月別アーカイブ / 2020年04月

妥協とは
私たちの言語の中で
最も醜い言葉の一つだ

私は半分提供する
あなたも半分提供しなさい

私は半分で手を打つ
あなたも半分で手を打ちなさい
という意味だ

#Compromise #妥協
#OshoZenTarot
NMSyftg8AD.JPG_5005.JPG
決して妥協しないことを覚えていなさい。

人々を見てごらん

彼らはあらゆる点で妥協したがために
不幸なのであり

自分が妥協したがために
自分を許すことができないのだ

彼らは自分が勇気を
出せばできることを知っていたが
臆病であることを証明した

彼らは自尊心を失ったのだ
それが妥協のすることだ

なぜ妥協する必要がある?

私たちに失うべき
何があるというのかね?

このちっぽけな生のなかで、
全面的に生きなさい。

極端に走ることを
恐れてはいけない

全面的にあること

だから
妥協してはいけない

あなたのマインドは
妥協に進もうとする

それはあなたたちがそのように育てられ
条件付けられたからだ

だがなぜ? 
全部手に入れてもいいのにというのに
ケーキを食べて 

しかも残りも手に入るというのに
なぜ妥協するのか

ほんのちょっとの勇気
ほんのちょっと度胸
それも最初だけだ

一度
妥協しないことの美
それがもたらす尊厳
その喜び
その正直さ
自分の個を体験したら 

あなたはその時初めて
自分には根があること
自分には中心を持っていること
自分が自分で生きていること
ビジネスマンのようには
生きているのではないと感じる

妥協で勝者になるくらいなら
全面的に敗者の方がましだ

そんな勝利は卑屈さ以外の
何も与えはしないが
妥協のない敗北はあなたに
なお尊厳を与えるだろう

生は神秘的だ

ここでは決して
妥協しようとしないがゆえに
勝利が単なる恥でしかなく
敗北が尊厳であるような時がある

何のために妥協するのか?

真実でありなさい
正直でありなさい
誠実でありなさい
出来る限り愛しなさい 
自分の感覚を楽しみなさい

それは自然の贈り物だ
そして見守っていなさい

なぜならあなたが楽しんでいるものは
他のあらゆる人の権利でもあるからだ

さもなければそこに葛藤が生まれる

そしてその葛藤ゆえに
人々は妥協する

あらゆる伝統が
表現することに反対してきた

表現する人は
ある種の堅固さを
自由を達成するからだ

彼を奴隷にすることはできない
彼は自分自身の本性に従って生きる

そして感覚的でありなさい

生を全面的に楽しみ
そして他の人が生を
全面的に楽しむのを
助けてあげなさい

そうすればあなたは
不思議なことに
あなたの愛
あなたの感覚ゆえに
あなたのすべての醜い特徴が
もはや何のエネルギーも得られなくて
消えているのが分かるだろう… 

それは倒錯だった
それはあなたの
妥協の副産物だったのだ

どんな理由でも妥協してはいけない
品位も名誉も全てのナンセンスだ

あなたが手にしているのは
ほんの小さな生だ

尊厳など気にすることはない
名誉など気にすることはない
他人が何を言うかなど
気にすることはないのだ

ただ自分自身のエネルギーに
耳を傾け
それに従いなさい

私はそれを
勇気と呼ぶ

Osho

あなたのハートを動かすもの
あなたを乗っ取ってしまうもの

収まりきれずに
あふれ出すもの

それが涙を流させる
_var_mobile_Media_DCIM_106APPLE_IMG_6019.JPG

あなたは
愛し方がわからなかった


あなたは
愛され方がわからなかった

ただ
それだけのことだ

涙であふれた目には


真理を見る力がある


だから
泣いてもいい


#Ice-Olation #涙 #ハート 
#LearningLove #OshoZenTarot

https://www.nakazaki-salon.com/

#Consciousness  #意識 #OshoZenTarot
N5ZzFR3CEb.JPG_5005.JPG
対極に移るのはまったくやさしい

たとえば、過食する人間にとって
断食するのはやさしい。
でも、節食するのは容易ではない。 

しゃべりすぎの人間にとって
沈黙するのはまったくやさしい。
でも、言葉を少なくするのはできない。

過食する人間にとって
ぜんぜん食べないことはまったくやさしい。 

それは対極だ。 

でも、適度に食べること、 
中間に至ることはまったく難しい。

また、誰かを愛することはやさしい。
憎むのもやさしい。
でも、ただ無関心でいることは
まったく難しい。 

人は一方の極から他方の極へと移る。
中間にとどまるのは まったく難しい。 

なぜか?
それは中間ではマインドがなくなるからだ。 

マインドは「極」に存在する。
マインドとは極端を意味する。
マインドは常に過激派だ。
味方するか、敵対するかのどちらかだ。
中立ではいられない。 

マインドは中立性とは相容れない。
「ここ」か「あそこ」なら存在できる。
なぜならマインドは
対立を必要とするからだ。 

マインドにとっては
何かに対立することが必要だ。
何にも対立しなかったら、
マインドは消え失せる。
もはやマインドの仕事はなくなる―
機能できなくなる。

これを試してごらん。
どんなやり方でもいいから、
中立的に、無関心になってみる。
すると、突然、
マインドは機能しなくなる。
何かに味方すれば思考が始まる。
でも、味方も敵対もしなかったら、
どこに考えることがあるのだろう。

ブッダいわく、
この無関心こそ中道の基本だ―
ウペクシャ、「無関心」だ。
極端に対して無関心になってみる。
すると、あるバランスが現れる。

このバランスは
新しい次元の感覚をもたらす。 

その次元では、
あなたは「知る者」であるとともに
「知られる者」であり、
この世界であるとともに
別世界であり、
「これ」であるとともに「あれ」であり、
体であるとともに心だ。
あなたはその両方であり、
また同時にそのどちらでもない。
あなたは両方の上にいる。
三角形が出現する。

みんな見たことがあると思うが、
神秘学や秘教的な結社では、
さかんに三角形が象徴として使われてきた。
三角形は最古の
神秘学的象徴のひとつだ。
というのも、
三角形には角が三つあるからだ。
人には角が二つしかない。
三番目の角は欠けている。
それはまだない。
まだ進化していない。
三番目の角は両方を超えている。
両方はそれに属している・・・・
その一部だ。
でもそれは両方を超え、
その上方にある。

この技法をやってみれば、
自分の中に三角形を作ることができる。
三番目の角は序々に現れる。 

そしてそれが現れたら、
もはやあなたから苦はなくなる。
観照できるようになったら、
あなたから苦はなくなる。
苦というのは
何かと同化することだ。

ただ、ここに微妙な一点がある。
観照できるようになったら、
そのときには至福との同化もなくなる。
だからこそ、ブッダは言ったのだ。

「私にはこうしか言えない―
そこに苦はない。
サマディーの中、
エクスタシーの中に、
苦はない。
だが、
そこに至福があるとも言えない」

ブッダいわく
「そのようには言えない。
ただ、そこに苦はないと言えるだけだ」

彼の言うとおりだ。
なぜなら至福とは、
いかなる種類の同化も存在しないことだからだ・・・ 
至福との同化でさえも。

これは大変微妙だ。
もし「自分は至福に満ちている」と感じたら、
やがて再び苦の中に入る。 

「自分は至福に満ちている」と感じることは、
再び苦へと入る準備をすることだ。
つまり、それもまた気分との同化だ。

たとえば、あなたが幸せを感じる。
そして幸福と同化する。
幸福と同化するとき、
不幸は始まる。

いまや、あなたはそれに執着し、
その反対を恐れ、
「いつもそれが自分のもとに
存在するように」と願う。 

それによってあなたは、
苦の出現に必要なものを
すべて生み出す。
かくして苦が現れる。 

そして、幸福に同化する人間は、
苦にもまた同化する。
同化こそ病気だ。

しかし、
三番目の点では何かに同化することはない。 

たとえ、何が来ようとも、
そして去って行こうとも、
あなたはただ観照者のまま、
見物人のままだ―
中立的で、無関心で、同化していない。

朝が来て、
太陽が昇り、
あなたはそれを観照する。
でも別に「私は朝だ」とは言わない。
やがて、昼になっても、
別に「私は昼になった」とは言わない。 

そして、
太陽が沈み、
闇が訪れ、
夜となっても
「私は闇であり夜である」とは言わない。
ただ、それを観照し、
そして言うだけだ。

「かつて朝があって、
昼になって、
夕方になって、
そして今、夜がある。
そしてまた朝になり、
この循環は延々と続く。
でも、私はただの傍観者だ。
私は観照を続ける」

もし、同じことが気分に対しても
可能になったら・・・・・

朝の気分、昼の気分、夕方と夜の気分・・・ 

気分には気分の循環があり、
延々と動き続ける。 

あなたは観照者となる。
そして、言う

「今、幸福がやってきた。
ちょうど朝のようなものだ。
そして今に夜がやってくる・・・・苦だ。
気分は朝をめぐって変わり続けるが
私は自分自身に中心を据えたままだ。
どんな気分にも同化しない。
どんな気分にも執着しない。
私は何も望まないし、
欲求不満に陥ることもない。
私はただ、観照者だ。
何が起ころうともそれを見る。
それがやってきたとき、
私は見る。
それが去るとき、
私は見る」

ブッダはこれを何遍も使った。
彼は繰り返し、
繰り返し言った、

「想念が現れたら、
それを見なさい。
苦の想念、幸福の想念が現れるとき、
それを見なさい。
それが頂点に達するとき、
それを見なさい。
そして、それが消え去るとき、
それを見なさい。
そして、それが傾き始めたとき、
それを見なさい。
そして、それが消え去るとき、
それを見なさい」

現れ、とどまり、消える・・・・・
あなたは観照者としてとどまり、
それを見つめ続ける。

この三番目の点が、
あなたを観照者すなわち「サクシ」にする。
そして、
観照者であること、
それは意識の最高の可能性だ。
            

Osho/ヴィギャン・バイラブ・タントラ
「存在とひとつに」より

↑このページのトップへ