始まりと終わりは同じ意味だ、と思った。
何の変哲も無い、所謂コインの裏表の話だ。
しかしその理屈は、言い換えれば即ち、始まりも終わりも存在しない、という事を指していた。
もしも始まりが終わりで、終わりが始まりならば、何も終わっていないし、何も始まっていない、と言えるからだ。

ならば、数字で考えてはどうか。0が始まりではないのか、と彼に問うてみる。
すると逆に、では、例えば数字の果ては何という数字なのか、と問われる。
私は、無限である、と答えた。
そして彼は更に続けた。
では、同じように、その数字の最下限は何という数字なのか。
そこで初めて、0とはその数直線上に対して設けられた基準点でしかないのだと気が付いた。
時間やなんかと、同じだ、と思った。
では、この命の始まりは?
と、反論してみようとしてすぐに、それが、私が生まれ落ちた瞬間だ、とは言い切れない事に気が付き、やっぱり何でもない、と言った。
生命の始まりを辿っていけば、その思案は大気圏を突破し、宇宙の外側にまで及んでしまうからだ。そして結局、人智の壁に阻まれ、メソメソと脳に戻ってくる。当然、生命の行く末に対しても同様であった。

そうして私は、確かなものなど、この世界に何一つ無い事を思い知らされる。
物事の対を絶つ程に確かなものなど、結局この世界にひとつも見つける事が出来なかったからだ。
絶対に、絶対など無い。
皮肉にも、それだけが唯一存在する確かな事実であった。

ここまで考えて、私はこの思案の本質を理解し始める。
見つからないものを見つけようとする姿勢そのものが、人間を人間たらしめる理由なのだと。
逆に言えば、不確かなものに対し確かなものを見出せる生命こそを、人間と呼ぶのだ。
誰もが、自分の中に自分だけの0地点を見つけながら暮らしている。そうやって、不確かなものに対し自分だけの基準を設けながら生きている。
確かなもの、とは、探して見つけるものではなく、自ら作り出すものなのだ。

そして、重要なのは、そうして自分で設けた基準を、自分自身で絶対と信じてあげられるかどうかだ。
何故ならそれには、大きな勇気を伴うからである。

の語源の話。
一説には、憑かれた、とあるようだ。
すると、
つかれた。の反対語は
ついた。になる訳か。
つまり、

今日は憑いてる(運が)。

なるほど。
ならばこの場合、
憑いてくれている(運が)。
というべきなのだろうね。

今日は憑かれている
今日は憑いてくれている

では、今僕は何に憑かれているのだろう。
そう考えてみて、どちらの文章に対しても『自分が』という言葉を当てはめようとするあたり、僕はナルシストで、内罰的だなと思う。
だってさ、自分以外の何かに結果の原因を求めたら、負けな気がするやん。負け、という言葉が相応しいかはわからないけれど。
自分に良い結果が齎されても、その原因は自分以外の何かや誰かにある。悔しいよねそれって。
悪い結果に対してだって、自分に原因を求めなけりゃ楽は楽なんだけれども、よくよく考えてゆくと、悔しくなってくる。
自分の行動に結果が伴わないのは、悔しいんだよ。
無責任は、悔しい。
だから、

今日は憑かれている
今日は憑いてくれている

自分の言葉には、しっかり自分を当てはめて生きよう。


ってな事で。
今日もみんな、おつかれさま。
おやすみん

地球上に在る泣いている人間の割合が、それ以外の人間の割合より多いとき、空が泣くのだ。
という話をどこかで聞いたなあと思いながら、まだ小雨の街路を足早に行く。
じゃあお前はきっと、少数派なんだなあ。だって、機嫌が良い日にゃ雨が降るし、嵐がきたって怒っちゃない。
そんな全世界の憂いと反比例する曲者が口を曲げながら今日は珍しく
「雨の日は、気分が暗くなるね」
と言った。
やめてくれ、最後の砦よ。どうか多数派に丸め込まれないで。いつもの調子で笑っておくれよ。

でもさ少し、わかるよ。

雨足が随分と大きな足音を立てる頃、僕は潰れた本屋でひとり、雨宿り。
この空が泣き止む頃、お前はずぶ濡れで泣いているのかな。
そうであって欲しいと願う僕は、勝手だね。
どうかせめて、この雨がもう少し止みませんように。

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