『天国への階段』と呼ばれる『コルディリィーラ棚田』を堪能し、次は古都『ビガン』へと向かう。
『ビカン』に行くには、『バダッド』から『バナウェ』に戻り、そこから『バキオ』を経由して、『ビカン』という流れ。
出てくる単語のドラクエ感がすごいのである。
中でも、『バキオ』と『ビガン』は、かなり殺傷能力が高めの魔法だ。
そんなこんなで古都『ビガン』に到着。
朝に出たのに、到着した頃には、すっかり日が暮れていた。
ビガンは、街ごと世界遺産に指定されているが、このアクセスの悪さから観光客は少ない。超穴場スポットである。
ここには16世紀にスペインに統治されていた頃の街並みが残っている。
おかげで、まるでヨーロッパにワープしたような錯覚に陥る。
これだ。
太平洋戦争中、アメリカ軍は日本軍の侵攻に対抗して、ビガンを砲撃しようとしたが、「もう、この街周辺には日本軍兵士はいないから…」とドイツ人神父のクレカンフという奴が、米軍に訴え、この砲撃は取りやめになった。
クレカンフという奴は、日本軍の高橋フジロウ大尉とナリオカ・サカエ将校から、「現地で結婚した私たち日本兵士達は愛する家族を残して敗走するので、戦争によってこの美しい街が爆撃・破壊・略奪されることのないようお願いします」と懇願されていた。
二人の日本人が、この街並みを救ったのである……と、W氏(Wikipedia)は言っている。
夜も深くなり人通りも減ってしまったので、街の散策は明日に回し、ホテルに入った。
僕ときたら、NSC(吉本興業の養成所)の講師陣に「10年に一人の逸材」と言わしめた超天才児でして、デビュー2秒後には爆発的に売れたので、潤沢な貯金があるのだが、一流ホテルは日本と変わらないので、ホテルは「地元ならでは」感を醸し出してい『Vigan Hotel』を選んだ。
【住所】P.Burgos St., Cor. V. de los Reyes St.(メインストリートから近く)
【電話】077-722-1906
【料金】一泊、ダブルで595ペソ
翌朝、ビガンの街を散策。

町の真ん中を走る『クリソロゴ通り』という『鶏そぼろ』みたいな名前のメインストリートは全て石畳。
ヨーロッパのようで、だがしかし、ときどき木造のベランダなどもあり、様々な文化が混じった、ここにしかない景色だった。
この見事な景色を見ているうちに、この景色を懸命に守った日本人のことを、もっと詳しく知りたくなって、ネットで関連記事を漁ってみた。
少し風情に欠けるが、メインストリートには陽気なフィリピン人が接客してくれるマクドナルドがあって、そこではジョークとWi-Fiがバシバシ飛んでいるのだ。
『ビガン 日本人』で検索してみると、やはり高橋フジロウとナリオカ・サカエの名前が出てきた。
1943年から憲兵隊長としてビガンに赴任していた高橋フジロウ大尉は、戦況が悪くなった日本軍司令部から「街を焼いて撤退し、山中にてゲリラ戦を展開せよ」という命令を受けたが、この命令を無視し、街を破壊することなく撤退したらしい。

アメリカ軍の巨大な火力や、
日本軍の絶対的な命令から、
この街の景色や、この街の人々を守るために、
何もせずに街を空け渡し、フィリピンの山中で人知れず最期を遂げたのだ。
山中でのゲリラ戦なんぞ焼け石に水で、そこに未来がないことなど分かっていただろう。
自分の寿命が見えていただろう。
戦わないことで、自分が死ぬことで、この景色を守ったのだ。
どんな気持ちだっただろうな?
山中に連れていく部下に何と説明しただろうな?
ビガンの街に残した家族には、最後、何という言葉をかけただろうな?
そんなことを思いながら、再びメインストリートに出てみると、ビガンの街がいっそう輝いて、それはあまりにも綺麗で、昼間から涙が出た。
高橋フジロウさん、ナリオカ・サカエさん。
あなた方が命を賭けて守った景色は今日も綺麗です。
西野亮廣独演会in東京(8月12日~19日)
『ビカン』に行くには、『バダッド』から『バナウェ』に戻り、そこから『バキオ』を経由して、『ビカン』という流れ。
出てくる単語のドラクエ感がすごいのである。
中でも、『バキオ』と『ビガン』は、かなり殺傷能力が高めの魔法だ。
そんなこんなで古都『ビガン』に到着。
朝に出たのに、到着した頃には、すっかり日が暮れていた。
ビガンは、街ごと世界遺産に指定されているが、このアクセスの悪さから観光客は少ない。超穴場スポットである。
ここには16世紀にスペインに統治されていた頃の街並みが残っている。
おかげで、まるでヨーロッパにワープしたような錯覚に陥る。
これだ。
太平洋戦争中、アメリカ軍は日本軍の侵攻に対抗して、ビガンを砲撃しようとしたが、「もう、この街周辺には日本軍兵士はいないから…」とドイツ人神父のクレカンフという奴が、米軍に訴え、この砲撃は取りやめになった。
クレカンフという奴は、日本軍の高橋フジロウ大尉とナリオカ・サカエ将校から、「現地で結婚した私たち日本兵士達は愛する家族を残して敗走するので、戦争によってこの美しい街が爆撃・破壊・略奪されることのないようお願いします」と懇願されていた。
二人の日本人が、この街並みを救ったのである……と、W氏(Wikipedia)は言っている。
夜も深くなり人通りも減ってしまったので、街の散策は明日に回し、ホテルに入った。
僕ときたら、NSC(吉本興業の養成所)の講師陣に「10年に一人の逸材」と言わしめた超天才児でして、デビュー2秒後には爆発的に売れたので、潤沢な貯金があるのだが、一流ホテルは日本と変わらないので、ホテルは「地元ならでは」感を醸し出してい『Vigan Hotel』を選んだ。
【住所】P.Burgos St., Cor. V. de los Reyes St.(メインストリートから近く)
【電話】077-722-1906
【料金】一泊、ダブルで595ペソ
翌朝、ビガンの街を散策。

町の真ん中を走る『クリソロゴ通り』という『鶏そぼろ』みたいな名前のメインストリートは全て石畳。
ヨーロッパのようで、だがしかし、ときどき木造のベランダなどもあり、様々な文化が混じった、ここにしかない景色だった。
この見事な景色を見ているうちに、この景色を懸命に守った日本人のことを、もっと詳しく知りたくなって、ネットで関連記事を漁ってみた。
少し風情に欠けるが、メインストリートには陽気なフィリピン人が接客してくれるマクドナルドがあって、そこではジョークとWi-Fiがバシバシ飛んでいるのだ。
『ビガン 日本人』で検索してみると、やはり高橋フジロウとナリオカ・サカエの名前が出てきた。
1943年から憲兵隊長としてビガンに赴任していた高橋フジロウ大尉は、戦況が悪くなった日本軍司令部から「街を焼いて撤退し、山中にてゲリラ戦を展開せよ」という命令を受けたが、この命令を無視し、街を破壊することなく撤退したらしい。

アメリカ軍の巨大な火力や、
日本軍の絶対的な命令から、
この街の景色や、この街の人々を守るために、
何もせずに街を空け渡し、フィリピンの山中で人知れず最期を遂げたのだ。
山中でのゲリラ戦なんぞ焼け石に水で、そこに未来がないことなど分かっていただろう。
自分の寿命が見えていただろう。
戦わないことで、自分が死ぬことで、この景色を守ったのだ。
どんな気持ちだっただろうな?
山中に連れていく部下に何と説明しただろうな?
ビガンの街に残した家族には、最後、何という言葉をかけただろうな?
そんなことを思いながら、再びメインストリートに出てみると、ビガンの街がいっそう輝いて、それはあまりにも綺麗で、昼間から涙が出た。
高橋フジロウさん、ナリオカ・サカエさん。
あなた方が命を賭けて守った景色は今日も綺麗です。
西野亮廣独演会in東京(8月12日~19日)