、正しいものは何なのかと常に問いかけ続けて、謙虚に生きていくこともできる。俺は自分ではそうしてきたつもりだった。自惚れぬように、視野の狭い男にならぬようにと。常に心をオープンに、相手の話を素直に受け入れようと、他の価値観をもっと尊敬しようとやってきた。そしてそれをしてきて何を得られたか。自分をなくしてしまう感覚だけだった。 広い視野で世界を見渡そうといろんな人の話を真正面から聞く、そして自分の心に響かせようとする。対立する二つの意見のその両方に耳を傾けるとその両方の立場が、心境が分かってくる。そこで「それじゃ自分はどっちに傾くのか、自分の意見はどっちなのか」その問いかけをした時にどちらにもいけずただその狭間でまごつきながら漂っているだけの自分の存在があった。これからどうしていくべきなのか、何が必要なのか、解決策はなんなのか。相手の意見を受け入れるだけでは、ただの馴れ合いで終わってしまうだけなんだ。
広い視野、相手の価値観を尊重する開いた心だとか簡単に人は言うけれど、己の道は決めなければならない。黒なのか白なのか。灰色で黒と白の間を漂うのだとすればそれは誰の何のためにやっていることなのか。いずれにせよ、人は一方を択ばならない。
どうあがいても俺たちは所詮、偏見や作りこまれたイメージから完璧に抜け出すことはできない。本当の答えなんてはじめから誰にも分からないのだから。それを承知の上で人は道を選んでいくべきだと思う。俺がわざわざそうするべきだって言わなくたって、すでに人は勝手にそうしている、気付かないうちに。
あなたが今心に思った些細なその感情にも必ず偏見、間違ったイメージが含まれている。何が正しいかなんて誰にも分からないのだから。俺達人間はその点、不完全でどうしようもない。けれど生きなければいけない、選択だらけの人生を己という手段を使って。

何で俺は、思った事をこんなにもズラズラと書くようになったんか。
正直自分でもはっきりした答えがわかっていないまま思った事をそのまま書き続けている。
俺が高校だったときが、今でも「自分のなかで一番熱かった頃」と思える、今の自分の全ての基盤があった頃だった。あの頃は激しい感情、忘れたくない決心、縛り付けられることへの怒りに心が毎日ドクドク脈を打っていた。自分の事を誰よりも誰よりも一番深く信じて疑わなかった。誰かが俺の事をどんなに馬鹿にしても、すげさんでも、俺は顔で笑っておきながらけして自分の思いを曲げることはしなかった。ずっと持ち続けていた、自分だけの中でたった一人で。 自分の思いは、自分にとってどうしても守り通さなければならないものだったから。 毎晩毎晩、新聞広告の裏の白い余白にありったけの思いを書き散らし、机の引き出しが何度も満タンになるほどの量になっていた。 親にも友達にも誰にも見せなかった、その紙の一枚をも。 もちろん自分の思いを一度として口に出したりしなかった。たやすく喋ってしまえるほどの安い感情じゃなかった、俺にとって全ての感情が。 その反面、口に出したり、誰かと分け合ったりしたら忘れてしまうんじゃないか、この気持ちの激しさがなくなっていくんじゃないかという「自分の激情を失うこと」への恐れがいつも俺の中にあった。だから自分だけの永遠の記憶として引き出しに思いを書きなぐった紙を溜め込んできた。
ならば何故俺はホームページまで作ってこんなにも自分をさらけだそうとしているのか。はっきり言って今もこの行動に意味があるのかないのかは分からない。自分にとってどれだけ意味のあることか・・。
俺はあの頃から比べたら確実に感情に激しさを失ってきている。それはあの頃からもしかしたらそうなっていくんじゃないかと予想がついていたことだったが、やはりそうなった。あの頃いろんな大人たちが語っていたように、20ごろになるといくらか落ち着いてきた。俺はこれを巨大な損失だと思う。時が経つにつれ失いかけている激しさがとても嫌で、こわくてたまらない。俺にとって勢いと激しさを失うことは自分を見失うことと同じだからだ。
そこで、話は戻って、何故自分の気持ちをここで誰かにみせることにしたか、自分の感情を守る事をやめたか。それは自分の最後の挑戦なんだ。時と共に擦り切れ、消えていくあの頃の激しさを感じながら、「口にするぐらいで消えてしまう自分の感情ならそんなヤワなものいらない!」と自分の感情に対して最後の追い詰めをかけてみたったからだ。 俺は今、自分の情熱がどれだけ激しいものか、信じるに値するものか、それをさらけ出す事で確かめてみようとしている。

このホームページに書いてきた全ての言葉達は本当なら自分の中だけで留めておくはずだった、俺の俺に対するメッセージと、俺の社会に対する見解なんだ。

軟弱な心で震えながら、「情熱が欲しい」なんて書いたりしてきたのも自分を励ますメッセージだったり、人を批判しながら自分の道を正したり、これは俺による、俺のための大切なページなんだ。

俺が何を思っていようときっと気にしないやつが多いだろう。けれどそれでも俺は今、もっと自分をぶつけていきたい、俺はそんなにヤワじゃないぜ、かかってこいよ! そんな気持ちでこの感情を外にさらけ出している。

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