このアルバムの制作に着手し始めたのは、今年の‪5月22日‬。
僕らは前作のリリースツアー、"ReFocus"の真最中。その盛岡公演での本番前、空き時間の事だった。
僕は、近くにあった神社の隣の小さな公園に亮を呼び出し、境内と公園とを隔てた花壇の岩にちょんと腰掛け、次どんなの作ろうか、と言った。
「終わりをテーマにしたアルバムを作りたい」と亮は言った。
僕と亮は、基本的には全く違う人間であるが、要所の捉え方が似ている。あるいは、似ていったのかもしれない。
"終わり"というテーマは、僕の中にあった"原点回帰"というキーワードとあまりにも重なっていたが、別段驚く事も無く、互いにそう考えることは、僕らにとっては自然な事に思えたので、僕はうん、とだけ返事をした。

NoisyCellとして初めて制作したアルバム"Across"から、その時点での最新作"Focus"までを通し、このバンドは変化を続けてきた。その理由は、変化をする必要が、自分達の中に、常にあったからだ。
僕らは、恵まれた事に、NoisyCellとして"デビューする"所から、その足跡を連ねている(そもそも、デビューしてた事すら知らない人の方が多い気がするけれど)。ろくにライブもした事の無い素人連中を、VAPという会社が拾い上げてくれて、素晴らしいステージを、今日に至るまで幾度も拵えてくれた。
その度、そうしてかけてくれた様々な期待と、それに応える事が出来ない自分達との間にある歴然とした差を、感じさせられ続けてきた。
実力が足りない。
一刻も早く変化しなければならなかった。
僕らは闇雲に、走った。
自分の心を掘削した。その先には、誰も見たことの無い宝石のようなキラキラしたものが埋まっているものだと信じた。
しかし、そんなものは、砂粒程も見当たらなかった。
その宝石とは即ち、覚悟に基づいた意志そのものに他ならなかったからだ。
血を吐くような覚悟も、誇れるような意志も、これまで持てていなかった事に、僕はそのときようやく気付かされた。
そんな空っぽな自分を嘆いて、嘆いて、責めて、恥じて、嘆いた。
丁度、"Colors"というアルバム作っていた頃だったと思う。

それからというもの、空っぽに気付いた僕らの空っぽに、自らで想いを注ぎ続けた。また、今日に至るまで、本当に沢山の関係者や、何よりいつもサポートしてくれている、今このブログを読んでくれているあなたが、その想いをNoisyCellという空っぽに注いでくれた(気付いてないと思うけれど)。
そうしてようやく、変化しなければ、という想いに首輪を引かれてきただけだったはずの僕らが、変化し続ける、という想いを胸に、自分達の意志によってその足を動かせるようになっていった。

始まりとは何かの終わりであり、また終わりとは何かの始まりだ。
ずっと力を貸してくれていたVAPを離れ、8年の月日を経た今、もう一度僕らは、言葉通り、自分達の力だけでアルバムを作った。
そんな僕らだけにしか意味の無い事実が、どこに、誰に、どれくらいの意味を持つのだろう?
いずれにせよ、僕らが伝えたい事、伝えられる事はいつだって、出来上がった作品が自分達にとってどれ程大きな意味を持っているのか、という事以外に、無い。

売り上げでいったら、きっとYour Handsが一番だ。
それを悔しくないと言ったら嘘になる。
悔しい。そりゃあ悔しいよ。
でも僕らは今日までずっと、そんな悔しさを糧に、真っ直ぐ足跡を残して来たんだ。
4人が生み出す1つの色が一体何色になるかなんて、これまでもこれから先も、僕らにこそ分からない事だし、考えてさえいない。
そんな事より僕らにとって大切なのは、それが4人で生み出した色だという事実と、今の4人で生み出す色が、一番綺麗だと4人全員で思えている今だ。

明日は、8年旅を続けて原点に立ち戻った僕たちの今を、しっかり聴き届けて欲しい。

New Album 「8.」
どうぞ思い切り、楽しんで下さい。

始まりと終わりは同じ意味だ、と思った。
何の変哲も無い、所謂コインの裏表の話だ。
しかしその理屈は、言い換えれば即ち、始まりも終わりも存在しない、という事を指していた。
もしも始まりが終わりで、終わりが始まりならば、何も終わっていないし、何も始まっていない、と言えるからだ。

ならば、数字で考えてはどうか。0が始まりではないのか、と彼に問うてみる。
すると逆に、では、例えば数字の果ては何という数字なのか、と問われる。
私は、無限である、と答えた。
そして彼は更に続けた。
では、同じように、その数字の最下限は何という数字なのか。
そこで初めて、0とはその数直線上に対して設けられた基準点でしかないのだと気が付いた。
時間やなんかと、同じだ、と思った。
では、この命の始まりは?
と、反論してみようとしてすぐに、それが、私が生まれ落ちた瞬間だ、とは言い切れない事に気が付き、やっぱり何でもない、と言った。
生命の始まりを辿っていけば、その思案は大気圏を突破し、宇宙の外側にまで及んでしまうからだ。そして結局、人智の壁に阻まれ、メソメソと脳に戻ってくる。当然、生命の行く末に対しても同様であった。

そうして私は、確かなものなど、この世界に何一つ無い事を思い知らされる。
物事の対を絶つ程に確かなものなど、結局この世界にひとつも見つける事が出来なかったからだ。
絶対に、絶対など無い。
皮肉にも、それだけが唯一存在する確かな事実であった。

ここまで考えて、私はこの思案の本質を理解し始める。
見つからないものを見つけようとする姿勢そのものが、人間を人間たらしめる理由なのだと。
逆に言えば、不確かなものに対し確かなものを見出せる生命こそを、人間と呼ぶのだ。
誰もが、自分の中に自分だけの0地点を見つけながら暮らしている。そうやって、不確かなものに対し自分だけの基準を設けながら生きている。
確かなもの、とは、探して見つけるものではなく、自ら作り出すものなのだ。

そして、重要なのは、そうして自分で設けた基準を、自分自身で絶対と信じてあげられるかどうかだ。
何故ならそれには、大きな勇気を伴うからである。

の語源の話。
一説には、憑かれた、とあるようだ。
すると、
つかれた。の反対語は
ついた。になる訳か。
つまり、

今日は憑いてる(運が)。

なるほど。
ならばこの場合、
憑いてくれている(運が)。
というべきなのだろうね。

今日は憑かれている
今日は憑いてくれている

では、今僕は何に憑かれているのだろう。
そう考えてみて、どちらの文章に対しても『自分が』という言葉を当てはめようとするあたり、僕はナルシストで、内罰的だなと思う。
だってさ、自分以外の何かに結果の原因を求めたら、負けな気がするやん。負け、という言葉が相応しいかはわからないけれど。
自分に良い結果が齎されても、その原因は自分以外の何かや誰かにある。悔しいよねそれって。
悪い結果に対してだって、自分に原因を求めなけりゃ楽は楽なんだけれども、よくよく考えてゆくと、悔しくなってくる。
自分の行動に結果が伴わないのは、悔しいんだよ。
無責任は、悔しい。
だから、

今日は憑かれている
今日は憑いてくれている

自分の言葉には、しっかり自分を当てはめて生きよう。


ってな事で。
今日もみんな、おつかれさま。
おやすみん

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