月別アーカイブ / 2004年12月

今日は友達に誘われて地元四日市のおじさんバンドを見にいった。そこまで乗り気でもなかったけれど行ってみてとてもよかった。人も話も聞いてみるもんだ、たまには。と思った。すごく落ち着いた感じのお洒落なバーのカウンターとレストラン、そして人の雰囲気がとても親しみやすいにぎやかで和気藹々とした大人の空間だった。
そこで出会った人達が俺の心を取り戻してくれた。彼ら、彼女達は何もしてないのだけれどただ話しているだけで、昔の純粋なままの心に立ち返る事ができ、話しているうちに自然と笑顔が自分の顔からこぼれだしていた。 そしてその時、その人達が自分より8つも9つも年上なのに純粋なまま生きてきたかを感じた。 そしてそれと同時に自分の心がどれだけ擦れていたかをひしひしと感じた。子供を持つ主婦だって言っていたけれど信じられないぐらい輝いた笑顔をしていて優しかった。 それと同時にものすごく傷つきやすくナイーブであることもすぐに感じられた。 俺もそうだった。傷つけられて泣くまでは。 あのままでいられたらそれが一番幸せだったのかもしれないなんて擦り切れた心を持って思った。 そして、今日思ったことは、その心はもう取り戻せないのじゃなくて環境に浸る事でもう一度取り戻すことができるということだった。 環境は人を変える。 擦れあう社会にいれば心は荒み、やわらかい優しさの中にいれば心は笑う。 決めるのは、どうなりたいかということだけだ。

お前にわかってもらおうなんて思わない、お前を変えてしまいたいなんて思わない、ただお前が俺の求める人間じゃないと分かったら、俺は静かに離れていくだけなんだ。お前の人生を傷つけたくはない、もしもそれが俺に背負いきれぬ傷ならば。
愛しているなんてこの口から口が裂けてもいえまい。そいつの人生を背おって行く覚悟ができるまで、俺はひたすら黙り続けて、一人、自分の中に愛の覚悟を探しにいく。
俺が言葉を放つ時、お前には何の心配も裏切りもなく、ただ真っ直ぐな瞳で、俺についてこさせてあげたいから。

人のいう事を聞くということは大事だけれど、誰かのあとを付いて行くことはない。 自分が正しいと思うことを信じて行けばいい。たとえそれが一人だとしても。 それじゃぁ不安になるって、そんな事当たり前だ。自分だけが道を外れて間違った方向に進んでいるんじゃないかと、とてつもない不安が心を襲うだろう。 けれど、大衆が進む道が正しいなんてそんなこと言い切れない。お前はお前の道を行け。それがお前の生きている意味だろうが。何も考えずみんなの後を追っていくだけならばお前の存在などこの広い世の中の中で必要のないものなんだ。100億の鳥の群れの中の小さな小さな一羽の存在。それは群衆の中で大きな意味を成さない。その鳥の大群の先頭を率いる数羽の鳥達が間違って地獄へ向かって飛んでいるのだとしたら、その鳥の群れは全て滅びてしまう。誰もが当たり前のように信じている事が真実だとは限らない。「常識」ってものは正しくないかもしれない。 そのことにさえほとんどの人達は気が付いていない。地獄へ向かう鳥の群れか光に向かう鳥の群れかも分からずに、その中にまみれて群れからはぐれないことだけに必死になって命を燃やし、飛び続けている。お前はお前として生きているのに、そんなためだけに生きているなら与えられた命の意味は何なんだ? どの鳥も光にたどり着きたいんだ。けれど、どうしたらいいかを知らない。 どうしたらいいか、それは自分に問いかけること、自分の瞳のくもりをぬぐって澄んだ瞳で世界を見回すこと、探すこと。 そして周りがどうであろうと自分の思いを素直に信じぬくこと。 自分が一羽のはぐれ鳥であっても命の限り飛び続けること、信じる方向へ。 誰かの後をノコノコ付いていくだけで光に導かれるなんて、人生そんな甘いものじゃない。 自分で探さなければ見つからない。当たり前のことだ。

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