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CIOを三日で辞めてみた。
とはいうものの、僕は会社の代表のことも社員さんのことも変わらず好きだし、その人達を支えるお友達のことも変わらず好きだ。
約束をしたので、ベトナムにはまた必ず遊びに行く。
そして、ネチネチと後味悪くなるのも嫌なので、森田さんとも呑みに行く。
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なので、この件は終わり。

当事者以外には何の関係もないことだ。
それでも、ワイドショーに意見するババア的に生きていきたければ、引き続き、意見することに時間を費やせばいいと思う。

ただ一つ。

今回のようなことがあると、必ず
「大人げない」
「もっと我慢すべきだ」
「せっかくいただいた仕事なんだから…」
「社会人としてチョット…」
という意見を主張する輩が必ず大量
発生する。

つまり、「仕事とは我慢」「大人とは我慢」で、その発言の裏にうっすらと見え隠れするのは「俺も我慢してるんだから、お前も我慢しろよ」。
これについては、僕が僕の仕事を僕のタイミングで辞めただけなので、「知らねーよ、バカ」と言わせてください。

そして、ちょうど、この問題に対する考えを、来月発売の『革命のファンファーレ』に書いていたので、いい機会だし、今日ここにアップします。
テーマは『信頼の勝ち取り方』について。
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《革命のファンファーレ》
信用の勝ち取り方

 

信用の勝ち取り方については「料理をふるまう」「ボランティアに励む」などなど、いろいろあるのかもしれないけれど、他人の話をしたってしょうがないので、"僕の"信用の勝ち取り方について語ることにする。『好感度』ではなく『信用』の勝ち取り方だ。『認知』ではなく、『人気』の勝ち取り方だ。

適当に参考にしてくださいな。

 

タレントとして信用を勝ち取る為に、まずは「噓をつかない」ということを徹底した。

仕事だからといって、マズイ飯を「美味い」とは言わない。

それが、「美味い」と言わなければいけない現場だとしたら、そもそも、そんな仕事を受けない。

昔、グルメ番組に出演した時に、釣りたての魚を漁師さんが船上でさばいてくださって、他のタレントは「新鮮で美味し~い」と食べていたが、シンプルにマズかった。あと、まな板が汚かった。やっぱり魚は1~2日置いた方が美味しい。

 

ただ、タレントは、この場面で「マズイ」とは言えない。

言ったところでカットだ。

テレビに出るからには「新鮮で美味し~い」と言わなければならないのだが、その頃、ツイッターのタイムラインには「あれは噓だよ。魚は1~2日置いた方が美味しいよ」というコメントが流れている。テレビに出演しながら、一方で、そのタイムラインを見た人達からの信用を失っているのだ。

タレントは噓をつかざるをえない環境に身を投じ、信用を失ってしまうわけだ


噓は「感情」でつくのではない。僕らは「環境」によって噓をつかされる。


以上の理由から、僕は、噓をつかざるをえない環境にあるグルメ番組のオファーは全てお断りするようにした。

「美味い」という言葉を避けて、上手に食レポをする能力があれば話は別だが、僕にはそんな能力はないので、グルメ番組は全てお断り。

 

意思を明確に表明する 

 

 もう1つ。

「噓をつかない」ということは「自分の意思を明確に表明する」ということと同義だ。

というわけで、相手が大先輩のナインティナイン岡村さんであろうが、テリー伊藤さんであろうが、言いたいことは言う。そして言いたいことが言える環境を作っておく。

 

たとえば。

いろんなところでニュースになったので御存知の方もいらっしゃるかもしれないが、僕は今年の春、番組収録中に帰った。

『えんとつ町のプペル展』の取材に来てくださった番組のディレクターさんが、


「今日のファッションは意識高い系ですかぁ?」

「プペルの印税は、ちゃんとスタッフに分配してますかぁ?」

「ていうか、返し、普通ですねぇ」

「プペルの値段、高くないですかぁ?」

「さっきから、お高くとまってんですかぁ?」


といった言葉をぶつけてきたからだ。

 

やりたいことは分かる。


きっと『アメトーーク!』での東野幸治さんや、『ゴッドタン』での劇団ひとりさんや、おぎやはぎさんがやられているような「イジリ」をしたかったのだと思う。

ただ、東野さんや、劇団ひとりさんや、おぎやはぎさんと、そのディレクターが決定的に違う点は「そこに信頼関係がなかった」ということ。

芸人の「イジリ」は信頼関係で成り立っている。

東野サンの無茶ブリに応えるのは、「結果がどちらに転ぼうと東野さんが拾ってくれる」という東野さんに対する絶対的な信頼があるから。 

 

問題は「何を言ったか?」ではなく、「誰が言ったか?」だ。


信頼関係のない「イジリ」はイジメだ。


イジリとイジメの境界線は言葉の強弱ではなく"信頼関係の有無"だと僕は考える。

まだ信頼関係が築けていない後輩を部室に呼び出して、パンツを脱がせて「イジってやってるんだから、ちゃんとリアクションをとれよ」というのはイジメだ。

当然、イジメに参加し、それを「面白いでしょ?」とテレビで流すわけにはいかないので、その時僕は、収録中に帰ることにした。

ここで僕が明確に表明した意思は『イジメには徹底的に参加しません』だ。

 

意思を表明できる環境を作る

 

この問題は連日テレビで取り上げられた。

『サンデー・ジャポン』という番組で、コメンテーターの西川史子さんは「こんなこと、タレントをやっていたら日常茶飯事。私も経験があるけど我慢している。西野さんも我慢すべき」とコメントされたが、過労自殺をした方の御遺族の前で同じ台詞を言ってみるといい。大変なことになる。

 

それと、もう一つ。

さも「帰らずに我慢している自分は、人として一枚上手」といった感じで話されていたが、そもそも西川史子さんに「収録中に帰る」という選択肢があったのかは甚だ疑問だ。

 

当然だが、これによって、僕は前述の番組には未来永劫出られなくなる。

その番組を放送しているテレビ局との関係も際どいところ。

「面倒クセー奴だな」となると、似たような番組のオファーもなくなる。

テレビの仕事が遠退くわけだ。

テレビを収入源にしているタレントさんにしてみれば、これはなかなか厳しい選択だ。

つまり僕の言い分を要約すると、

「帰らないんじゃなくて、"帰れない"んじゃないの? そもそも、帰るという選択肢を持っていないのに、『私なら残ります』とか言ってませんか?」

といったところ。

 

もう一度言うが、「噓をつかない」ということは、「自分の意思を明確に表明する」ということだ。

ことテレビに関して言えば、テレビ以外の収入が安定していないと、なかなかテレビには意見しづらい。

自分の意思を明確に表明する為には、意思を明確に表明できる環境を作っておく必要がある。

感情は環境に支配される。



《革命のファンファーレより》━━━━━━━━━━━

文章を切り取っているので、話の途中から始まって、話の途中で終わってはいるが、つまり、こういうことだ。
「《選択している》風な立場から意見しているけど、あなたに選択肢あるの?」


「大人」って何だ?
自分の身の丈に合っていないのに、それでも皆に合わせて我慢しながら生き、そして、ついには
「社会人なんだから」
「お前も大人になれよ」
と他人に我慢を強要することなのか?

その時、「大人」を強要した他人が精神的に潰れて、たとえば自らの命を断っても、それでも、その主張を貫けるか?
どうせ黙りこむだろう?

それが「大人」というのなら、そもそも僕とは「大人」の定義が違う。
僕が子供の頃に憧れた「大人」はそういう生き物ではなかったので。

 
会社でツライ目に遭っているヤツへ。
学校でイジメられているヤツへ。

周りは
「大人なんだから!」と言うし、
「これぐらい我慢しろ!」と言うし、
「学校に来い」と言うし、
「学校に行きなさい」と言うだろうけど、

逃げていいと思う。


僕は、
「辞める」というのも、
「学校に行かない」というのも、
一つの行動だと思っている。
仕事よりも、学校よりも、自分の身体を守ることの方が大切だ。
ルールも大切だけど、自分の身体の方が大切だ。
身体を失ってしまうと、ルールを守ることも、破ることも、何もできなくなる。


あと、これは、これからの時代の仕事の話になってくるんだけれど…

ストレスのかかる仕事から、ロボットに代替えされていく時代に、ストレスを美徳として、ストレスを選んで、そこに何が残るんだよ。
「駅の改札の切符は、手で切るべきだ!そういうものだから!」と言っているようなものだ。バカかよ。
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「給料=ストレスの対価」という考えが、まだまだ深く根付いているけれど、ストレスがかかる仕事が、どんどん無くなっていくじゃないか。


身体のことを考えても、
これからの仕事のことを考えても、
仕事を「続ける/辞める」の選択も、
学校に「行く/行かない」の選択も、 
もっとカジュアルでいいし、
他人の選択に対して、まわりがとやかく言うことじゃない。
その人の人生だ。

僕は、「ひな壇に出ない」という選択をして、数年後に、僕にしかできない仕事をたくさん手に入れた。
僕は今、自分の好きな仕事しかしていないし、たぶん、ここでは本当のこと(生々しいこと)を言った方がいいと思うので、言うけれど、『はねるのトびら』とかをやっていた頃よりも、今の方が収入が上だ。
ちなみに、収入にはマジで興味がないけど。

僕の友達に、ゲーム会社でバリバリ働いているヤツがいるんだけれど、元は、学校にも行っていない引きこもりのゲーマー。
「社会人として病」の親や学校の先生は彼からゲームを取り上げて「学校に行け行け!」と言ったが、彼は頑として家に引きこもった。
そこで学校に行っていれば、もしかすると、今の彼は無かったかもしれない。
好きなことをやれているから、他人の人生に口を挟まないし、とにかく目が生きている。
それも一つの生き方だ。

最高じゃないか。




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